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「先生。お外が騒がしくなってきましたね。もう白い羽根大聖堂の上階部分はほとんど消えかけています。断罪の塔も役割そのものが意味がなくなるでしょう。聖杯が姿を現す頃合いです。ふぅぅ。休んでる暇もありませんが、どうあっても注がれた生贄達の血液と一緒にあれだけは守らなくてはいけませんよね。けれど、どうしてでしょう。全身がゾワゾワしてきます。何か私の身体を求めている奇特な輩でも現れたのでしょうか。ふむ。では立ち上がらなくてはいけませんね。私は戦うための猫神おかゆ拳を手に入れたのですから」
 白い羽根大聖堂玄関口で神原沙樹率いるネオンテトラと『S.A.I.』によって捏造された偽りの大罪司教に代わって、人間の罪を象徴する悪魔達と戦闘を星柄のモンペに偶然入っていた紙巻きタバコの煙をゆっくりと肺に入れて楽しんだサメ型のリュックの女はちょうど二年ほど前に渋谷を中心に流行していた『LOVELESS』という擬似合成麻薬の味を思い浮かべながら彼女が孤独な宇宙旅行の末に体得した猫神おかゆ拳の切れ味を楽しみたくなっているはしたない劣情をテトラヒドロカンナビールの酔いへと変えてしまう。
「では屍王の悲願がすでに転付院目付改めの役目からは解放されていることを考えれば、今回こそは豊久の名に恥じない成果が出せそうですね。夢、というものが屍王にとっては現状を肯定する術に過ぎないとだけ申し上げるべきでしょうか。まさか、天部が行く末を見失うとは思いもしませんでしたが」
 けれど、時間犯罪執行人として長年に渡り、執務室に関与してきた屍王豊久にとっては最も重要な問題が白い羽根大聖堂に鎮座された聖杯を神楽坂へと変換することで、禁忌を犯し続けてきた『S.A.I.』及び『ホーリーブラッド』の提携をめでたく解消し、大和国内に平和を取り戻すという責任を果たさなければいけないということだ。黒猫はどうやら人の言葉を話せるようになってからのことが遠い昔であるような気がして、少しだけ眠気を感じてしまうけれど、かといって持ち出してはいけない聖杯を見過ごしてはいけないとネオンテトラの行く末を心配するのだけは辞めにしようと手を叩く。
 
「まぁ、幸せなら手を叩くというのは確かにある意味当然の論理のようにも思えてしまうけれど、だからと言って常態化した生理現象と感覚器官の誘導行為を同一に考え続けてきたことは大和に根付いてきた宗教倫理を肯定出来ない問題だ。一度戻るしかないね。聖杯がどのあたりに安置されているのかはわかっているのかい? 母性の象徴たる白い羽根大聖堂が消失してしまう以上、父性原理はもはや棄却するべき事実でしかない。君は意志を肯定出来るかい? まぁ、大和公家が既に彦火火出見なる人物が実在したのかどうかを否定的に考えている以上、ぼく達もまた聖愛党が弱体化する道を選ぶべきなのかもしれないね」
「まさか。知らぬわけがありません。断罪の塔がその隠し場所であることは明白なのです。拙者は具備丸こそが荒廃した渋谷を復興させる唯一の手段だと心得ております。黒猫殿はギャグボールの到来と未だに信じていらっしゃる。よもや、ヤミが彼の元に戻らぬことになろうとは夢にも思いませんでしたが、『未来会議』はおそらくTV=SFを渋谷から撤退させることに成功するでしょう。どこかにカグツチがあるはずです。けれど、満たされるべきアウラが未だに現れていない。これは特異点において、血液の譲渡が行われているせいでしょう。勝算はお有りですかな?」
「私が立ち向かわなければいけないとは思いませんでした。聖杯はオピオニズムによって守られています。アヘンの匂いが充満している状態から抜け出せなければいけないのは事実ですが法概念を逸脱する成分を内包している所以を知る必要があります。となれば、自己嫌悪によって神性を獲得する行為は果たして正しかったのでしょうかと問わなければいけませんね。『S.A.I.』は天使の知性を穢すもの。さて、先生。今ならば、聖杯を降臨させることが可能になるはずです」
 
「問題はないよ。ぼくが構成する術式を適正数値に則って物理法則へと転換させていくだけで事は済むはずだ。ソムニフェルムをアルカロイドとして結晶化させることが出来れば、信仰心は暴力によって制圧される。『S.A.I.』の教えが殺人鬼や強姦魔たちの救いであったという状態からようやく脱け出すことが出来る。始めよう。眠りは覚醒によって相殺される」
 白い羽根大聖堂玄関口『ホワイトテーブル』で覚醒していた信徒たちが眠りの中に堕ちていってしまうので、幻想が既に打ち砕かれている可能性があることを確かめるようにして、空が消えてしまった若者たちの街がレミフェンタニルによって定義されてしまった限界地点から暗闇によって塗り潰そうとする。
「けれど、不死性を剥奪することが出来ません。拙者が次元断裂刀によって真魔術回路を一刀両断する使命を帯びているのをお忘れでしょうか」
