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NPO法人 訪問と居場所 漂流教室 理事 相馬契太さん インタビュー(後編・2)

お手盛り苦手

杉本:やはり相馬さんたちは打ち出しかたが淡白なんだと思うんですね。NPOでも、活動の意義を表現したくてしようがない組織は普通にあると思うんですよ。いま相馬さんの話を聞いていてもそうだけど、「関わるけれど、その結果のどうこうはよくわからないです」ってこれだけ普通に言えるリーダーってすごくないですか?

相馬:どうですかね。例えば訪問が終わる時に、利用者に「訪問はどうでしたか」ってインタビューしたっていいんですよ、別に。でも、そこに意味があるのかなと。そこで語られる言葉を自分たちの実践として出すのは、何かお手盛りの感じがするんですよ。

杉本:すごくわかります。でもフリースクールとか、支援機関とか「振り返ってどうでしたか」みたいなことを当事者に語らせる文化が普通にあるじゃないですか。宣伝と言ったら言い方が悪いかな。別に宣伝だとは思わないけど、ただ何をやっている場所かはどうしても伝えなくちゃいけないから、当事者に「卒業して」とか「振り返って」とか、当事者語りをしていただくというのは別に不思議なこととは意識しない。例えばぼくが不登校の当事者だったり、その親だったりすれば、すごく知りたいですね。

相馬:そうなんですよね。そこは知りたいだろうと思いますし、まったくやってないわけじゃないですしね。例えばテレビの取材でなにかしら話してもらったりもするわけで。ボランティアスタッフに振り返りを書いてもらったりとか。でも、うーん。何かね。気乗りしないんですよね。

杉本:相馬さんは良い意味で父性的な気がしますね。ぼくは極めて情緒的な人間なので、ずるずる考えて手がかりを探したがる。相馬さんは「結局はその人でしょ」という感じで、その人の哲学なんだと割り切れてる感じがする。そこに父性的な印象があるんです。

相馬:どうでしょうね。「自分と他人」と分けたことに目がくらんで「自分だけ」になったという話をしたじゃないですか。自分ではキッチリ分けているつもりなのに、誰かと付き合うと嫉妬深かったりとか、支配しようとしたりとか、干渉しようとしたりとか、ひどかったんですよ。

杉本:あ、相馬さん自身が?

相馬:そう。自分自身がそうだった。「自分の中にこんなものがあったんだ」とびっくりしちゃって。そんな発見がなければ、なにも気づかずに暮らせたんだけど。そこからは前ほどズバズバ「自分と他人」と切り離せる感じも無くなっちゃって、もうずっと試行錯誤です。

今はとりあえず相手の船に乗ってみて、自分の中に違和感があったら、自分が育った中に原因があるかもと探ってみる。その上で、もう一度相手の船に乗ってみると、また別の違和感に気づくから、「あ、また気づいていないものがあった」と自分を探って……ということをずっと繰り返している。

杉本:ですから、このところ相馬さんは変わってきたんじゃないかなと思っていて。初めて出会った時もとても丁寧に説明してくれる人だと思ったんですけど、漂流の日誌を読むと実はちょっと怖い人かなと(笑)。内容も論理性が高いし。でも、ぼくの本のイベントでうち合わせて、「あれ? 想像よりフレンドリーかもしれない」と思った。で、時々会って話をうかがうと、他人に対して許容度が広がっている印象があるんです。初期の日記はもっと尖っている印象があった。

相馬:ははは(笑)

杉本:「怒ってませんか?」みたいな。まあ、基本ぼくは公的なことに怒っている人が好きなんですけど(笑)。英国パンクロックが好きだったから、尖って、怒っている人に憧れがある。お近づきにはなりたくないですけど(笑)。でも、だいぶ印象が変わりましたよ。

相馬:20年も経てば変わりますよ。

杉本:そうですよね。だから「今でも」とおっしゃいましたけど、もう本当に変わったんだなと思います。

相馬:初期の日誌はエッセイストの山本夏彦のイメージで書いていたので。「なんでも言い切ってやろう」みたいな感じでね(笑)

杉本:確かに「若いな」という印象はありましたね。そう言いつつ、分析力がある文章は基本変わってない気がします。

相馬:そうですか? どんどん言い切れなくなってます。見えるものが多くなると、どうしてもね。

杉本:単純に言うと、「すげえ大人になってるなあ」と。


自分の変化について

相馬:論理的という点では、代表の山田の方がそうですね。俺は感覚が先に来るので。「イヤだな」とか、「あっちの方がよさそうだな」とか。でも、「じゃあ、それはなぜなのか」というところで言葉にしなくちゃいけないから。

杉本:結局対応が丁寧になるんですよね。

相馬:変わった変わらないの話をするなら、2011年の地震は避けられない。あれの影響を受けなかった人はいないでしょう。

杉本:そうですね。

相馬:どうなるかわからない原発を福島に抱えてね。普段通りに暮らしているつもりでも、心のどこかに引っかかっている。当時、福島から避難してくる人の受け入れとか保養とかにちょっと関わっていて、で、知ったふうな口を聞いて被災者をひどく怒らせてしまったことがあったんです。

杉本:そうなんですか?

