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現代建築家宣言 Contemporary Architects Manifesto【5】〈可謬性〉の海を漂うことは 〈誤配〉に身を任せることであり、 それは〈偶然性〉の暗闇で迷うことであり、 それは無数の〈模倣〉の連鎖であり、……

建築界のこの底知れぬ閉塞感と、夢のなさを肌身で実感する平成生まれの
20代建築家が、それでも建築に希望を見いだす術を模索した痕跡。
*『建築ジャーナル』2020年3月号からの転載です。

第5回 〈可謬性〉の海を漂うことは〈誤配〉に身を任せることであり、それは〈偶然性〉の暗闇で迷うことであり、それは無数の〈模倣〉の連鎖であり、……

著者・若林拓哉

〈現代建築家〉は、多角的なパースペクティヴの揺れ動きを許容する存在であり、それは画一的な「正しさ」を疑い、「誤り」を積極的に享受することへつながる。そこで第四回の終わりに現代的な問いのキーワードの一つとして〈可謬性fallibility〉を提示して幕を閉じた。それは端的にいえば誤謬を容認することである。ではなぜその必要性があるのだろうか?

昨今、ポリティカル・コレクトネス ❖1の名のもと、社会にとっての「正しさ」が頻繁に話題にあがっている。この「正しさ」とは、いわば各々にとっての思想的・文化的・社会的な正義感、あるいは他者を許容できるか否か、自己が安心できるか否かを判別する秤である。一方で、それを過度に追求することによって、逆説的に他者を排除する動きが生まれてしまっているのも事実である。たとえば、過去の芸術作品にまで性差別的な批判を持ち出して攻撃したり、まるで言葉狩りのように過剰に微妙なニュアンスの表現を責め立てたりといった具合だ。建築界においても、景観破壊という口実のもと外国人建築家を排除したり、建築自体の価値を重んじるあまり地域や関係者
の心情を顧みずに建築家のエゴを押し付けたりする事案が目立つ。しかしながら、この「正しさ」とは一体なんなのだろうか? そんなものが本当に存在するのだろうか? およそ各個人によって知識の度合いも違えば、これまで過ごしてきた社会的背景や自分の置かれている立場によって価値基準は異なるはずである。そうであるならば、常にどの視点からでも一貫して価値が担保される一義的な「正しさ」というものは虚像でしかないのではないか?
「正しさ」とはつねにすでに

個人の数だけ存在し、

共約可能な一部の定義(たとえば「保母」ではなく「保育士」と表現するような)を除いて、誰もが異なる理想を脳裏に描いていると言っても過言ではない。そしてそれを他者へ投影し、その「正しさ」をもって暴力を振るう。その個々人のあいだの「正しさ」のズレが大きいほど、衝突はより大きく、溝はより深まる。仏教とキリスト教とイスラム教では相容れないし、カーニスト❖2とベジタリアンとヴィーガンでは相容れないように。ゆえに「正しさ」もまた、社会❖3と同様にある種の虚構でしかないのである。その動かぬ証拠に、ポリティカル・コレクトネスとしての「正しさ」以前には、当たり前のように別様な「正しさ」がその位置を占めていたのだから。 したがって、現在においてどんなに「正しい」と思っていても、それは容易に「誤り」に転じるものである。そしてそのことは現在において誰も証明することができない。それゆえに「正しさ」を論理的根拠にすることは、極めて危うい選択なのである。それよりもわれわれは「誤り」こそ、〈可謬性〉こそ愛するべきではないだろうか? それは共通する「正しさ」からのズレを修正することではなく、「正しさ」同士のあいだのズレを理解し、認めることであろう。

