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現代建築家宣言 Contemporary Architects Manifesto【7】〈分解〉と〈発酵〉 ― 〈疎外〉された事物の内部化と他者性の連鎖

建築界のこの底知れぬ閉塞感と、夢のなさを肌身で実感する平成生まれの
20代建築家が、それでも建築に希望を見いだす術を模索した痕跡。
*『建築ジャーナル』2020年10月号からの転載です。

著者・若林拓哉

―現代建築家は、「魔術化」された事物を〈分解〉によって〈発酵〉させる。

 〈現代建築家〉は、複数種とその生態系を自己の身体の延長として捉え、それらの他者をどのように食べ、また食べられるかという価値意識を持つ存在である。そしてその捕捉者/被食者のあいだの摂食行為あるいは消化吸収における解像度が問われる。そこで第六回の終わりに現代的な問いのキーワードの一つとして〈分解〉を提示して幕を閉じた。
 人間は食物を摂取する際に小さく噛み砕くことによって飲み込む。そして口腔から飲み込まれた食物は食道・胃・腸を通るなかでさらに小さく細かくなり、体内へと消化吸収されていく。消化されずに残った排泄物は肛門を通って体外へと放出される。この一連の流れの中で最も重要なのが〈分解〉のプロセスである。生まれながらにしてすでに微生物と〈共生❖1〉している人間は、物理的に噛み砕いて〈分解〉することもあれば、微生物の力を借りて無意識的に〈分解〉することもある。つまり〈分解〉には、主体的に関与する場合と間接的に関与する場合が存在する。
 この主体的〈分解〉と間接的〈分解〉はどちらも生物の生命活動を維持するために欠かせないものでもある。生物学者・福岡伸一の「動的平衡」の概念を参照すれば、合成と〈分解〉との動的な平衡状態が「生きている」ということであり、生命とはそのバランスの上に成り立っている❖2。さらに言えば、生命はほかの生物を消化吸収することで絶えず自己を構成する物質を代謝し続けているが、合成以上に〈分解〉を進めないとエントロピーの増大に逆らって生命活動を維持することができない❖3。つまり生物は、身体を維持するために周囲の環境から絶えず物質を取り込み、呼吸や代謝作用を通じてそれらの物質を外界に放出しつつも、その生存のプロセスは同時に常に〈分解〉へとむかう脆い存在とも言い表すことができる❖4。
 この〈分解〉の可能性について、これから紐解いていこう。

 近代社会は「巨大機械(メガマシン)」を駆動させるべく人間を交換可能なものとして扱う「平均思考」に支配されていることは第二回❖5ですでに触れた。物事を単純化し、還元し、効率化することによって発展を遂げてきた近代は、その背後で、〈人類❖6〉はすべて異なる視点をもつという当たり前の認識を忘却しつつある。一方で、高度に機械化・情報化が進んだことによって、私たちは物事がいかにして生まれ、眼前に現れるかというプロセスの実態を想像することが難しくなってしまった。論理的に説明できない未知の現象・事物は「魔術化」されたものである。近代社会は「魔術化」されていた事物を「脱魔術化」し、言語化したはずであるにもかかわらず、私たちの無関心さは再び事物の自己内「魔術化」を引き起こしてしまっている。入力と出力のみがセットされれば自ずと答えが生成されるAI(人工知能)の登場は、その事実にさらに拍車をかけているだろう❖7。
 Amazonや楽天市場などの大手ECサイトを利用すれば、大抵のモノは誰でも自宅にいながら気軽に手に入れることができる便利な時代になった。一方で、その商品がどのような過程や苦労を経て生み出されたかを見ることもなければ、誰がどのようにそれを輸送してくるかを想起することもない。ただ指定した場所・時間に依頼したものが壊れることなく届くこと、そこだけに関心が集中している。それが一概に悪いわけではない(実際に多大な恩恵を得ている)が、その利便性によって私たちの