相馬:普段だったらあんなことしなかったと振り返って思う。

杉本:なるほど。

相馬:自分の中の不安がすごく高まって、その不安を他人の不安を解消することでどうにかしようとしたんですよね。そんなことをすると、当たり前だけど、しっぺ返しをくらうんですよ。

杉本:ああ、善意が逆に。

相馬:漂流教室を始めたころにやったような失敗をまたやってしまった。「こりゃ全然ダメだ」と思って。再度見直しをかけたんです。ここで変わったのと、あと、この度のコロナですね。そこへ子どもができたことでなおさら。子どもはやっぱり大きいです。「こんなにもわからんものか」と思って。やっぱり「他人はわからないんだな」という気持ちを新たにしました。

杉本:ああ。子どももやっぱり他人に含まれちゃう。

相馬:明らかに他人でしょ。

杉本:「他人枠」(笑)

相馬:生まれたばっかりのころなんてまったく意思疎通できませんからね。でも、意思疎通できない相手とも一緒に暮らすうち距離がわかるようになる。2人のあいだで了解事項ができる。子どもが発達したとも言えますが。

これは訪問でも多分一緒です。知らない者同士、相手のことはよくわかんないけれど、なんとか互いに了解事項をつくっていく。どこまで踏み込み、どこから踏み込まないか。それでも、ものによっては「えい!」と踏み込むこともあったり。で、そこから新しい了解事項が生まれる。結局、こういうふうにしてしか人付き合いは深まらないんだろうと思います。子どもができて、気持ち新たにというか、「やっぱりそうだったのか」と思った。

杉本:なるほど。お子さんが生まれたということの価値は大きかったですね。

相馬:ただ、そうして了解事項を増やしていっても、崩れる時はある。病気になったり怪我したりとかね。こちらがだんだん歳を取って記憶がおぼろげになっていくとか。それって不登校もおなじだと思うんです。ここまで積んできた了解事項、ここはこうなるでしょうとお互いに思っていたことがガラッと崩れる。なので、そこからもう一回つくっていかないといけないですよね、お互いに。

杉本:今の話は思考実験ですね。

相馬:そうですね。子どもが学校に行かなかったところで、親子の関係自体は何も変わらないはずでしょう。でも、実際は大きく変わる。

杉本:そうですよねえ。それだけ学校というものがビルトインされてるから。

相馬:不登校って、学校と子どもの距離が変わっただけのはずなんです。でも、それをきっかけに親子の了解事項が崩れてしまう。それで剥き出しの「他人」が見えちゃうんじゃないかと。それでどうしていいかわからなくなる。どうやってこの人と言葉を紡いでいくのかって。

杉本:わかります。

相馬:子どもは子どもでね、学校に行く、卒業して次の学校へ進むということを了解事項に自分の将来設計とか、まわりの人間関係を築いてきたのに、急に橋が落っこちちゃった。「どうすればいいんだ?」となるんじゃないですかね。

杉本:それはもう瓦解するような感じだと思います。

相馬:親子間で、生徒と先生でもいいんだけど、了解事項がなくなったら、とりあえずもう一度つくるしかないですよね。その時に思い出すんですよ。「そういやこの人のこと、最初はよくわからなかったじゃないか」と。訪問もそういうことです。知らない人と会ってお互いに少しずつ了解事項をつくって、その時間、その空間をそれなりに過ごすやり方を探す。機嫌が悪かったりとかで何かの拍子に壊れるかもしれないけれど、そしたらまたつくって。で、どこかでお別れ。以上。


内的要因か、外的要因か

杉本:なるほど。震災と、お子さんが生まれたことを変化の要因に挙げられましたが、そうすると相馬さんの変化は外因要因が大きいですかね?

相馬:というか、外的要因がなければ自分は揺らがないですからね。

杉本:そうですかね。年齢と共に必然性があったのでは?

相馬:歳を取ることも外的要因じゃないですか。

杉本:ああ、それも含めるのですか。自分の肉体というのは内的要因じゃないんですか?