誤謬とは、論理的・形式的に何らかの間違いがあることを意味する。哲学者C.S.パースは、その誤謬を否定的なものではなく、次のようにして価値を見いだす。

人間のすべての知的発展が可能になったのは、われわれのあらゆる行動に誤りの可能性があるという事実のためである。(…)「過つは人間の性」こそ、われわれがもっとも熟知している真理である。生命の無いものはまったく誤りを犯さない。低級な生物もほとんど誤らない。本能はほとんど無謬である。これにたいして、理性は人間にとって決定的に重要なすべての事柄についての、非常に危なっかしい先導者となる。こうした誤謬の傾向を子細に検討してみると、誤謬とは時間のなかでのわれわれの行動のランダムな変動に他ならない、ということが分かる。しかし、しばしば見落とされているのは、われわれの知性が育まれ成長するのは、当のランダムな変動によってであるということである。なぜなら、そうしたランダムな変動がなければ、われわれの習慣形成は不可能であり、そして知性とはこの習慣の可塑性のことだからである❖4。

 彼の論理に従えば、〈可謬性〉こそが創造性の根源であり、絶え間なく変化することに意味がある。私たちは「正しさ」の呪縛から離れ、〈可謬性〉の只中に身を投じるべきではないだろうか。それを〈消極的能力negative capability〉と呼ぼう。これは「いたずらに事実や合理を追い求めないで、不確実な状況や謎や疑いのうちにとどまっている能力」である❖5。「正しさ」を安易に欲するのではなく、意識的に不確実な道へと歩みを進めること、不安定な場に留まること。そうすることでしか見出せない景色が存在する。
 私たちが今見えているもの、知っているものはこの地球を構成するあらゆる事物・事象のほんの一部分でしかない。知らない事物があることを自覚するというソクラテスの「無知の知」はあまりにも有名だが、私たちの中の知を巡る世界はより多彩ではないか。「既知の知」、すなわちわれわれが知っていると知っている事物だけでなく、「既知の未知」、すなわちわれわれが知らない存在があることを知っている。それにとどまらず、「未知の未知」、すなわちわれわれがまだ知らないとすらわかっていない存在もある。さらに、「未知の知」、つまりわれわれが知っているとわれわれが知らないこと、存在を知っていながら気づいていない、忘却してしまった知も存在する❖6。
 比較文学者ダニエル・ヘラー=ローゼンは次のように語る。

成人が話す諸言語は、かつてそこから生まれ出た限りなく変化に富んだ喃語のなにがしかを留めているのだろうか。あるとしたら、それは谺でしかないだろう。というのも、言語があるところには、幼児の喃語はとうの昔に消え去ってしまっているからだ。(…)それは、他の言葉、あるいは言葉でさえない何ものかの反響なのかもしれない。谺エする言語(コラリアス)は、自らが消滅することで言語の出現を可能にする言葉にならない記憶の彼方の喃語の痕跡なのだ❖7。

 いま私たちが話している言語は、幼児期の喃語を忘却したうえに成り立っている。しかしながら、それは確かに私たちの中に、いまでも微かに、谺として響き渡っている。この認識を敷衍すれば、忘却することが決して悪しきものではなく、むしろ価値にすら転換し得ることを意味する。延いては、いまはまだ知らない存在の価値が、見知った事物の価値を裏づけていることがあり得るともいえよう。見えているものだけが全てではなく、むしろいま見えていないものにこそ価値がある。
 また、「誤り」が「正しさ」同士のあいだのズレであるとすれば、「誤り」は誰かにとっての「正しさ」だと考えることもできる。たとえ同じ事象だとしても、見る人によって感じ方、受け取り方は全く異なれば、それを共有することもまた難しい――それを超越した共感、感動をもたらすのが美学的崇高さ❖8であるが。そうであるならば、

