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母の97歳の誕生日

2024年1月18日 木曜

 母が無事97歳の誕生日を迎えてくれた。バースディソングオルゴール付きのバースディカードを持って入居してる老人ホームへ。今日も基本変わりなし。昨年夏のコロナアクシデントで口から食事を取らなくなって、思いがけず寝たきりになったが、改めてことの経緯を整理しよう。
細かく書いていくので、ご容赦を。

 昨年夏、僕が一泊二日で東京に赴くため、7月23日の午後から27日の午後まで3泊4日のショートスティを利用してもらった。帰ってきた日に送迎ワゴン車から降りる時も少し足元がおぼつかなかったし、我が家は玄関から緩やかな階段なのだが、ともかくそこも登れない。後ろからようよう押し上げてあげたり誘導してなんとか登ってもらった。そこも変というか、自宅の構造も忘れるくらい認知症状が進んだのかなと思ったのだが、実はその時からもうコロナに罹患してたのだろう。とにかく疲れてるようなので居間の寝室で寝てもらい、夜、夕食にしようと下に降りたら、トイレの前でヘタって倒れている。食事も取りたくないと言うので食事は諦めてまた寝てもらった。

 次の日の真夜中、僕の中でも嫌な予感があったのか、下に降りたらまたトイレの前で下半身を出したまま寝ている。その時、なんとかかんとか抱き起こしたら、どうも身体が温かい。もしかしたら?と思って熱を測ってもらったらかなりの熱がある。これはコロナか、とその時初めて気づく。解熱剤を飲んでもらい。明け方5時頃申し訳ないと思いつつ、往診主治医に電話。9時過ぎに看護師さんが解熱剤を飲ませ、抗原検査をする。そしてまず間違いなくコロナであろうと思うので、後ほど点滴の用意をすると。午後にはコロナ陽性の連絡が入る。その日の夜、本人の熱は9度7分まで上がった。僕もいつも本人が座っている居間のソファーで寝る。トイレに起きて転倒を避けたいためだ。

 感染から二日後、点滴が始まった。同時に濃厚接触の僕も熱症状が出る。体温を測ると9度7分。そんな高熱は初体験。でも思うほどには具合が悪くない。母はこの日まで熱が38度台前後をうろちょろし、ほとんど食事に類するものは口にできない。
 それから在宅点滴で発熱からの2週間、8月10日まで固形物は取らず、点滴で最低限の水分を摂る。口に何とか数口のアイスや少量の野菜ジュース、栄養ドリンク(一回50〜80mlくらい)をやっととるくらい。
 入院加療を1日も早くと思いつつ、2週間かかってやっと往診先診療の福祉士さんが総合病院を探してくれた。感染後二週間の8月10日のこと。それからほぼ二ヶ月の高栄養点滴療法による入院生活である。まえにかいたとおり入院から1週間後に病院から呼び出しがあり、まず母と面会。その時の母とは移送ベッドで会ったのだが、たいそう元気で安心した。でもその後は医者との面談ではこのまま腕での静脈点滴で行きますか、と。つまり端的に「老衰という形で逝ってもらいますか」という提案があり、判断に大いに惑う。昏睡だったら考えるが、さっき会った母は話の内容に脈絡がないとはいえ、顔艶も良く、声にも張りがある。その状態を維持する母との別れは選択はできかねる。ただ、高栄養点滴療法で維持はできる、と。しかしこの病院はリハビリ病棟なので退院期限がある。その後は療養先を決めねばならない。医師の口振りはいわゆる老人病院を勧める様子。僕は父の病院搬送先の老人病院を見ているので、できればそのテのところには入って欲しくない。

 その中で退院事務を司る看護師長に「自然死ですか?あの母の様子ならまだ大丈夫だと思うのですが。僕は父を通して老人病院を見てるので、そこでの延命治療も嫌なんです」と相談する。師長さんは有料老人ホームなら見てもらえるでしょう、但し24時間ナースが必要ですし、前払金が高いところが多いですよ、と。そして具体的に親御さんの年金額は?と聞かれ、答えるとなんとかその線で探してみましょう、と言ってくれる。
医師からの選択を暗に迫る話のとき、初めてたったひとり孤独で重要な選択をしなければいけない実感を持った。
 その間、自分もなんとか24時間ナースがいる施設をネットで探し、同時に中心静脈療法(IVH)も調べる。結局、2件に絞られ、最終的に僕が探したいま入居している施設に決めたのだが、そこに至るまでの経緯、施設訪問、諸々のやりとりが今年の長く暑い夏の時期に大きな課題としてやったことだ。本州に住む兄にも節目節目に連絡して、ぼくの思いは受け止めてもらい、方向は支持してくれた。
 9月には胃腸科病院で胸の太い静脈に高カロリー栄養点滴を流すポートを増設する手術もやる。その間、寝たきり状態になってしまった母は、在宅生活時も普通の意味のコミュニケーションは取れなかったが、食事をすすめること、ベッドで寝てもらうことはできたし、普通に自分の足で移動もでき、デイサービスにも通えたけれど、それらは見る影もない姿になった。

 コロナ以降特に認知症が進んだ状態を受け入れ、在宅でコロナで寝たきりになったり、病院の長期入院で普通のコミュニケーションが取れない形の一つ一つはそれなりにその時はショックではあったし、都度都度は受け入れ難いものはあったが。でもそれもいつまでも引き摺ることはできない。僕はそれはそれで受け入れ、10月6日、現施設に入居後も週に4〜5日は会いに行き、栄養点滴を入れる穴、つまりポートを増設手術をすれば少し車椅子とかに移乗できるのかという甘い期待があったのだが、それは見通しの甘さで、寝たきり状態であるのは変わらない。

 いまは認知症状ゆえに指で点滴のチューブを外さないよう、常にミトン(グローブ)で手指が自由にならない姿を見るのは忍びないくらいで、まだそれほど顔色も悪くなく、話す内容は90%以上通じないが、施設も思ったより人と接点が持てないようなので、とにかく出来る限り出向いて話をしてもらい、聞き役を続けたいと思い、週に4〜5回通っている。
 個別に話す機会がなかったら一挙にあらゆる活力を失って本当の寝たきりになってしまうと恐れるからだ。

 ひどく長くなってしまった。だが、自分の生活の一部にこれが組み込まれている以上は、昨年夏から今日までの母の97回目の誕生日に至る始終を具体的に文章にして吐き出してしまいたかった。

 あとは、普通の意味で客観的には「これって延命治療じゃやないの」という意見について。僕も自分の親がこのような状況にあることを、若い自分が無邪気に見たらそういう風にかんがえてしまうかもしれないことについて。これは実は全然違うんだよな、というすごく深い実感がある。あくまで個人的な主観に属する事柄かもしれないが、彼女がこの世界に届かない独り語りを語っていても、笑いがあって、幼児のような言語を運動のように繰り返していても、こちらはその存在がそうしてここに生きていてくれることが嬉しく、意味あることになっている。であるから、時間があればやはり会いに行きたいし、様子に変化がないか気になって出かけている。

 僕はやはりどこかで「後期高齢者は切腹してもらいたい」と言った成田氏に対して、発言を聞いた当時、彼は高齢者と接点を持ったことがないんだな。知識人なのに普通に無知をさらけ出せるんだなと怒りというより、笑ってしまっていたのだが、どこかでやはりその言葉に傷ついたのかもしれない。
 ふと最近そう気づいてしまった気がする。

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