相馬:頭の働きが鈍くなってきたなあというのも外との関わりで思うことでしょう。本を読めなくなったなあとか。

杉本:なるほど。

相馬:例えば財布から驚くほど小銭が出せないわけですよ。

杉本:それって、肉体的要因だなと思う。

相馬:それって外じゃないですか。

杉本:外なのかなあ(笑)。それ、自分の身体的要因だと思うんだけど。

相馬:身体が外側に働きかけて、で、そこで気づくわけでしょう。

杉本:うん。

相馬:働きかけなかったら。例えば宇宙空間に浮かんでいて、で、まったく身体を動かさないまま50年経った時に、どこがどれくらい動かなくなったかわからないじゃないですか。外に働きかけるからわかるので。最近、ビンの蓋がなかなか開かないんですよ。驚くほど指先の力が落ちている。これも外との関係で気づいて、自分の内部が揺らいでってケースですね。で、もう一回構築し直す。

杉本:なるほど。外なんだな。

相馬:肉体は衰えているんだけど、それに気づくのは外との関わりで気づくから。

杉本:そうか。そう言われてみれば、そうだねえ。

相馬:だから訪問で、あるいはフリースペースで、誰かと会う。そこで自分に気づくわけですよね。そういう意味では、会えただけでもういいんですよ。すべきことはあらかた終えている。

杉本:本当に発想がぼくと違いますね。ぼくは自分の内面領域から自分の肉体なり、他人なりがあるという発想なんだけど、相馬さんは「外」なんだ。

相馬:うん。

杉本:はあ。それでも実は腑に落ちてはいないんですけど(笑)。そうやって相馬さんはすべて外のものとして世界を見てるんだというのは発見ですね。驚きがあります。全然違うんだなって。

相馬:大学生の時なんですけど、夜中、マクドナルドとかでハンバーガー食ってたのかな。で、店を出たら、生温かい、湿度の高い日だったんですけど、何かね、自分の皮膚と空気の境目が感じられなかったんです。伝わるかな?

杉本:うーん。

相馬:外に出た瞬間に、何かね、自分の皮膚がそのまま空気に溶けてった感じ。

杉本:調和したってこと?

相馬:自分のからだと外気との間に境がないような。

杉本:ハンバーガー屋さんでは物理的世界と自分の体には境界があった?

相馬:うん。

杉本:出たら感じなかった?

相馬:そう。よくわからないけど、ぬるい空気が皮膚の質と一緒だったみたい。動くとちょっと風を切るから、「ああ今ここに自分の手があるのね」みたいなことはわかる。そういう経験が一つ。

あと大学の構内の中に地下道があって、普段閉まっている扉が開いていて、入ってみたことがあるんです。そうしたら本当に真っ暗闇で、何も見えない。自分の目の前に手を置いても見えない。地面に足がついているから上下はわかる。前後もおそらくこっちであろうというのはわかるんだけど、見えませんからね。確証がない。そうした経験をしたことがあって。

結局自分の体がどのような形をしているのかとか、どこまでが自分の身体なのか、みたいなことって外からの抵抗、もしくは反射がないとわからないんですよ。

杉本:なるほど。

相馬:自分の姿は自分で見えないし、当たり前にここまでは自分の手だと思ってるけど、それは空気抵抗があったりとか、服の摩擦があったりとかするからわかるんであって。だから、人とぶつかったりとか、人に反射したりしないと自分のことは見えない。そう考えると「自分」とは外的なものなんですよ。雪の中にパタンと倒れてついた自分の跡を見て、なるほどこういう形なのかと(笑)

杉本:外があって初めて自分の内側がある?

相馬:そう。外との関わりで自分のことが見えるというか、わかるというか。

杉本:そう理解したんですか? 地下道のときとかに。

相馬:そこで理解したわけでもないんですけど、でもその時の感覚は……。

杉本:印象として残ってる?