誤謬の海を漂うこと

が、各々がまだ見ぬ「正しさ」に触れるための最善策ではないだろうか。
「正しさ」と「誤り」はそれゆえに相反するものではなく、連続性をもっている。これは生理学的にいうところの「正常」と「病理」のあいだの関係性に類似する。「正常」は「一定の種において大多数の事例にみられるものであり、測定可能な性格の平均的なもの、ないし規格をなすもの」である❖9。そして「病理」は、その平均的な規範から逸脱した症状を指す。「正常」はそのままでは誰も気づかず、「病理」があることを患者が訴えることで初めて、相対的に「正常」が立ち現れる。ゆえにその境界は非常に曖昧であり、「病理」を決定するのは根源的には医者ではなく患者の判断に依っている。あるいは社会環境の支配的観念による評価となる❖10。なぜならば、平均を決定づけるのも、それから逸脱しているかどうかを判断するのも社会環境だからだ。したがって「病理」もまた、時代によって「正常」とのあいだを揺れ動く存在である。一方で、第二回で「平均思考❖11」を批判したことを裏返せば、「正常」こそが「病理」であると捉えることもできよう。現代は平均で居続けることの方が「病理」であり、

逸脱することの方が「正常」

なのではないか? ゆえに、逸脱した存在、つまり〈弱き者❖12〉を平均へ修正しよう、治療しようとするベクトルは、極めて近代的な手法である。もちろんそれが不可避なほどに重度な状況の場合は議論の余地があるけれども、それよりも〈弱き者〉の性質を理解し、潜在性を引き出すことに注力すべきではないか。世間に蔓延る「正しさ」よりも「誤り」の、〈可謬性〉の価値を追い求める必要がある。
そもそも、私たち自身の「正しさ」というものは担保されているのだろうか? 私が私であること、私らしさ、私自身は何に依って立つことができるのだろうか?
 哲学者・宇波彰は記号学者ウンベルト・エーコの理論を参照しながら、次のように述べている。

人間は自分のことばで話していると思っているが、それは幻想にすぎず、記号を支配している規則によって「話をさせられている」のである。私ではない他者の言語が私を媒介にして語っているのである。これはミメーシス論の中心にある問題点である。つまり、自分の言語だと考えているものは、実は他者の言語の引用・模倣であり、したがって「主体の言語」は存在しないという、否定したいが否定できない現実が見えてくるのである❖13。

 つまり、確固として自立した私というものは存在せず、私を規定する言語とそれを支える思考回路はすべて他者からの引用・模倣によって成立しているというのである。そしてこれを〈他者性の囚人〉として概念化している。私が私固有のものとして信じている「正しさ」は、実は他者から暗黙裡に写し取られたものであり、私自身すらもその境界線が溶け出してしまう。
 私たちの顔もまた、自分のものであるより前に、共同性の様態として、他者から読まれるものとして規定することもできる❖14。他者から解釈される必要がなければ、顔に表情もパーツも不要だからだ。自己のアイデンティティを支持する根拠は、こうして他者性の只中を彷徨っていく。

彷徨っているあいだには予期せぬ出会いもある。どんなに「正しさ」を追い求めても、必ず認識のうえで齟齬が生じる。他者とのあいだのコミュニケーションはつねに<誤配>❖15の連続である。<誤配>は哲学者・東浩紀が提唱した概念であり、端的にいえば、郵便物がまったく違う宛先に届くように、最初に欲望=予測していたものとは違う何かを受け取ってしまうことである。そしてそこで偶発的に開かれる新たな創造性の回路である❖16。「正しさ」の中から邂逅は生まれない。それが〈誤配〉し得ることに気づけないからだ。人間は「聞こえることしか聞こえない」し「聞きたいことしか聞こえない」のである❖17。だからこそ〈可謬性〉を享受することによって初めて、そのあいだから零れ落ちていく聞こえない声を聞くことが可能になる。

人間の判断は根源的に〈偶然性〉にかかわっており、いかなる判断ももっと多様にありえた考慮を偶然的に切り捨てて「しまった」結果でしかない。哲学者・千葉雅也はこの〈偶然性〉を踏まえて次のように語る。