『ホワイトテーブル』に有効場が形成されてしまえば、既に信じるものを失ってしまった信徒たちの迷いをベータ崩壊させてしまえる。けれど、問題は『カラ=ビ⇨ヤウ』が吸収していた正常性にあるということだね。逸脱した環境化で捏造され続けていた詩が始まっている。概念化された思考汚染を止める必要性があるのが伝わってくれればいい」
 三平方の定理を満たす形で黒猫と屍王豊久とサメ型のリュックを背負う女は決してオピオニズムが蔓延った白い羽根大聖堂の幽玄な気配に騙されてしまわないように位相線型空間を形成して『ホワイトテーブル』へ零空間を創成する為の限定条件を描き出していく。
「そろそろ聖杯が降臨します。白い羽根大聖堂崩壊に合わせて天井から血の雨が降り注ぐでしょう。私は私の役目を果たさなくてはいけません。きっと渋谷では多くの人が苦しんでいたでしょう。ずっと耐え続けてきた願いがきっと夢の向こう側からやってきてくれます。今、希望は暗闇によって塗り潰されていくのです」
 ちょうど真ん中に集まった三人の中心点に黄金に輝く聖杯が姿を現し始める。真っ白な天井が赤く濁り始めていくと、腐食した血液が垂れ落ちてくる。大罪によって許されていた悪の象徴化が自我の崩壊という儀式を通じて器を満たしていく。もし、ほんの小さな願い事が叶うのであれば、きっと私がもう一度産まれ変われる瞬間だけを望んでいたいとサメ型のリュックの女は黒猫と屍王豊久と共に祈りを捧げて『カラ=ビ⇨ヤウ』を消滅させる。
「なぁ、お前さ。そんなに絶望的になるなよ。だって、その星柄のもんぺはさ、十分魅力的だろ。此処から逃げ出したって何処にもいけやしない。たった一つを愛し続けるだけでいいんだ。俺はな、色欲を司る欲求の象徴アスモデウス。ムラムラしているだけならちょっとだけ待てばいい。我慢をすれば手に入れられるものだってある。逃げ出さなくたっていい。祈るのを辞めろ、信じるんだ」
 黒い霧によって薄れていく白い羽根大聖堂の存在を肯定するようにして、シルクのタキシードスーツとピンク色の蝶ネクタイをつけた黒い長髪の男。うねるパーマが既に彼がたくさんの経験を積んできたことを聖杯から漂う鬱血した感情の匂いへ近づこうとする勇気から頷ける。偽造された神に抗おうとする悪魔の象徴だと叫んでいる。乗り越えなければいけない壁のことを教えてくるようにしてハリソンを背負った女の気を引こうとする。
「まだそんなに興奮してるんだな。揉め事なんて起こすなよ。無茶をしちゃいけない。黙って見過ごすって手だってある。俺が憤怒を司る欲求の限界サタン様だ。無茶をしたって身体を壊すだけだ。月並みな言葉になんて騙されちゃ駄目だ。自分をしっかり持て。お前なら満たされる前に辞めることだって出来るはずだろ。自分をちゃんと大切にするんだ」
 もう既に上半身を失っている『カラ=ビ⇨ヤウ』の支配力を否定するようにして、革ジャンにスキニージーンズとドクターマーチンのブーツを履いた黒い長髪の男。置換された善意を押し除けてしまおうと涙を流している。立ち向かわなければいけない消失を聞き流すようにして星柄のモンペを履いて両手を掲げる女の気を削いでしまおうとする。
「ねえ、あのさ、そんなに懐かしい? まだ何かを求めていた時のこと。いいんだよ、もう。楽をすればいいの。私こそが嫉妬を司る欲求の消失レヴィアタン。何処かで誰かがきっと君を見ているってことを忘れないでほしいの。自暴自棄になんてなっちゃだめ。気をしっかり持ってほしい。まだまだこれから沢山の未来が待っているのよ」
 いらなくなった手紙を捨てるみたいに信仰心を無視してしまおうとして、黒いタイトなドレスを着て真珠のネックレスを着けた黒い長髪の女。うっすらと口紅をつけて頬を染めていることを恥じる様子もない。受け止めなければいけない事実を抱きしめるようにしてもう既にサメ型のリュックを背負った女に気を遣おうとする。
「どうやら悪魔たちに囲まれ始めたみたいだね。外の連中は陽動に使われたのか、それともこちらが本命か。聖杯が穢れた血を満たしきるにはまだ時間がかかる。けど、それまでは何も出来ないというのはお互い一緒だ。凍子と蓮華が手筈を整えてくれるはずだけれど──」
 黒猫の問いかけに脇差に差した次元断裂刀『具備丸』の柄を握りしめて屍王豊久は白い羽根大聖堂の隠された機能が若者たちの運命を破壊し続けてきた原因を探し出そうとする。それは人の心か、それとも世に蔓延る悪なのか。輪廻転生を信じるのならば或いはと屍王豊久は生き別れになった許嫁の姿を思い返す。
「拙者は何処かで姫が消えてしまった理由を探しているのです。転付院は時空犯罪を確かに封じ込めてきました。時を越えようとすると者共を何人拙者が殺めたのかはもう分かりません。けれど、そうだとしても、現生においては「聖愛党」がその責務を担っている。私たちが触れていい問題など何処にもなかったのかもしれませぬ。原典はいかようにして保管されるべきか今一度問わねば、なりませんね。殺意など結局のところ持て余すだけなのですから」