相馬:はい。

杉本:ほう。

相馬:自分の体がこう、消えてなくなる……。

杉本:にわかには理解できないけど、すごくそうなんだなあって。論理的な話をうかがった気がします。実感は持てないけどねえ。でも実感があったんですね。相馬さんとしては。そういう部分で。

相馬:うん。

杉本:その前から、頭では考えてたんでしょう? ウチとソトみたいなことは。

相馬:いや。それまでは「自分と他人」くらいの分け方しかしてませんでした。「自分とは何だろうか?」とひたすら考えるようになったのはこの仕事をしてからですね。「誰もいないところで自分って存在するの?」とかね。

杉本:純粋哲学みたいな話ですね。

相馬:そうですね。何かを考えている自分は確かに存在するけれど、その自分がどのような姿をしているかは捉えられない。

杉本:あ、それはそうですね。脳だけが動いている感じですね、機能として。

相馬:みたいなことを考えた時に、さっきの外と内側の区別というか。

杉本:ああ、そうか。

相馬:蓋が開かないのも外への働きかけ。他者への働きかけによって自分の内部を知る。

杉本:なるほどね。

相馬:と、いまはそう思ってるわけですが、このあとどう変化するのかはわからない。

杉本:で、結局「外」ってどういう評価になりますかね?いずれ頼るもの? それとも、とりあえずは訪問活動や、場所に迎え入れる活動というのは、他人とひと時を過ごす何か? ほら、利用者の人は辛いじゃないですか。学校とか会社とか、そこで苦しんできたわけでしょう。仮にぼくでもいいですよ。そういうところで苦しんでいる人たちって、相馬さんにはどう見えます?

相馬:どう、とは?

杉本:「外」が見えない人たちだと?

相馬:ああ。そうか。そういうふうに思ったことはなかったな。

杉本:そういうふうに「外」が自分というものを構成していると思ったわけでしょう。「ああ、何か内側しか感じていない人たちがたくさんいるなあ」みたいに思ったりとか。質問がちょっとわかりにくいかと思いますけど。

相馬:いや、言いたいことはわかります。ただ、そうやって自分の中の原則を他人に当てはめて考えたことが最近なくて。

杉本:でも、なんとなくサジェスチョンしたくなりません? 「いや、まわりってもしかして外なんじゃない?」みたいな。

相馬:そうですね、ごくたまに。「何か不思議だな」という気持ちになることはあります。

杉本:ああ、そういうふうにグルグルしてたりする人たちが?

相馬:そう表現すると俺はグルグルしてないのかという話になっちゃうので。まあ、不思議だなと思うことはあります。そういう時は「ちょっと正論に聞こえるかもしれないけど、言っていいですか?」と確認して、「いいよ」と言われたら伝えて、おしまい。

杉本:なるほど。理解してくれても、くれなくても、みたいな。

相馬:人の目がひどく気になるという人がいたとしますよね。他人が視線を逸らした時、別に自分を嫌ってるわけではないと頭の中ではわかってるんだけども、どうしても気になってしまうと。で、どうすれば嫌われない見た目になるのか一生懸命調べているって話を聞いて、「なるほどね」と思いつつ、「そこは掘る場所が違うのでは?」とも思うんですね。自分の中では違うとわかっているし、気になっちゃうのが問題だってそこまで把握してるのに、見た目を変えようと努力する。そこはいくら掘り進めたところで何も出てこないでしょうと思うんですよ。

ただ、それが気になっちゃう自体はどうしようもない。むしろ、それでもそっちにいってしまうから困っているのかもしれない。だから言うだけ無駄かもしれないし、その正論は聞き飽きているかもしれないけど、「別の方面が問題なのに、努力する方向がずれてない?」と言ってみたりはします。でもね。うーん。大きなお世話かなとも思うし、そう言われて「なるほど」と向こうが思ったところで、変えられるなら苦労はしないわけで。

杉本:まあねえ。それはそうかも。

相馬:だから、あまり意味はないなと思います。

杉本:そうですね。下手をすると一生そう思えない可能性だってありますしね。

相馬:でも、「こう思うんだけどなあ」というのをずっと言わないでいるのも変な気がしてね。

杉本:不自然かもしれませんしね。

相馬:そのへんは言うか言わないかの天秤の中でこう、ちょっと踏み込んでみるみたいな。

杉本:この一連の話を冷やかし、踏み潰してしまうかもしれないんですけど、この話を60才のぼくが聞くと「なるほどね」と思いますけど、10代のぼくにはなんの話だか理解できないかもしれないですね。そうすると年を取るのも悪くないかなって。…余計な話ですが。

相馬:そうですね。「いつかわかってくれればいい」とは思いませんが、後からわかることもありますよね。

杉本:話半分しかわかってないこともあるかもしれないからな(笑)。いまのぼくも。

相馬:そこらへんも、なんというか、こちらの意図の通りに伝えたいなと思うけど、結局どう取ったって相手の自由ですからね。

杉本:まあ、その哲学ですよね。相馬さんはね。何だろうな? これは認識を間違えてるかもしれないですけど、基本、諦めてるのかなって。いやこれは違うな。むしろそれぞれなんだよな、っていうか。

相馬;うん。それぞれですよね。


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