何かを「ある程度」の判断によって、大したことではないと受け流す、適当に略して対応する、ついには忘却していく……このような、「どうでもよさ」、「どうでもいい性」の引き受けは、裏切りの可能性を受忍しつつそれでも他者を信じることと不可分なのであり、そしてそれは、エビデンスの収集によって説明責任を処理することよりもはるかに重く、個として「実質的に」責任を担うことに他ならないのだ、と❖18。

「正しさ」を追求するのではなく、その中に潜む「どうでもよさ」の〈可謬性〉を含めて他者を受け止めること。そもそも人間とは〈可謬的な〉生き物であり、その可能性を排除することからは何も理解を生めないこと。「誤り」を容認することとはつまり、より高次元な他者理解の態度なのである。哲学者リチャード・ローティの言葉を借りれば、これはリベラル・ユートピアの市民、つまり「道徳上の熟考をする際の自分の言語が、したがって自分の良心が、さらには自分の共同体が、偶然性を帯びているという感覚をもつ人びと❖19」になるための条件だと考えることもできよう。

挿絵#5

「無限連鎖する偶然性、あるいは他者性の模倣」    絵:若林拓哉

〈消極的能力〉に身を任せ、〈偶然性〉の暗闇にまどろむこと。見通しの利かない世界で迷うことは、子どもの特権である。大人とは、「見通しの慎重さと思慮の蓄積によってゆっくりと着実に生きている状態❖20」である。作家レベッカ・ソルニットはそれを踏まえて次のように指摘する。

しかし、間違いを犯すことへの恐怖はそれ自体、生きることの妨げになるような大きな過誤を生むことがある。なぜなら、生はリスクに満ちたもので、取り損ねたものはもう手に入らないのだから❖21。

子どもは、失敗を繰り返し、恥辱と苦痛を味わうことで大人へと変貌していく。そして迷うことをやめてしまう。〈可謬性〉の権利を放棄してしまう。大人になることが「正しさ」の懐で胡坐をかくことならば、われわれは永遠に子どものままで居続けるべきなのではないか? 私たちは誤謬に逡巡するのではなく、童心を抱き、代謝し続けなければならない。

こうして「正しさ」を起点にふらふらと短い旅をしてきた。言葉の意味を構成する別の言葉を抽出して、またさらにその言葉を構成する言葉を抽出して……この国語辞典を渡り歩くようにして言葉の海に飛び込んだのがパースであり、その泳ぎ方は彼の記号論の基本概念にある「無限記号連鎖」へと結実する❖22。パースはそれを次のように定義している。

記号連鎖は記号・対象・解釈項という三つの要素からなる。記号は何らかの対象を示すものであるが、その記号は別の記号(解釈項)によって解釈されることができる。(…)このような記号解釈の作業が連鎖として継続される。これが無限記号連鎖である❖23。

記号の中の記号の中の記号の……というように、フラクタル構造的に延々と連鎖が続いていくイメージである。これはそのまま先述の〈他者性の囚人〉へ、〈模倣mimesis〉へと通じている。自己もまた模倣のなかに無数の模倣を見つけ、そのなかにまた無数の模倣が連なっていく❖24。ここで肝要なのは、〈模倣〉することは同一化することではないということだ。同一化することはつまり、そっくりそのまま他者を鏡像のように写し取ることである。〈模倣〉はそれとは異なり、自己の解釈を加えることにある。「正しさ」をそのまま受け入れるのではなく、その中に意図的に「誤り」を挿入すること、〈誤配〉させること。〈模倣〉にはそのような性質がある。自己と他者を相対化し、差異をつぶさに見つめることによってようやく浮かびあがるものである。
 そしてまた、連続する〈模倣〉の中には「出来事の繰り返しによる微細な変化という本質的な特徴が含まれて」おり、「どんなものであれ持続的な反復行為には「偏流」が不可欠であり、その「偏流」は誰に望まれたわけでもないごく小さな変化を引き起こしてくれる❖25」。つまり「誤り」こそが新しい価値を生むのであり、これは「正しさ」の同一化からは全く生じえないものなのである。