事物への理解、感覚の精度の鈍化

が進行していることは間違いない。モノが画面の中から目の前に突然現れることによって、中間が飛び越されてしまっている。すると次第に、モノには形があり、質量があることすら忘れてしまっていく。いともたやすくモノを得られることでプロセスが魔術化=ブラックボックス化すると、本来見えていたはずのものが見えなくなってしまう。
 これは建築における生産から施工までのプロセスでも同様だろう。たとえば、山において自力で木を伐採し、それを加工し、現地で組み立てれば、材料がどこで生まれ、どのように変化し、活用されているか自ずと理解できる。しかしながら、ただ設計し図面を描いているだけでは、その図面に記されている材料がどのように生産され、現場に輸送され、組み立てられるのかを体得することは無理に等しい。その工程に自己が不在であるためだ。
 あるいは、食材と台所の関係性を見てみるのも良いだろう。農耕社会では食材を自分で育てて自分で調理し、食べるのが当たり前であった。それが現在では、どこで生産され、どのように収穫し、加工され、どうやって運ばれてきたのか見当もつかないものに溢れている。かつて台所は土間と共にあり、そこで収穫したものを備蓄し、保存加工する空間を兼ねていた❖8が、現代ではとにかく冷蔵庫に収納すればいいようになってしまっている。土の匂いを感じることも、食材ごとに適切な保存方法を考えることも、加工することもなくなっている。
 すべては、

生産の場と距離を置き、自己の手を練るための時間も空間も外部化してしまった

ことによるのではないだろうか。私たちの身辺は「魔術化」された事物に溢れている。

 その「魔術化」された事物を解体=脱魔術化するために〈分解〉の概念を提示したい。「魔術化」された事物を主体的に〈分解〉していくこと。これは私たちにとって不可欠の視点である。
 ここで改めて〈分解〉の定義について考えてみよう。その基本的概念は「一つのものを個々の要素に分けること、または分かれること」であるが、生態学の世界では、「ものの属性(何かに分かちがたく属していること)や機能(何らかの目的のためにふるまうこと)が最終的にしゃぶりつくされ、動きの方向性が失われ、消え失せるまで、なんども味わわれ、用いられること❖9」を〈分解〉と呼んでいる。ここで注目すべきなのは、〈分解〉はただより小さな要素に分割することだけでなく、その過程で「なんども味わわれ、用いられる」、つまり何らかの効用を生じていることである。その効用とはいったい何なのだろうか? 農学者・藤原辰史は言う。

ものに絡みつく属性が剝ぎ取られ、機能を失い、バラバラにされ、「ただそこにある」「何かに作用する状態にある」としか言いようのない状態に達したとき、それは別の同様のものと合成しやすくなる❖10。

 〈分解〉することで生じる効用とは第一に、他の物質と結合しやすくなること=結合性である。例えば、水に溶けやすくなったり吸着しやすくなったりする。またそれは物理的な意味のみならずメタファーとしても把握しうる。複雑な方程式を因数分解することで因数を導き出すように、〈分解〉することで理解しやすくなる=自己と結合しやすくなるのである。
 また、文化人類学者・猪瀬浩平は、埼玉県さいたま市・見沼田んぼでの活動を通して、「植物遺体や動物の死骸、糞がダンゴムシによって摂食・粉砕され」、「ダンゴムシの糞と粉砕した残渣がミミズやセンチュウの餌になって、やがて土壌を団粒化させるよう」な「新しい価値を生み出すのではなく、すでにあるものを編みなおし、これまでつながっていなかったものをつなげ合わせる」運動を〈分解〉と呼んでいる❖11。そしてこの連鎖を生み出している存在は、生態学的に「分解者」と言われている。

 生命の営みを終え廃棄された生物の遺体や、生命の営みそのものである排泄によって外界に生み出されたものは、人間社会によって滓なり糞なり塵なり埃なりと名づけられる。それらをさらに飲み込み、消化器官で無数の微生物の力を借りながら細かく分解して別のもっと小さな生物が食べやすくしたり、さらにまだ残っている養分を吸い取り分解して、植物が吸収できるような養分に変化させたりできる貴重な生物群を、生態学では「分解者」と呼ぶ❖12(…)

