前田大樹 無境界な営業

1985年3月21日生まれ 念ずれば通ずと頭を垂れ手を合わせ 人との出逢いと上への祈り…

前田大樹 無境界な営業

1985年3月21日生まれ 念ずれば通ずと頭を垂れ手を合わせ 人との出逢いと上への祈りと自然への崇敬とを 無境界にできるようになれば商いもお詣りも同じこと 天台座主慈円 おほけなく うき世の民に おほふかな わが立つ杣に 墨染の袖 を座右に山の上で癒しの場を設けるため準備中

マガジン

  • 自分について

    今まで綴ってきた、自分についての叙述を、改めて整理するとともに、新しい認識が生まれては加筆する、そんな場。

  • 自分史~I am...

    浜崎あゆみによる2002年のアルバムから名前を拝借し、自分の来し方行く末を眺め、そして現在から再解釈する試み。 自分にしか見られないものが、他者にとってどういう意味を持つのかの実験でもある。

  • 音楽レビュー

    古今東西の音楽についての、情報交換の場。 まだ見ぬ(聴かぬ)誰かに届きますように。 過去、別のダイアリーに挙げた記事も、ときに加筆修正しながら再掲します。

  • ラジオ

    「山の上から」という名前で発信を始めて15年。 思い立ったが吉日という言葉を体現するため、いつでもどこでも録音できるオーディオプログラムを、Stand fmというラジオアプリで発信を始めました(聴くだけならアプリのダウンロードは不要です)。 お時間のある時に、耳を貸していただければ幸いです。

最近の記事

自分を自分たらしめている存在について

自分が人に与えている影響について、人を通じて知覚することになった今日の昼下がり。 mikaさんにオラクルカードを引いていただきながら、籠の中と外とに止まった蝶の姿が、境界線を引き直している今の私に重なる様を、とても面白く読んでいただいた。 このセッションを受ける少し前に、hanaさんが投稿された箱根の山中で蝶と戯れていらっしゃる写真を拝見していたことや、昨日だったか一昨日だったかに藤原直哉さんが“日本と世界にひとこと”の中で、アゲハ蝶と相場についての喩えを挙げていらっしゃった

    • 862字の雑文

      二面性、あるいは多面性といった言葉が、好ましくないこと、あるいは良く言ってせいぜい変わっていること、といった語られ方をしてきたのは、80年代/90年代/ゼロ年代/そしてこれを書いている2024年からすると、ここ十数年の間にだいぶんと収まったとはいえ、未だ私のような80年代生まれには、未だ根深く意識にあると言える。 自分自身の経験したことしか語る言葉を持たない私としては、手前味噌になることを承知の上で、私自身の二面性/多面性を例にとってみるならば、生まれた日時からして、3月2

      • 808字の雑文

        “源氏物語”という稀代の長篇作品を、英訳した人間が居るだけでも驚きに値するのに、それをまた日本の現代語に訳し直すという途方もない企てが、2017年に著されていたと知ったのは今日のこと。 その大作を“A・ウェイリー版 源氏物語”と言って、英訳はその名の通りアーサーウェイリー(Author David Weley)、また現代語への逆輸入訳(という日本語があるのか知らないが)を毬矢まりえ+森山恵姉妹という人々は手がけたらしい。 原本のボリュウムからして、当然の如く現作も大変な分厚さ

        • 4月11日は何の日

          ということを、わざわざ調べたわけではなく、またこの6年前の記事を知っていたわけでもなく、たまたま今日という日に辿り着いた自分の直感を、褒めたいと思います。

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        記事

          病は氣から

          だとしたら、こういう笑いは最も病から遠ざけるのではないか。 そんな思いでシェアします。 ダウンロードも出来るので、万に一つでも消される可能性を考慮すると、それが賢明かもしれませんねぇ。 いや~、今日という日に聴けて良かったです。

          自分を定義し直す

          自分が自分をどう捉えているか、がどんな自分になっていくか、決めている。 未来という時間があるなら、そこで自分を待っているもう一人の自分がいるのだろう。 20年前に書いたブログと、2年半前に喋ったstandFMには、共通して採り上げている音楽があって、そのタイトルは“I'm waiting 4 you”という。 自分と自分を待っている新しい自分について、まだ肌寒い季節にピッタリなので、そしてこの2年の間に公式音源が聴けるようにもなっているので、そのリンクとともに再掲しておき

          魚座新月に寄せて

          ”インテグラルセオリー”という20歳頃に読んでいた哲学が、30代最後の年を間もなく迎えようとする2024年3月に、私の周りにいらっしゃる幾人かの人から注目されていることを、とても嬉しく感じている。 インテグラル―すなわち統合という営みは、スピリチュアルが人口に膾炙するようになったからこそ、非常に実際的な意味を持つと言える。 例えば、2021年11月~2022年1月に私が参加させていただいた、“Collection01”というAZさん主催のコミュニティでは、内観と自己表現が主

          新年こそ「何言ってるかわからない」ことを綴ろう

          MISAさんがシェアしてくださっていたおかげで、Sakiさんのnoteへ辿り着き、そのまま筆を執っている(正確には、Blackberryのkeyboadをポチポチしている)。 「何言ってるかわからない」人ばかりを周囲に集める趣味がある私としては、2024年という変化の年に益々やって行きたいのは、その素晴らしい人々のネットワークを繋いでいく、ということである。 いや、更に遠慮なく推し進めて表現するならば、趣味を仕事にする、と敢えて申し上げたい。 「何言ってるかわからない」と