 唾と柄が触れる金属音が悪魔たちを威嚇する。屍王豊久は希望を掃き溜めに捨てようとする神への反乱者たちの気配が聖杯に近づけぬように間合いを図り円を張り巡らせる。迂闊に踏み込んでしまえば、例え七大罪を司る悪魔たちといえども、屍王豊久によって次元の奈落に突き落とされてしまうだろう。だから、誰も迷いなど持とうとはしなかった。疑念など挟み込む余地すらありえなかった。けれど、微かに漂う負の感情を食い物にしようとアスモデウスはサメ型のリュックを背負う女から答えを略奪しようとしている。
「だめだ。そいつは屍王だろ。天部はお前たち人間になんて鼻から興味がない。傍に付き添う気で、何処かで俺たちのことを見下している。等価だなんて考えちゃいないんだよ。お前にだって熱い気持ちは許されている。来いよ、そんな場所から抜け出してさ。一緒に戦おう。見失っちゃだめだ」
 サメ型のリュックの女はせせら笑う。猫神おかゆ拳に必要なのは、類稀なる集中力だ。たとえ、誘惑によって時空超越現象に干渉する輩がいたとしても彼女は一切溺れたりはしない。ハリソンがいる。背中に背負った肉食獣は海を泳ぎ回る時だけ殺意を解放する。彼女の背中を守ってくれている。強くありたいという気持ちは万人に許された平等な権利なのだ。頬を赤らめてしまいそうなアスモデウスの仕掛ける心理戦にサメ型のリュックは透き通るように響き渡った金属音で覚醒する。
「あぁ。やっぱりお前はうざってえな。自分なんてあるフリをして、中身なんて何にもないくせに、何にも考えてなんかいないくせにわかったふりをして俺に説教を喰らわそうって魂胆なんだろ。実際のところ、俺の心は溶けてなんかいねぇじゃねぇか。お前がそうやって何にもみないで冷たくあしらってきたからこんなことになったんだ。おい、教えろよ。今、お前は何がしたいんだ? 何か言いたいことがあったんだろ。はっきり言えよ!」
 けれど、サメ型のリュックの女の心は凍りつく。やらなければいけない使命があるのだから、決してぶれたりはしてはいけない。守らなくちゃいけないのは一体誰なのだろうか。万能腕時計『クロノス』さえあれば、いますぐに時を遡ることだってできる。彼女は力を与えられた特別な人だって噂もある。けれど、どうしても今だけは出来ない。目の前に注がれている血液の匂いをしっかり憶えていなくてはいけないんだ。夢が無数に散らばって天井から赤く染まって落ちてくる。どうにもならなかった願いが叶いもしないで終わっていく。悔しさを決して表に出さずにしっかりを目を見開く。
「やっぱりか。お前は何にもわかってないんだろ。どうやったら、気持ち良くなれて、どうやったらかっこがつけられて、どうやったら優しくしてあげられるかそんな簡単なことも何にもわからないんだろ。私さ、大体のことは知っている。いつも細かいことを気にしているわけじゃないけど、大切なことは見誤らないんだよ。そうだろ? いい加減に大人にならなくちゃだめだ。早くお家に帰んな。こんな場所に来てたらみんなの迷惑だろ?」
 そういえば、サメ型のリュックの女にも昔恋人がいた。他愛もない悪戯をして、どうにもならない喧嘩をして、けれど、何度も笑顔で今この時間だけは本物かもしれないって思った一瞬があった。少しだけ、時間の無駄をして、遠回りをしたのかもしれない。だから、今度こそはきっと守る必要がある。屍たちが恨み言をこめて早くこの場所を消してくれって声が聞こえててくる。だから、恋を忘れてしまったことだけは黙っていよう。私はもう誰のことも好きになんてならないんだ。運命が待ち構えている。きっと最初から何もかも知っていたことだから、怖がるのはもう辞めて当たり前のことが起きたみたいに平然としていなくちゃ。ハリソンがまた涙を流している。きっと海にもう二度と帰れないんだって知ってしまったのかもしれない。
「お前たちはそんなに私のことが欲しいんだな。でもだめだ。あの時だって何度も伝えたし、手に入らないって教えたはずだし、ちゃんとわかっているよねって話あったじゃないか。私たちは確かに何度も失敗をして、苦しい思いをして、悲しさを乗り越えてそうやって出会ったんだ。だから、もう二度と忘れちゃ駄目だよって約束をしたじゃないか。お前はすぐに忘れようとしてしまう。もう取り戻すことが出来ないって本当にそう思っているじゃないか。未来を破壊したのは自分自身だった。だから私はお前のことを恨んだりしない。ただ笑ってやる。いつだってそうだ。きっと来世も前世もあの世だってそうなんだぞ。だからまた次会うときは憶えていろ。そんなに近づいてきたって今は何にもあげやしないよ」