 ここから、〈分解〉の第二の効用は 無為の連鎖を生じることであると言える。ここで無為と表現したのは、「分解者」たちは土壌環境を良好にするために自己を犠牲にしているわけではなく、あくまで生きるために廃棄物を分解しているに過ぎないからだ❖13。「分解者」たちは個別的な生の享受を最優先しており、それが結果的に他者性を帯びているのである。間接的〈分解〉とは、往々にして無為の連鎖の狭間に生じるものである。
 したがって、〈分解〉は結合性と無為の連鎖を伴うものであり、本質的に他者性を内包するものでもある。それゆえ、偏った〈分解〉=自己にとってのみ都合の良い〈分解〉は、必ずしも〈分解〉の定義には当てはまらない。たとえば、一連の流れの中で一部分だけを切り取って言及したり指摘したりする情報操作のような意図的編集は、偏食の域を脱しない。それが次なる展開の道標となることで初めて、〈分解〉が価値を持つようになるのである。

200907_挿絵

「〈分解〉による変容」 絵:若林拓哉

 ここで冒頭のステートメントを呼び起こそう。〝現代建築家は、「魔術化」された事物を〈分解〉によって〈発酵〉させる〞。〈分解〉によって性質が生成変化し、他者にとって効用を生じる現象は〈発酵〉と通じている。〈発酵〉とは「微生物や酵素の作用で有機物が分解され、あたらしい物質が生成されること❖14」である。一方で、科学的には〈発酵〉と〈腐敗〉はおなじ現象である。それが人間にとって有益なものを〈発酵〉と呼び、有害なものを〈腐敗〉として区別している。つまり、〈発酵〉と〈腐敗〉は科学的に区別されるのではなく、人間の側の価値観によって決まっている❖15。従って、効用が発揮される場合に〈発酵〉となり、それが状況を悪化させる場合は〈腐敗〉となる。つまり、〈分解〉の第一、第二の効用は〈発酵〉として換言することができよう。〈分解〉するプロセスの中で、結合性と無為の連鎖が生じている場合において、それは〈発酵〉である。しかしながら、無為の連鎖を生じないその場限りのものは〈腐敗〉へと通ずる。
 近代社会以前と以後では、この〈発酵〉と〈腐敗〉を取り巻く関係性が大きく変化している。たとえば、発酵食品の「保存性=腐らない」とコンビニ食品の「保存性」は原理が異なる。前者は、発酵菌を呼び込むと同時に腐敗の原因となる微生物を侵入させないことを指向し、後者は化学的な処置を施して一切の微生物が入らないようにすることで成分の変質を遅らせることを指向する。つまり、前者の発酵食品は腐らないが時間は進んでいるため風味が変わり続けていくのに対して、後者は時間を一時的に止めることを意味する❖16。前者を「動的保存性」、後者を「静的保存性」とすれば、この両者の間の保存性の原理の差異とはつまり、時間と共に生成変化することを許容するか否かである。〈発酵〉のプロセスは

不可逆的な時間との絶え間ない交歓

なのだ。
 一方で、現在の社会は、「静的保存性」の価値=時間を止めることを徹底していると言えないだろうか。物々交換が主流の時代では、モノは腐り、劣化し、価値が減少していく定めにあった。それが貨幣の登場によって一変する。モノは貨幣と交換されることによって、腐敗を免れ、価値を貯蔵することが可能になった。貨幣は時間を止める魔法の媒体なのだ。腐るものを「腐らない貨幣」と交換することで、私たちは腐敗に抵抗し、依存するようになった。そうして「腐らない貨幣」による交換価値で推し量られるようになった現在の資本主義経済の只中において、私たちはいったい、モノと向き合うことができているのだろうか? ただ「死んだ物体の蓄積❖17」の中に埋もれているだけではないのか? 私たちはモノから離れ、創造性を失い、交換経済の労働の中に取り込まれ、モノから〈疎外〉❖18されてしまっている。