          新年こそ「何言ってるかわからない」ことを綴ろう

          10月の振り返り(5088字)

          AZさんのnoteを拝見し、来年の兆しがどこにあったのか探るべく、私も今月の振り返りを。 31日間というのが長いような短いような、不思議な今月、いざ何をしたんだっけ、となると手帳を繰らないと思い出せないわけで、1日(日)のページには、“阪急うめだ Era of Air”と書いていた。 そうそう、北海道からわざわざお越しくださった、あゆみさんをyujiさん主催のイベント会場へご案内したのである。 私は会期初日にも行ったので、これが2度目の訪問で、あゆみさんと一緒に、展示

          10月の振り返り(5088字)

          飲みながら書いた徒然

          下記の散文は、ここ1ヶ月の思索の断片である。 一気呵成に書き上げてみたものもあれば、ゆっくりと言葉を紡いだものもあり、それぞれに風合いは異なるけれど、共通しているのは、一つ一つの文章は結論に至ることなく、筆を置いたということである。 無理矢理にでも締め括ることは出来たものを、敢えてそうしないままにして、次の頁へと進んだことで、自身のとりとめの無さを認めざるを得ないが、それでも紙の上のインクとして置いておくよりも、ここでnoteのプラットフォームに載せて、誰かの目に触れることを

          飲みながら書いた徒然

          道についての数百字

          道というタイトルで私が真っ先に思い浮かべるのは、白洲正子の“道”という随筆、 そして、もう少し古い記憶を辿るならば、Do As Infinityの“TAO”という楽曲である。 いずれも、私が通ってきた道の傍らにある一里塚のような、ふっと見逃してしまいそうな作品で、例えば好きな作品は?という質問に対して浮かぶほどのインパクトはないのだけれど、確かにそこにあって欠かすことはできぬ存在である。 白洲正子で好きな作品というと、滋賀県出身者として真っ先に挙げたいのは“近江山河抄”

          道についての数百字

          生命に思いを致す8月16日

          yancyさんが、生命についての優しいお話において、私の言葉を引用してくださいました。 何かの機縁となったようで、とても有り難いなぁ、と感じます。 私は、そもそも名前からして、五山の送り火において最初に火を灯す大の字が入っている上に、如意ケ岳の裏みたいなところで育ちました。 また、送り火の日である今日8月16日は、祖父の誕生日でもあって、お盆であるかどうかに関わらず、何とも先祖やその他連綿と続く生命に思いを致す時期でもあります。 いわゆるネタバレは避けますが、今日は“君た

          生命に思いを致す8月16日

          12年間を振り返る vol.01

          12年という周期は、干支が一回りする期間でもあり、星回りでいうと木星が太陽の周りを一周する期間でもある。 人間にとっても、天体にとっても、一巡する間を振り返りつつ、自らの来し方行く末について思いを致しながら筆を執る。 そう、これはどこまでも自分のための文章である。 2011年というと、職を変わったのが2月、結婚したのが9月で、イベントには事欠かなかった。 物心もつかぬ2歳までの間、隣人であった方(もちろんこちらは記憶はないのだけど、あちらは面影がある、と仰って

          12年間を振り返る vol.01

          終わった何かについての考察、あるいは始めることへの助走について

          2020年4月1日に、私自身が初めてのnote“始まったばかり”を記してから、3年と1ヶ月と4日が経った2023年5月5日にWorld Health Organizationが、終息を告げた。 何が始まり、何が終わったのか、その尺度をどこに置くのかによって、如何様にも語れるけれど、ここでは牡羊座の私らしく、自分自身のことから書き始めてみようと思う。 まず何よりも大きなtopicとしては、“始まったばかり”の記事に続けて書いていた自分史のことが挙げられる。 フォロワーもいない

          終わった何かについての考察、あるいは始めることへの助走について

          あるとあらぬの間で~欠損と埋め合わせ

          ”あらぬ物はあらぬ”と言ったのは、哲学の始祖と言われるソクラテスよりも遡ること更に半世紀、紀元前520年頃-紀元前450年頃に活躍した、パルメニデスであるけれど、QUANTA主催のホニャララライブで、直近のアーカイブである、由佐美加子さんをゲストに、yujiさん,井出さんのお三方でされたクロストークは、まさに三賢人の鼎談といった体であった(鼎談のてい、と体のてい、とを掛けた洒落)。 人間が本質的に欠損を持って生きている存在であることは、プラトンが“饗宴”においてアリストファ

          あるとあらぬの間で~欠損と埋め合わせ

          “I am...”について

          浜崎あゆみの“I am...”というアルバムは2002年1月1日の発売で、私で言うと高校二年生の冬休みに当たっている。 このアルバムとともに自分の人生が絶望の底から浮かび上がったという記憶が鮮明にあって、それは現実の時間軸における正しさはともかくとして、今の自分にとって最も正確な記憶の一つである。 それは変な表現かもしれぬが、アルバムにおける一等星“evolution”でayuもこう謳っているのだから、歴史的な正しさよりも、自らの記憶を緒(いとぐち)にして進めよう。 現実

          “I am...”について