 サメ型のリュックの女はβ世界線におけるとある惑星をたった一人で小型の宇宙ポットに乗って飛び出した。恋人とは大喧嘩をして馬鹿みたいに踏み外してそうして二度と会わないって決めてしまったから銀河の星々からまた誰かを見つけることしか出来ないってそうやって涙は我慢した。ある日、宇宙の向こう側へ行けるブラックホールを発見した時に彼女を呼んでいる声がした。映画を見ているみたいだった。とても小さな国の冴えない映画監督のなんでもない人たちのごく普通の風景だけが続いているちょっとおかしな物語。私もいつの間にかそこにいて、主人公はどこにも見つけられなかったけど、運命や奇跡がゴロゴロ転がっていて、幸福の予兆は感じられる。悪魔の生贄になった人たちの血液が降りてきている。助けるつもりなんてもちろんさらさらないけれど、きっと白い羽根だけは消えてくれるはずだ。誰かの為に犠牲になるなんて私には出来ない。もう二度と戻ってくることはない過去と決して変えることが出来ない今ときっと自分の力で変えていける未来だけは誰も渡しちゃいけないんだ。ギャグボールがやってくる。あの日、まだ高校生だったあいつが最初に決めた約束を叶える日がとうとうきてくれる。私はずっと傍で見守っていて良かった。汚れた血液で満たされた聖杯が運命の全てを薙ぎ払ってくれる。
「ふむ。まだまだ学ばなければいけないことはありますか。ヤハウェなど呼び起こす気ならば、或いはと思っていましたが、彼女ならばその役目を必ず果たすでしょう。ならば、黒猫様。御覚悟を。渋谷の街が光に満たされます。暗闇が嘆き続けるのも今日が最後でしょうから」
 屍王豊久の冷たく凍りつくような殺気に呼応するようにして、満たされた血液が人の形をして踊り始める。ゆうに三十人は入ってしまうほどの大きさの器の中でまるで現世から離れていくことを無常の喜びだと感じるようにして、怨念が最後の時を味わうようにして悶え足掻き叫びながら訴えかけている。悪魔たちはこの刻を待っていたはずだ。欲しい。奪いたい。ずっと傍にいて。捨て去ることのできない憎しみだけが渦巻いて聖杯は亡者たちの呻き声を反響させて、聞いたこともない音楽を奏で始める。金属音が反響して螺旋を描きながら生き霊たちが掴もうとする幻を血液によって示していく。血飛沫をあげて聖杯を囲んだ三人に白い羽根大聖堂が苦痛と憎悪によって偽装されていたことを思い知らせていく。エーテルを奪われて自我を否定された信徒たちは祈りによって崩壊していく自尊心だけを信仰に変えていた。見えない何かを信じることが出来ずに触れることの出来る身体のみをただ愛し続けようとしていた。もう二度と手に入れることが出来ないのだという希望に侵されることだけを嫌いながら、光を掴もうとしていた亡者たちが聖杯へ注ぎ込まれる血液からも抗おうとしている。決して妥協を許さぬ日常への埋没が真理となって降り注いでくる。サメ型のリュックは悪魔たちが瘴気を漂わせながら、欲望の器へと満たされた信徒たちの嘆き声を奪い取る瞬間を心待ちにしているのを感じ取る。
「準備は整ったようですね。『真紅の器』が奇跡を掴み取ることが出来ないのならば、必然だと私に伝えてくれた通りです。必ずや彼岸へと到達できると私は約束したのです。さぁ、聖杯を私たちの元へ返して下さい。きっと世界は一つに戻る術を失ってなどいない」
 三ツ谷凍子は渋谷駅を満たしていた不協和音がすでに安定状態へと移行して、悪戯に掻き乱されていた若者たちの心に希望や宿り始めたことを理解する。いつの間にか白い羽根大聖堂は消え失せている。ヒカリエという巨大な建造物が権力の存在を知らしめていて、若者達の瞳には相変わらず諦めが映し出されている。きっと変わってくれる世界だけを信じていたことがなんだか馬鹿らしくなるぐらいに渋谷スクランブル交差点にはいつものように流行歌が電光掲示板に映し出されている。行進に参加していた人々も季節外れの仮装行列を乾いた笑いに変えて、どうにかして自分たちの日常に変える術を探している。天堂煉華はようやく悲願が成就して父親の無念を晴らせるだろうと確信しているけれど、三ツ谷凍子のいう通りならば、やはり世界は少しだけ歪んでしまったままのはずだ。いつの間にか朝早くから街宣車がスクランブル交差点に集まり始めた。憂国の志士たちが白い羽根大聖堂への憤りを伝えにきているのだろうか。
「だけどな、俺様は幻想にしがみついているわけじゃない」
「わかっています。けれど、彼らを変えることだけは望んではいけなかった。そのために聖杯返還の儀式は必要です。聖愛党絶対普遍宣言だけは執り行う必要があるでしょう。白い羽根によって穢された罪人達の魂が混入することだけはやはり私には出来なかった。偶像を創り出すことに彼らはどうしても理解を示さなかった。何も信じていない証拠ではないですか」
「仲間や恋人たちとの信頼関係から始まるはずだ。お前にも嘘がないってことをお互いで信用し合うべきだ」
「けれど、だからこそ、白い羽根に夢中になっていた人々が子殺しの罪を贖うことで夢を失う。彼らはもう何処にもいけない、誰のためにもならないってことだけを自覚すればいい」
「あぁ、だが、夜は違う。刹那だけに溺れる連中の為でもある。渋谷が荒廃してしまう理由が伝わればいい」
「では、待ちましょう。悪魔達が蹂躙しようとしている瞬間をもしかしたら彼らなら乗り越えてしまうかもしれません」
 悪魔達の暴力が放たれる事実だけを阻止することで精一杯だってネオンテトラはその場に踏みとどまる。
