「始まったばかり」

「始まったばかり」という言葉は、今(2020年4月1日)に使うとどう響くだろうか。

本来この言葉自体に、善悪のニュアンスはないはずで、その前後に繋がる文章によって良くも悪くも意味を強調できるのだけれど、「今」の停滞感の中では悪い文脈で使われることが圧倒的に多いため、「始まったばかり」に悪い予感を感じる人が多数派なのではないか。

11か月前に遡ってみると、ちょうど平成から令和に変わるときにあたっていて、「始まったばかり」の令和に何となく世の中の雰囲気も前向きだったように記憶しているのは、私だけではないはず。
もっと古い記憶を思い起こすなら、私がまだ幼稚園だった頃にも元号は変わっていて、歴史の教科書では最後の年表に小渕さんが載っていたっけ。今の子どもたちが大人になる頃、同じように記憶に残る改元であるか否かはさておいて…

新しい時代というのは、本来良いも悪いもないはずなのだと、そう強く思いながら、私は相も変わらず音楽を友として自身の歩みを進めて行こう。

パッヘルベルのカノンを本歌取りしたBob Jamesの『In The Garden』を聴くため、『One』というアルバムを買ったのは高校生の頃。原曲の旋律と歩調を合わせ転がるような音色のキーボードに、当時と変わらず魅せられつつ、今にして思うのはBob Jamesが自らの1st Albumに、古典からアイデアを借りたことの尊さで、自分の独自性よりも先達に敬意を表すことを第一歩としたのは、相当な覚悟の上での英断に違いない。

(2021年10月10日、下記2段落を加筆しました)

ちなみに私は、Johann Sebastian Bachと誕生日が同じ。伝記を少し繙くと、“音楽の父”という高尚な呼び名とは裏腹に、とても頑固で周囲との軋轢は凄まじかったことがわかる。雇用契約に納得できなかった彼が、雇用主たる城主には辞職願いを上奏し続けたものだから、手を焼いた城主が苦肉の策として、今で言う研修旅行みたいな旅の許可を出した際は、期間を大幅に超えて帰ってきた上に、そのすぐ後に飽きたらずに辞表を提出、城主の逆鱗に触れて投獄までされた挙句、1ヶ月を経てようやく暇を出された、なんてエピソードは若気の至り(にしても酷い)としても、伝記を壮年,中年,老年と読み進んでもなお、衝突したエピソードには事欠かず、余程言うことが聞けない人間であったことが分かる。

もちろん、そうした剃刀のような部分はBachの人間性にとって一部分でしかなく、それが音楽性の評価を些かも損なうものではないけれど、伝記を読む中で興味深いのは、そうした闘争に明け暮れていた頃と、静謐な曲が書かれた時期が符合することで。静かな調べが平穏無事な環境とは真逆の、非常に騒々しい生活から生み出されたことは、私達が今置かれている環境の捉え方を、少し変化させるように思う。Bachが音楽の世界に新しい価値を生み出したからこそ、330年以上経た今なお鳴り続けているように、私がこの混沌とした世界で生み出すものが、時を超えて価値を持つかもしれない、とすると、随分と面白い時代が訪れたと言えなくはないか。当時、「始まったばかり」の新しい音楽に聴衆が歓喜したように、新しい時代が「始まったばかり」の今を味わい、新しい音を奏でてみようではないか。

そう、このnoteでは自らの歩みを自分史として綴る試みをしてみようと思っている。自分を自分たらしめている出逢いや、そのときの感情、もしくは今の自分から見た意味、なんてとても個人的であり、その先では「今」や「これから」、そして誰かの未来へ繋がるものになるのかもしれない。

(2023年9月1日、下記2段落を加筆し、有料部分を解放、完全無料化しました)

そして、自分についての認識が、他者を通じて改まった今、またこの「始まったばかり」に戻ってきた自分がいる。

むしろ、ある意味では始まってもいなかった38年間が、これまでの自分史だったのかもしれないけれど、それも含めて無駄なものはなかった(暇潰しは散々にした)わけで、この後に新規投稿することになる無境界な文章が、新しい私と新しい貴方とを繋ぐことになると思うと、とても楽しみであるし、欲を言えば、私の変化を感じて、世界の変化のトリガーになれば幸いである。

このnoteの行く末を面白がってくれる人がいるなら、私は「始まったばかり」の今も悪くないと思う。

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