あるとあらぬの間で~欠損と埋め合わせ

”あらぬ物はあらぬ”と言ったのは、哲学の始祖と言われるソクラテスよりも遡ること更に半世紀、紀元前520年頃-紀元前450年頃に活躍した、パルメニデスであるけれど、QUANTA主催のホニャララライブで、直近のアーカイブである、由佐美加子さんをゲストに、yujiさん,井出さんのお三方でされたクロストークは、まさに三賢人の鼎談といった体であった(鼎談のてい、と体のてい、とを掛けた洒落)。

人間が本質的に欠損を持って生きている存在であることは、プラトンが“饗宴”においてアリストファネスに語らしめたことで、ご存知の方も多かろうが、せっかくだから引用しておこう。

「そこでつひにゼウスがいろいろ考へた末に言つた、『余は今一つ名案を得た、この方法によれば彼等人間どもを滅ぼさないで、しかもよくその傲慢心をくぢき、その行動を改めさせることが出来よう。それは彼等を二つに断ち切つてしまふのだ。かうすれば、彼等はその力が弱くなると同時にその数を増すから、我々に取つては益々好都合である。そして彼等は二足をもつて直立して歩くやうになるだらう。然も彼等が若しなほ無礼をやめないに於ては再びこれを二つに切つて、今度は一足をもつて跳び歩くやうにしてしまはう』かう言つてゼウスは丁度我々が塩漬けにする果実(くだもの)を断つやうに、また毛髪(かみのけ)をもつて卵を切るやうにして、人間を一人づつ両断してしまつた。」

『饗宴』世界名著文庫 ; 第1編(p.35,36)

国立国会図書館デジタルコレクションから引用。

最近は、私の文章をして#前田構文 と呼ぶそうで、これは読まないことが肝要、あるいは読み込んだところで分からない、といったことを言外に含んでいる気がするけれど、ソクラテス以前の哲学者による言葉は、それとは対照的にとても分かりやすくて、これは現代版哲学対話であるホニャララライブの本懐とも通ずるように思う。

今回のthemeであった“メンタルモデル”の4分類と、その痛み/願いの内容も、とても分かりやすく、チャット欄のリプレイを拝見していても、その分かりよさ故の大きな反響には、目を見張るものがあった。

自分と他者との凸と凹を認めて、それを補い合うことは、ギリシアの昔から人間がずっと考えてきたことであるけれど、こうして賢人賢者による集合知が創出しやすくなった現代に、自らが何者であるかを、一人で思い悩む必要は全くないと言って過言ではない。

yujiさんが用いられている西洋占星術にしても、その叡智を遡ると人類の歴史とニアリーイコールになるだろうけれど、現代はそのアップデートされた知識の欠片くらいを得るだけで、あとは凹みのある自分を世界に出すことさえすれば自ずとその凹みを埋め合わせてくれる凸と出逢うことも容易である。

Youtubeの中後半辺りで語られていた、種としての継続やワンネスといった感覚がとても響く私だからこそ、また個体の生存本能が設計思想に組み込まれてきた現代まで社会において生きづらさを感じてきた人間だからこそ、発する周波数があるのだと、改めて確認させていただいた次第。

ますます”I”を出して、ますます流れる愛の循環を大きくしたならば、そこにはとても愛しい世界しかないのだから、“先ず隗より始めよ”という古語を思い出したいものである。


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