『スイーツパラダイス』を着こなした神原沙樹は果たして未来だけに飢えて過去を持たない現在の僕なのだろうか。迷いが走る。アスタロトは拳銃の売買と生命の交換を天秤に賭けることが出来なかった。アモンは気力を削がれた獣の意志は手に入らないと知ってしまった。ルシファーは誰にも見つからなければ意識の世界は閉じたままだと感じている。ベルゼバブは故にこそ、既に答えを知っている。強者と弱者の違いを知っている。だが、神原沙樹は頬を殴られた苦しみを力に変えている。踏み留まり、未だ囚われた母親の姿を見据えている。逃げることは出来ない。口の中に残っている鉄錆の味をきっと悪魔共は知らない。神原沙樹は『スイーツパラダイス』が持っている力を本当の意味で引き出すことが出来ていない。壱號雲母は『ユニウスセブン』によって絶対防衛網を築き上げることで傲慢に散りばめられる暴力から一般人を守り続けている。円城緋色は『ナナチ』を抱え込んできた時間を強欲に奪い続けようとする暴力から仲間を救おうとしている。久遠寺哀莉は『ナナリー』を知ってしまった事実を怠惰に凌辱される暴力から可能性を見つけ出そうとしている。ネオンテトラは必死で抗い続けている。運命の瞬間がやってきたことを彼女達は本当に消したくなかった。逃げ出しそうな自分を必死で押さえ込んでいる。震えてしまいそうな未来と抗っている。ベルゼバブは決して余裕の表情を崩したりしない。喰らい尽くす。蹂躙し尽くす。奪い尽くす。決して与えることだけはしない。脚を踏み出す。神原沙樹は空気圧自動調整シューズ『ガイア』に闘争の意志だけを込める。縫針孔雀によって仕込まれていたプレート反動装置に爆発能力を点火して、渾身の力を込めておしゃぶりを加えた暴食の化身に殴りかかろうとする。
「ふん。無意味だ。貴様がいかに速度限界に達したとしても俺たちは恐怖を餌に変える。未だ愉悦を知らぬガキに俺は触れられない。母親を奪い取られる憎しみに溺れろ。お前には忘却だけを与えてやる」
 神原沙樹の右拳がベルゼバブと激突する瞬間に左腕であしらわれると、身を挺して突っ込んできた彼女の頭上を押さえ込み、渋谷ヒカリエの路上に叩きつける。
「そうですか。貴方達は諦めたりしないのですね。信じられないけれど、私の能力が解放されれば闘うことすら諦めてしまうはずなのに。けれど、現状は確かに守るだけで精一杯です。ならば、変化するしかない。了解。ヴァーチャルシュミレーションモードに移行。閉鎖空間に形成。対象の次元座標を特定します」
「あかん。逃げ場がない。うちらが折れてしもうたら悲しみなんてものにいつか負けてまう。沙樹やって戦っとる。ナナチ。お前は本当に私のことを好きなはずや。めげるな。腐ったらあかん。前だけを見るんよ」
「わかりません。貴方はきっと彼らの言葉がきっと聞こえてない。嘆きすら消えていくことに慣れているのはきっと誰のせいでもないけれど、私たちが今挫けてしまってはもう未来がない。だから、いいですか。まだ終わってしまうなんて誰にも言わせないですから」
 ネオンテトラの三人は、悪魔たちの猛攻をなんとか凌いでいる。けれど、彼らから決定打を奪うことが出来ない。悪魔たちはどうやら時間を稼いでいるようだ。目的がある。暴食のベルゼバブに足蹴にされた神原沙樹は悔し涙をなんとか堪えるようにして発狂する意志を抑え込まれてしまう。渋谷の若者たちが異変に気づき始める。彼らにはきっと悪魔の存在が日常のように感じられているのかもしれない。十字架に貼り付けられた神原真江は喘ぎ苦しみながら娘の勇姿が砕かれていく瞬間を目の当たりにする。闘うことを諦めることしかできないのだろうか。友情も勝利も希望すらも楽園の果実を捥ぎ取り、神に背いた罪を前にして『ネオンテトラ』は輝きを失いかけている。だからこそ、神原沙樹の耳に勇者の声が聞こえてくる。
「待たせたな! 此処まで誰にも頼らず戦い続けてきたってことを必ず認めてやる! 俺の名前はマスクマンザレッド! 遥か彼方の宇宙から救いにやってきたぜ! まさか『アイテム』を使用する羽目になるとは思わなかったがな」
 口元に真っ赤なマスクを着けた男が渋谷駅前の横断歩道に突然現れると彼の右手から閃光弾が放たれる。朝十時前の渋谷区路上に眩いばかりの閃光爆発が拡がって、友情も勝利も希望を手中に収めようとしていた悪魔たちの両目を塞いでしまう。マスクマンザレッドはベルゼバブの両眼が塞がれた隙をついて、彼女の顔面を踏み潰していた右脚の力が緩んだ隙をついて神原沙樹をなんとか救い出す。
「え。あの、もしかして貴史さんですか。どこにいってらっしゃったのかと思ったら──」
「ちっちっちっ! それはいいっこなしだぜ。まずは奴らを倒すことを諦めて、お前の母親を助け出すことだけに専念しろ。白い羽根大聖堂が消失するどさくさに紛れて倉庫から盗んできた『アイテム』は後三つ。仲間たちは苦戦しているようだが、負けてはいない。奴らが手をこまねいている理由はおそらく内部の聖杯だ。こいつらは陽動部隊にすぎない。聖杯が満たされるまでの間に逃げる算段を整えればお前たちの勝ちだ。誤算はおそらく──」
「うう。貴史さんが珍しく頼り甲斐がありますね。もしかしてマスクをしているせいで強気になっているのですか。それはともかく私を此処まで案内してくれたワタリガラスのお二人の姿もいつの間にか見えません。貴史さんのいう通り、他の悪魔たちと交戦しているのでしょうか」