 〈発酵〉させるためには、結合性とともに無為の連鎖が生じる土壌を耕す必要がある。この状況を理解するためには、生態学における〈アッセンブリッジ(assemblage)〉の概念が役立つ。これは「コミュニティ=共同体」に近接する概念であり、「コミュニティ」が事物同士の相互作用を含意しているのに対し、〈アッセンブリッジ〉は事物の単なる集合を表す❖19。「コミュニティ」は構成する事物同士の固定的で限定的な相互関係に陥りがちである一方、〈アッセンブリッジ〉は相互に自立した事物が存在していることが前提にある。先の言葉を借りれば、〈アッセンブリッジ〉はより「動的保存性」を担保し、「コミュニティ」は「静的保存性」をもたらす。従って、相互に生じる影響は作為的なものではなく、無為のものとなる。この目的化されない相互関係が肝要である。〈分解〉することで他の事物との結合性をもち、それがさらに生成変化して展開していく無為の連鎖を生み出しうる環境を〈アッセンブリッジ〉と位置づけよう。そうであるならば、「魔術化」された事物を〈分解〉して〈アッセンブリッジ〉というプラットフォームへと変化させることで、〈発酵〉を促すことが現代建築家に求められると言えるのではないだろうか。たとえば、「魔術化」された建築物を、生産―設計―施工や企画―設計―運営といったプロセスや個々の事物へと〈分解〉することで、建築物自体をかかわりしろが豊富にある〈アッセンブリッジ〉へと変化させることができれば、個々の事物は社会に開かれ、〈発酵〉しやすくなる。私たちは、その環境を整えると同時に、媒介としても機能しなければならない。

 「魔術化」のプロセスと切り離せないのが、〈スケーラビリティ(scalability)〉の概念である。それは文字通り規格可能性を意味しており、事物の枠組みをまったく変化させずに、円滑にスケールを変えることができる能力である❖20。スケーラブルであるということは、周囲からの外圧を遠ざけ、可塑的に変化することを避け、不確定性を排除することを意味する。資本主義経済において成長が推奨される環境では、ビジネスがスケールすることは多いに歓迎されるものである。しかし、規模が大きくなっても事物の性質自体に変化がないということは、それを下支えする個々の要素はより効率的に、機械的にならざるをえない。規模が拡大しているにもかかわらず、変化の許容度は犠牲になっているのである。それに対して〈ノンスケーラビリティ(non-scalability)〉が別様な価値となりうる❖21。これは規格不能性を意味しており、規格化を拒絶し、ウェットな関係性を構築するものである。その領域とはつまり非言語的な部分であり、外部化しえない手間暇のかかる部分である。〈スケーラビリティ〉は事物の「魔術化」を促進させ、事物から人間を〈疎外〉する。そのプロセスを〈分解〉するためには、自己を〈ノンスケーラビリティ〉の地平に落とし込まなければならない。現在では失われた、自己の手を練るための時間・空間を再び内部化することが求められる。そこに生じる表象不可能な「クオリア❖22」を愛することが、〈発酵〉を促進するためには不可欠である。

