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自分を自分たらしめている存在について

自分が人に与えている影響について、人を通じて知覚することになった今日の昼下がり。
mikaさんにオラクルカードを引いていただきながら、籠の中と外とに止まった蝶の姿が、境界線を引き直している今の私に重なる様を、とても面白く読んでいただいた。
このセッションを受ける少し前に、hanaさんが投稿された箱根の山中で蝶と戯れていらっしゃる写真を拝見していたことや、昨日だったか一昨日だったかに藤原直哉さんが“日本と世界にひとこと”の中で、アゲハ蝶と相場についての喩えを挙げていらっしゃったこと、そして遅々と読んだり休んだりしながら進んでいる下西風澄さんの“生成と消滅の精神史”の内、フッサールの項を読んでいたことも、なるほど私は今までもこれからも、自分と他者、自分と学びとの間に体験(そう、体験とは“身体を使った経験”に他ならない。況やVRをや)をし続けて生きて行くのやなぁ、と思っている。

と、今しがた耳元に着けたJabraのイヤフォンから流れていた激しいbeatは、Bob JamesとDavid Sanbornによるアルバム“DOUBLE VISION”に収録されている“Never Enough”という曲だったわけで、飽くことなく本を読み続け、飽くことなく人と出逢い続けると思いを新たにした今日にとって、余りにもしっくり来るものであった。

昨日、一昨日と、疲れに身を任せて、働きながらも休んでいるような日々の中で、執筆は若干の間が空いたけれど、その間にもたくさんの気づきがあって、明日からの私の糧になることは間違いない。
ちなみに、明日からの私は、20,21に三重県、22に熊本大分の二県、23に大阪、24に静岡と、随分と多くの土地へ赴き、そこここで人と出逢う予定になっていて、それぞれの土地か見える景色と、そこで自らがどのように影響を受け/与えるのか、楽しみでならない。
“パースペクティヴ”という言葉は人によって、馴染みがあったりなかったりするだろうが、私のように
初めから俯瞰する視点が得意でなくとも、位置を移動させながら、そこから開ける新しい視野が、自分と世界とを再定義してくれるから、心配は無用である。

“書を捨てよ町へ出よう”が、寺山修司による評論集の名称とは知らずとも、多くの方が目にしたり耳にしたりしたことがあるだろうが、書を友としつつ山野を巡っても良いわけで、実際私は読むかどうかも分からない本を携えて、あちこち出掛けている。
どこかで書いたり喋ったりしたことに、本というものと我々との間には不思議な作用があって、一言一句逃すまいとして読まなくとも、傍らに置いておくだけで一定以上の感得が出来るものであるから、鞄の中に一冊忍ばせておくことは、ただの重し以上の意味がある。
“賦霊の自然哲学”を携えて鞍馬山へ、“講義 アメリカの思想と文学―分断を乗り越える「声」を聴く”を片手に金鳥山へ登る必要はないけれど(いずれも私の2年前と今年の、実体験)、ほんの20年前にはまだまだ電子書籍が普及していなかったから、哲学書やら文学作品やらを鞄入れて、あちこちのカフェへ出掛けていた当時の私が、今の私を見たら、きっと微笑ましく感じてくれるだろう。

ということで、哲学科へ入るどころか、まだ音響設計学科を志望し、選択科目では音楽を選んでいた高校生の私(母校には、公立高校には珍しい音楽科に立派なホールとピアノがあり、たくさん並んだレッスン室が、我々選択科目でお遊び程度の人間にも割り当てられたのだった)が、一人一人お気に入りの楽曲を紹介する時間に流してもらった、S.E.N.S.“Future”という曲で、一旦ペンを置こうと思う。

出来ることなら、ここまで読んでくれた貴方がお持ちの音響機器の中で、最も低音が鳴るスピーカーやヘッドフォンで向き合っていただければ幸いである。

https://open.spotify.com/track/3XdymiXcVa4tDLdnadzYNX?si=NzTeS_DgS-iG6t9CF-orsw&context=spotify%3Atrack%3A3XdymiXcVa4tDLdnadzYNX


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