「これ以上貴史なんて言うんじゃない。いいか、聖杯が白い羽根大聖堂の信仰心を吸収してカラビヤウを消失させてオリモノによって満たされるにはまだ時間がかかる。いわゆるダウンタイムってやつだ。もし、悪魔たちが聖杯を奪えば、この渋谷は永久に暗闇に包まれたままだ。希望が失われる。いつまでもありきたりのJ-POPが町中で流されてどいつもこいつもくるっちまう。俺は可能性に賭けたかった。だが、奴じゃダメだった。理英樹。お前の父親に引導を渡した意味がわかっているな?」
「お父様のことはもういいんです。きっと往生されたのではないかと思います。最後の瞬間の安らいだ顔を覚えておくぐらいしか出来ません。けれど、お母様は別です。お父様の野望の代わりに『ヒダリメ』である私の身体を差し出した苦しみを私だけは理解してあげたい。愛の存在を信じたいのです。貴史さん、もう二度と使わないと決めていたけれど、私は『ヒダリメ』を解放します。『九琶礼』を召喚します」
「ふふ。わかっているじゃないか。そうだ、ヒロインはお前なんだ。主役になるって決めたのなら何がなんでも勝つしかない。負けるなんて未来を許すんじゃない。そうやって腐っていったやつを俺は何人も知っている。『真紅の器』の意味がもうわかるな?」
「まさか! もしかして! 貴史さんは本当に王子様なんですか! だとしたら、くぅぅ。絶対に負けるわけにはいきませんね。いきます、私こそが『S.A.I.』亡き後、必ず神原家を復興させる悲劇の姫君『ネオンテトラ』総帥神原沙樹です!」
 密ノ木貴史に支えられた立ち上がった神原沙樹は幼い頃にもらった母親からの愛の証、黒い眼帯を左眼から取り外してしまうとギョロリと意志を持った『ヒダリメ』が彼女の心に眠っていたパルスエンジンを起動させる。
「待っていたよ、沙樹。ぼくの力に頼る時が来ると思っていた。ア<クシ=ズへと向かう準備はもう出来たということだね。此処でこいつらに負けるようなら資格なんてないってぼくの方から願い下げだとだけれど、よく覚醒してくれた。さぁ、パンの子、皐月姫が本当に人間たちに与えたかった愛の力を復元させよう。怨嗟の源『ヒダリメ』がリエンと千年の悠久の時を経て、人類を進化させる道標となってきた理由を思い知るんだ。君が神原家を自らの力で復興させるんだ」
 神原沙樹の身体が真っ白な光に包まれていく。密ノ木貴史は得意げに右手に持った鋼鉄で出来た球体状の装置をお手玉のように放り投げて、閃光手榴弾によって目潰しを喰らわされた悪魔たちの隙を窺おうしている。
「思ったとおりか。沙樹。覚醒すればこいつが必要になる時が来ると思っていたよ。V2Kを利用すれば奴らを心の底から改心させることだって出来るはずだ。悪魔がもし人の心を取り戻せるのならお前の仲間たちを手助けする可能性はある。ただ深追いはするなよ。禁断の果実を喰らった連中のことを甘く見るべきじゃない。そして、俺がマスクマンザレッドを名乗る理由はもう一つある。こいつはニューラルリンクをベースにしたサポートベクターマシンだ。ブレインコンピュータインターフェース『マスクマンザレッド』。俺の本当の名前だ。今まで秘密にしていて悪かった。いいか、つまり俺は音響情報を利用して意識を拡張させて肉体限界を突破できる。だが、当然ながら長くは続かない。お前が『九琶礼』と融合するまでの間だけだ。時間を稼いでやる。奴らに徹底的にボイストゥスカルを叩き込め!」
 ごほっと咳き込んでマスクマンザレッドは血を吐き口元を覆い隠した仮面を汚してしまうけれど、右手に持ったV2K兵器を真っ白な身体を持った『九琶礼』を取り込もうとする神原沙樹を信じてボイストゥスカルを握りしめて、『マスクマンザレッド』によって情熱の炎を点火させると、十字架に貼り付けられた神原沙樹の母親の神原真江を略奪した暴食の悪魔ベルゼバブとの戦闘に立ち向かう。
「いい度胸だ。なぜ不必要な食事を吸収して肉体を破壊してしまう奴がいると思う? お前たちの言葉で言えば、父親と母親から与えられた身体は当然ながらお前という意味において完全で完璧な存在だ。だが、もし惨めに自ら産まれた事実を否定して変わろうとするのならば、罪の味に酔い知れて他人のものだけを欲しがるようになる。食うことで恐怖から逃げようとするんだ。だが、お前は今俺に拳を向けてきた。格の差は理解しているか」