 「平均思考」を脱し、〈人類〉を極限まで〈ノンスケーラブル〉な存在の集合体=〈アッセンブリッジ〉として認識した時、「市民資格の分解❖23」を標榜した哲学者セイラ・ベンハビブを再び想起せざるを得ない。個人としての解像度を高めれば高めるほど、それぞれに適切な環境・空間を指向できるようになる。個人とはすでに複数の個人的性質から形成される〈分人(dividual)〉❖24であるからこそ、個人単位からさらに〈分解〉された分人単位での思考が求められる。
 〈分解〉の視点は、「魔術化」された事物を解体するだけでなく、それがさらに他の事物と結合し、連鎖を生む可能性を内包している。それは〈可塑的〉に変化する〈不安定性〉を孕んでもいる❖25が、その揺れ動きの中で、〈ノンスケーラブル〉な機微の価値を捉え、〈発酵〉することのできる〈アッセンブリッジ〉を築くこと。そして、その〈発酵〉を促す媒介となることが現代建築家の到達すべき地平である。 
 一方で、現在の社会では、人間の事物に対する思考はより「魔術化」され、事物からの〈疎外〉は深刻さを増していくことだろう。その状況との二極化を避けるには、「魔術化」された事物を〈サルベージ(salvage)〉❖26し〈分解〉していくと共に、徹底的に〈分解〉していった先の、誰も到達しえない事物の「再魔術化❖27」もまた必要なのではないだろうか。そこでは、もはや交換経済の中では把握しきれない、別様な価値基準が求められる。そこで、次回のキーワードとして〈互酬性(reciprocity)〉を提示して幕を閉じよう。


❖1│ 現代建築家宣言:第六回 私たちは〈可食性〉を咀嚼し、反芻する動物である『建築ジャーナル』2020年6月号を参照
❖2│ 福岡伸一著『動的平衡:生命はなぜそこに宿るのか』木楽舎、2009年、p.75
❖3│ 藤原辰史著『分解の哲学 腐敗と発酵をめぐる思考』青土社、2019年、p.29-30
❖4│ ティム・インゴルド著、金子遊+水野友美子+小林耕二訳『メイキング 人類学・考古学・芸術・建築』左右社、2017、p.196
❖5│ 現代建築家宣言:第二回〈 弱き者〉の〈不安定性〉、あるいは〈可塑性〉の享受『建築ジャーナル』2019年6月号を参照
❖6│ 現代建築家宣言:第三回 人類、崇高さ、死―表象不可能性の先へ投擲せよ―『建築ジャーナル』2019年9月号を参照
❖7│ 落合陽一著『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』PLANETS /第二次惑星開発委員会、2018年、p.86
❖8│ 山口昌伴著『台所空間学〈摘録版〉』建築資料研究社、2000年、p.37-38
❖9│ ❖3に同じ、 p.18
❖10│ 同上、p.19
❖11│ 猪瀬浩平著『分解者たち 見沼田んぼのほとりを生きる』生活書院、2019年、p.30
❖12│ ❖3に同じ、p.172
❖13│ 同上
❖14│ 石毛直道著『日本の食文化史 旧石器時代から現代まで』岩波書店、2015年、p.44
❖15│ 同上
❖16│ 小倉ヒラク著『発酵文化人類学 微生物から見た社会のカタチ』木楽舎、2017年、p.70-71
❖17│ 清水高志著『ミシェル・セール 普遍学からアクター・ネットワークまで』白水社、2019年、p.218
❖18│ ピエール・ヴィットーリオ・アウレーリ著、北川桂子訳『プロジェクト・アウトノミア 戦後期イタリアに交錯した政治性と建築』鹿島出版会、2018年、p.191-192
❖19│ アナ・チン著、赤嶺淳訳『マツタケ 不確定な時代を生きる術』みすず書房、2019年、p.39
❖20│ 同上、p.59
❖21│ 同上
❖22│ ドミニク・チェン著『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』新潮社、2020年、p.24
❖23│ セイラ・ベンハビブ著、向山恭一訳『他者の権利 外国人・居留民・市民』法政大学出版局、2014年、p.227
❖24│ マウリツィオ・ラッツァラート著、杉村昌昭+松田正貴訳『[新装版]記号と機械 半資本主義新論』共和国、2016年、p.39
❖25│ ❖5に同じ
❖26│ ❖19に同じ、p.68 サルベージとは「沈没船の引き揚げ」を意味し、そこから「再生利用するために回収される廃品」という意味も派生する。著者は、動物が腐肉を漁ったり、人間がゴミを漁ったりして、まだ使える物を集めるスカベンジscavenge をイメージする言葉として用いている
❖27│ ❖7に同じ、p.151

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