誤謬の海を漂いながら、常に〈可塑性❖26〉を享受し、生成変化していく。われわれは「誤り」をやめて「正しさ」を追い求めた時に、その成長を止める。したがって、漸進的に変化していくことこそが求められる。連続する「正しさ」と「誤り」のあいだを振動しながら、その冗長性を容認すること。そこにこそ寛容さは生まれるのではないだろうか。
 そのために私たちはできるかぎり「正しさ」を疑い、「誤り」を知っておかなければならない。それを実現するには他者の「正しさ」を摂取しなければならない。文字通りにも形而上学的にも、人間にとって他者を含めた動物を「食べる」こと、そして自己は「食べられる」存在でもあることの可能性を問うことは、そのキッカケとなるだろう。
 人類学者・石倉敏明の言葉を借りるならば、その〈可食性〉を現代的な問いのキーワードとして提示して、またこの海を漂うことにしよう。

❖次回は2020年6月号掲載予定

❖1│ ポリティカル・コレクトネスとは、人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない、中立的な表現や用語を用いること。
❖2│ カーニズムは、動物製品の利用と消費、特に肉食の消費を支持する支配的なイデオロギーを指し、それを信仰する人々をカーニストという。
❖3│ 現代建築家宣言:第一回 宣言なき宣言文が現代を切り拓く『建築ジャーナル』2019年3月号を参照
❖4│ パース著、伊藤邦武編訳『連続性の哲学』岩波文庫、2001年、p.169-170
❖5│ レベッカ・ソルニット著、東辻賢治郎訳『迷うことについて』左右社、2019年、p.11
❖6│ ❖5に同じ、p184-185
❖7│ ダニエル・ヘラー=ローゼン著、関口涼子訳『エコラリアス 言語の忘却について』みすず書房、2018年、p.12
❖8│ 現代建築家宣言:第三回 人類、崇高さ、死―表象不可能性の先へ投擲せよ―『建築ジャーナル』2019年9月号を参照
❖9│ ジョルジュ・カンギレム著、滝沢武久訳『正常と病理』法政大学出版局、1987年、p.102
❖10│ 同上、p.100
❖11│ 現代建築家宣言:第二回 〈弱き者〉の〈不安定性〉、あるいは〈可塑性〉の享受『建築ジャーナル』2019年6月号を参照
❖12│ 同上
❖13│ 宇波彰著『力としての現代思想 増補新版̶̶崇高から不気味なものへ』論創社、2007年、p.32-33
❖14│ 鷲田清一著『顔の現象学 見られることの権利』講談社学術文庫、1998年、p.58
❖15│ 千葉雅也著『意味がない無意味』河出書房新社、2018年、p.20
❖16│ 東浩紀著『テーマパーク化する地球』ゲンロン、2019年、p.378
❖17│ 石田英敬・東浩紀著『新記号論 脳とメディアが出会うとき』ゲンロン、2019年、p.176-179
❖18│ ❖15に同じ、p.166
❖19│ リチャード・ローティ著、齋藤純一・山岡龍一・大川正彦訳『偶然性・アイロニー・連帯 リベラル・ユートピアの可能性』岩波書店、2000年、p.130
❖20│ ❖5に同じ、p.119-120
❖21│ 同上、p.120
❖22│ ❖13に同じ、p.10-11
❖23│ 同上、p.10-11
❖24│ ❖17に同じ、p.323
❖25│ ジョージ・クブラー著・中谷礼仁、田中伸幸訳・加藤哲弘翻訳協力『時のかたち 事物の歴史をめぐって』鹿島出版会、2018年、p.145
❖26│ ❖11に同じ
❖27│ 石倉敏明「複数種世界で食べること―私たちは一度も単独種ではなかった」『たぐいVOL.1』亜紀書房、2019年、p.46-54

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