 『マスクマンザレッド』は決して口を割らない。吐血して口の中には鉄錆の味が拡がっている。ブレインマシンインターフェースは聴覚を通じて、意識を覚醒させて、判断能力と把握能力を向上させている。例えるなら、スポーツ体験が相応しい。一流のアスリートなどは試合中に集中力を極限状態まで高めた段階で意識を空間とは別に乖離させることでしんけいや骨組織の隅々までに脳からの命令が行き渡っていることを感じ取り、知覚に対する認識を瞬発力に変換していることがある。つまり、最も効率的に身体機能を循環させることで、休眠状態に入っていた脳の一部を拡張していく。『マスクマンザレッド』は行動と思考が一体化している。右手をベルゼバブの顔面に撃ち放つと、ガードしようとしていた悪魔の手のひらに勢いが加速されたまま反動と重力を使用した一撃が振り下ろされる。意表を突く『マスクマンザレッド』の打撃はベルゼバブの身体を沈み込ませると、衝動が攻撃力へと転換される。同時に『マスクマンザレッド』は悪魔とは一体なんだろうかと思考している。当然ながら、現実世界に悪魔という実態は存在していない。悪魔という抽象表現を利用して人格的劣悪さや他者への倫理観の欠如を比喩的に表現することはあっても、空想の世界でもない限り悪魔は人間自体と同化することはない。神話や伝説によって創り出された悪魔という意識が人間の創造力を肥大もしくは抑圧して本来持ち合わせている他者との共感能力に対して阻害因子を設定する。つまりは、栄養の欠如や体調の不良といった状態から引き起こされる脳機能の不活性状態を悪魔という言語を用いて簡易的に理解しようとしているに過ぎない。『マスクマンザレッド』の右拳は彼の行動力によって担保されて、渋谷駅路上に発生させたキリスト教において人間の罪を象徴するとされる悪魔の姿を具現化している。よりにもよって物理的実態まで付与されている。無条件で自分に危害を加える存在が見えている。聞こえている。殴ることが出来る。だから、『マスクマンザレッド』は叫び自身の絶対的価値基準を肯定する。
「俺が来たからには沙樹には触れさせない。いくぞ、本気モードだ。必ずぶちのめしてやる」
 思い切り振り抜いた右拳がベルゼバブの身体を吹き飛ばす。着地した勢いを利用して右上段蹴りで頭蓋骨への直撃を狙うが右手で防御される。けれど、当然ながら右脚と右手では筋力に差があり、威力が相殺されない。ベルゼバブの身体の重心が右足の重みに耐えかねて沈んでいく。加速が失われた右脚の一撃を跳ね除けられてしまうと、立ち上がる隙をついて『マスクマンザレッド』は跳躍して左脚でかがみ込んだベルゼバブの顎を狙う。一瞬だけ判断の遅れたのか急所に直撃をした『マスクマンザレッド』の左脚前蹴りに目眩を起こしたのか悪魔の意識に一瞬だけ悲観的な未来が過ぎる。
「正面から向き合うとはな。恐怖で行動を抑制されなかったことは褒めてやる。だが、三半規管の揺れ程度では行動予測が鈍るだけだ。さて、どうする。意地でも貫くか」
「いや。いっそのことギアを上げた方がいいな。エーテルを持っていない俺たちにとって脳の解析は必要不可欠だった。お前が悪魔という存在であれば尚更だ。俺はあいつの為に命を賭けてやる必要性がある」
 『マスクマンザレッド』と対峙するベルゼバブは口におしゃぶりを咥えてパンチパーマであり、肌は漆黒で人間といいう相貌を成していない。口腔内は鮮血のように赤く牙が生えて生肉程度なら引きちぎってしまいそうだ。だから、嘘を肯定することは出来ない。もし、奴の目の前で心を偽ったのならば、ブレインインターフェースから流された電流が脳へ与える直接刺激に抵抗を発生させる。つまり、今、ここは渋谷の路上だ。何処であれ、なんであれ、『マスクマンザレッド』の存在基準を相対化した座標が与えられて知覚によって現在を肯定している。存在する場所に若者たちは集う。つまり、暴食を司るベルゼバブにすら勝機はあるはずだ。『マスクマンザレッド』の背後では大人へと成長する段階へ移行した神原沙樹が真っ白な光に包まれている。たった一言だけ『マスクマンザレッド』の脳内に声が聞こえてくる。
「頑張って。貴史さん。私も必ず大人になります。赤く燃えることを絶対に肯定して見せますから」
 神原沙樹は契約によって成し遂げられた少女ではない。処女でまだ性の味すら知り得ていない。ただ、だからこそ白い欲望『九琶礼』との融合を果たすことが出来る。彼女が選んだのだ。『マスクマンザレッド』は死に物狂いで身体が軋んでいく音を脳内に直接響かせている。電流が普段の十倍は走り回り、決して日常だけでは知り得ない過負荷を味わっている。けれど、ここで逃げるわけにはいかない。いつものようにその場しのぎで誤魔化してただ簡単に乗り切るだけでは済まされない。ベルゼバブはタフだ。決して『マスクマンザレッド』の猛攻に怯む気配すら感じられない。それでも手応えはある。だから、臆病であることを肯定するだけでいい。必要なのは守ろうとする気持ちだと思考と行動が同一化した『マスクマンザレッド』は鉄錆の味で喉すら潤しながらも拳を翳し、脚を振り上げ、頭を回転させる。がむしゃらという言葉を思い出したのはいつ以来だろう。汗の匂いももはや懐かしい。戦い続けることだけを選ぶだけでいい。『マスクマンザレッド』はベルゼバブの鈍い光を宿した瞳に勝機すら見出そうとする。
「ぼくに導けるのはここまでだ。やはり君たちは終わりを望んでいる。始まりなんかじゃない。さようなら。迷える子羊たちよ。歌は決して途絶えたりしない」
 朝十時を回る。荒廃した渋谷で閉鎖されていた地下鉄が動き始める。渋谷駅前のスクランブル交差点で鳴っていた笛の音が消えてなくなる。奇妙な服装の男女が集まった行進が終わり、みな黙ったままでいる方が得なんだってことをもう一度理解する。彼の職業は整備士というらしい。音楽を好み、調停と調和を重んじている。決して終局を感じさせない音楽が鳴り止むと、交差点に拡声器を搭載した車両が集まり始める。もしかしたら、整備士はもう二度と人を悲しい気持ちにさせる曲を演奏したりはしないかもしれない。みな、自分の役割を知っている。歯車の動きは一分の乱れもあってはならないんだ。
「風の歌が聞こえなくなりましたね。私が透明になっていくこともなんだか簡単に受け入れられます」
「おそらく聖愛党絶対普遍宣言が実行される。凍子と蓮華にはお願いをしたんだ。禁忌を犯すことを当たり前だと考える連中にはいい薬になるだろう。革命の因子が断絶されるはずだからね。渋谷に集う若者たちにもきっと新しい未来が与えられることになる。けれど、準備はいいかい? 聖杯が経血で満たされる。年齢を重ねることは簡単に受け要られる問題じゃない。白い羽根は永久にぼくらの前から姿を消してしまうんだ」
「彼らが襲い掛かってくるタイミングで私も修行の成果を見せてやるしかありませんね。そんな簡単に奪えると思っているのなら目にものを見せてやるしかなくなる」
「虐殺を肯定する論者ではないはずだからね。けれど、おそらく猫神おかゆ拳は使えない。悪意こそ彼らの好物だし、猫神に必要なのはまっさらで純粋な憎しみだ。白く濁っていなくちゃいけない」
「あぁ。ならば──。そうですか。私も開眼しなければいけませんね。ネクストステップ。本当に見てみたかったことです」
「じゃあ準備は良いね。豊久。君が転付院のお目付け改としての役目を果たす時が来たよ。外のことは任せるとして、『S.A.I.』をこれ以上のさばらせる訳にはいかなくなってきた。次元断裂刀『具備丸』であれば、『カラ=ビ⇨ヤウ』を消滅させられる。手筈はわかっているね?」
 黒猫は既に精神統一状態に入って無我の境地に到達している屍王豊久の方を伺い、彼の分も結界を張り巡らせれて悪魔たちの侵入を防いでいる。当然ながら、精神負荷は常人では耐えきれないほどであるけれど、黒猫はおそらくヤミを利用している。肉体を消失するという意味が一体どういうことだったのかを彼女は思い知っているはずだ。それでも、彼女は約束を違えたりはしない。『マイナスファクター』に奪われていた聖杯はヤミの心を象徴している。だからこそ、ルナ☆ハイムはリニアレール計画を企んだはずだ。物理空間が消失する。黒猫は産まれて初めて人間達を愛そうと決意する。
「存じております。現時空の並進対称性をオピオニズムが妨害していたことだけは既に天部は理解していました。だが、真魔術回路は螺旋獣Ͻの咆哮によって既に崩壊しています。高次元領域に存在していたスカラー場に質量を自力で取り戻すしか手段はありません。拙者はこの為に修行を積んできたのです。目指すべきは零。蓮華殿の犠牲を無駄にしてはなりません」
 聖杯に注がれる血液が沸騰している。怨嗟が逃げ場所を失くして憎悪を剥き出しにしているけれど、互いを喰らいつくすしかなくなった怨霊が夢想を掴もうと暴れ回っている。サメ型のリュックを背負った女が両手を掲げて時空を超越する瞬間を心待ちにして口元を緩めている。黒猫は業火を体内で飼い慣らそうと真っ黒な毛並みを逆立たせて、全神経を震わせてエーテルによって高次元体を模写しようとする。屍王豊久は思考するのを放棄すると、喪失していく自我領域で意志だけを持続させるために『具備丸』の柄を右手で握り締める。断罪の塔が消失したホワイトテーブル中央部に鎮座した聖杯の周辺の位相にずれが生じている。空間がひび割れて、亡者達の奇声が飽和状態に達して三人の鼓膜を突き破ろうと襲いかかってくる。憤怒のサタン、色欲のアスモデウス、嫉妬のレヴィアタンが勝利を確信して嘲笑う。荷電粒子が可視化されて、デバイ遮断が引き起こされて悪魔達の凶悪さが最大限度にまで到達する。神という絶対者の恐怖に到達しようとした強者の論理が愉悦をもたらそうとする。
「あぁ。本当に良かった。この物語の主人公はやはり私ではありませんでした。何にも増して私が私であるという喜びは耐え難く忍び易い。聖杯を満たしていた信徒の憎悪が両断される。ただこの一瞬を待ち侘びていました」
 真っ赤な髪が天を衝き、桜吹雪を刺繍された着物を素肌に纏った屍王豊久がほんの少しだけ目を開き、高周波の持続点が限界まで達した地点で左脚を力強く踏み込むと、神速に到達した居合いで概念領域に存在する白い羽根大聖堂第一階層旧断罪の党跡地愚者の聖杯を一刀両断する。
「これで良い。拙者が欲と色から解放されたからこそ彼岸に到達した。お二人ともお頼み申しました。聖杯を神楽坂へご返還下さいませ」
 屍王豊久の唾と柄がぶつかり合い金属音が白い羽根大聖堂第一階層に鳴り響くと、真っ白な花が散っていくようにしてヒカリエを覆っていた芥子の花の匂いが一気に霧散していく。

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