シン・ウルトラマン感想「かくて神話は塗り替えられる」

樋口真嗣監督×庵野秀明製作・脚本「シン・ウルトラマン」を見たので、その感想を書いてみたい。

マーベル映画やDC映画のように今やすっかり大人が見る映画になったアメリカのヒーローもの。
日本の場合、ウルトラマンでも仮面ライダーでもいまだに子どもが視聴するカテゴリーのままだ。
ウルトラマンシリーズもかって2004年に「ULTRAMAN」や「ウルトラマンネクサス」などで大人の鑑賞に堪える作品に方向転換する挑戦をしたものの、惨敗。
慌てて元通りの路線戻した経緯がある。
「シン・ウルトラマン」の大ヒットによってやっとスタート地点に立てたような気がする。
そして、それは限りなく原型の「ウルトラマン」「ウルトラQ」のフォーマットと活かしたもので、改めてオリジナルの斬新さと、クオリティの高さを再認識した。
と同時に、オリジナルファンとしては首を傾げる点がいくつか見受けられた。
しかし、その違和感こそが「シン・ウルトラマン」の見るべきポイントかもしれない。
そんな気がしている。

カラータイマーもシュワッチもない! そして……

今回も「シン・ゴジラ」同様に、高速のテンポで展開していく。なにせ本の数分で「ウルトラQ」のエピソードを消化。
「ウルトラQ」は「ウルトラマン」の前年に製作されており出てくるのは怪獣だけ。ちなみに第1話に登場するゴメスはあのゴジラを改造したものだ。(「ウルトラマン」のジラースも同様)
この「ウルトラQ」に登場する怪獣がウルトラマンや星人たちが地球に現れる伏線になっている。
透明怪獣ネロンガが現れて、科学特捜隊通称「科特隊」ならぬ「禍特対」に――
あえて当て字で同音異義語にしているのは、「これはホンモノのウルトラマンじゃないですよ。パラレルワールドですよ」という庵野のメッセージだろう。やはり「シン」とついた作品は基本二次創作なのだ。
そして、自衛隊と組んだ対策本部。
怪獣に直接対峙するよりも、みんなパナソニックのパソコンに向かってガチャガチャとデータ分析している。
もはや、「仕事をする」「現実の問題に立ち向かう」とい行動自体がパソコン画面を見るということなのかもしらない。
……そして、いよいよ「ウルトラマン」が登場!
しかし……カラータイマーがない、そしてあのシュワッチもいわない、さらにさらに……スペシウム光線を出しても、怪獣は爆発しない。
でこの3つが封印されることで気がついた。
ウルトラマンを見るときのあのワクワクとドキドキがカラータイマーとウルトラマンの声とスペシウム光線の3つに集約されちているということを。
まず、ウルトラマンどころか怪獣さえも声を発しない。生物学的に声が出ないということだろうか?
ウルトラマンごっこをするときに重要なのがあの独特の声だ。
子どもは実際は生身の人間。頭の中でだけあのウルトラマンの姿になっている。ウルトラマンの姿に唯一似せられるのはあの声だけなのだ。
ジュワッと言わないウルトラマンは、怪鳥音のないブルース・リー、効果音のない必殺シリーズ、もっというとあえぎ声のないAVのようなものだ。
そして、カラータイマーはウルトラマンのピンチのサイン。カラータイマーが赤く点滅し、ピコンピコンとなることで、「頑張れウルトラマン、早く光線を出せ!」とハラハラしながらも応援し、最後の最後に出す光線で怪獣や星人をやっつけて、ホッとするというパターン。
「これこそがウルトラマンだろ!」と思う旧来のファンである自分と、「いや、待てよ。むしろこの3点こそがウルトラシリーズを子ども番組に留めていた原因かも……」と気づく自分がいた。
ウルトラマンをウルトラマンたらしめるものをそぎ落とした結果、残ったものそれがウルトラマンの本質なのかもしれない。
「シン・ウルトラマン」はウルトラマンに新しい要素を付け加えるのではなく、引き算されたものなのだ。

われわれは神話が書き換わる瞬間を目撃しているのかもしれない

BS2で『ダークミステリー』という番組がある。
ちょうどエヴァに登場した「ロンギヌスの槍」「死海文書」や「聖杯伝説」などのアイテムがなぜ今のように神秘的な力を持つと言われるようになったかのプロセスが解説されていた。
たとえば「ロンギヌスの槍」はキリストの処刑のときに使われた本来なら不吉な槍だった。
それがのちに処刑人ロンギヌスの目にキリストの血がかかり、目の病が治ったという伝説が付加された。
キリストの没後、千年後に伝記作家が聖人について書かれた列伝に、キリスト以前の古代の伝承や神話をくっつけて付加されていったのだという。
他のアイテムも同様で、元はただの物だったのに、キリストやら古代の神話などの奇跡が付与されて、
エンタメの世界では絶対的な力を持つようになったのだという。
長々と「シン・ウルトラマン」と関係ないことを語ってもうしわけないが、「シン・ウルトラマン」を見て、この話と関連づけないわけにはいかなかった。
「新約聖書」が書かれたことによって、本来ユダヤ教にとっては正編であるはずの「旧約聖書」がキリスト生誕までの前日譚になってしまった。
おそらく今後人々は『ゴジラ』と言えば、「シン・ゴジラ」のことを言うし、「ウルトラマン」といえば「シン・ウルトラマン」のことを言うだろう。
そして、「シン・仮面ライダー」も。
今までのものを踏まえながら、肉付けしているなら問題ないだろうが、今までのものをほぼ同じながら微妙に差し替えや書き換えが行われているのは、実は始末が悪い。
しかも、それを行っているのが影響力のある庵野秀明だからなおさらのことだ。
「ウルトラQ」「ウルトラマン」の作品そのものが蹂躙され、あたかも最初から庵野秀明から作られたもの。あるいは庵野秀明に書き換えるために作られたもののようになっている気がする。
「シン・ゴジラ」は最初からオリジナルゴジラと全く設定が違っていたので、最初から本来のゴジラとは違うものだと認識できた。しかし、今回はビジュアル・設定がほぼオリジナルと同じなので余計に目立つ。
それは庵野がウルトラマンをあまりにも好きすぎて、壊すことをためらったからかもしれない。
とはいえ、もともと「ウルトラマン」も「ウルトラセブン」も独立した作品であり、「ウルトラ兄弟」という設定自体ができたのは「帰ってきたウルトラマン」から。
書き換えられなかったはずの「ウルトラマン」を追及したかったのかもしれない。

最大の書き換えの部分・ゾフィーとウルトラマンの設定

見た人にとってはさほど気にならないかもしれない設定の微妙な書き換えは随所に行われている。
まず主人公・神永新二がウルトラマンになった経緯。子どもの命を守るために命を落としたのは「帰ってきたウルトラマン」
本来戦ってはいけない役で、よその星の生き死に干渉してはいけない役割だったのはウルトラセブンでセブンの名は「恒点観測員340号」だった。
そして最大の書き換えはゾフィーたちの存在が本来は、同類同士で殺し合う地球人を本来滅ぼす立場だということ。
その上、ウルトラQにおいて突如、怪獣たちが地上に出現してきて、その後、ウルトラマンで宇宙人(シン・ウルトラマンでは外来人)が地球にやってきた理由もあきらかになる。
Qとマンの設定に整合性があるように、理論付けられている。

オリジナルのウルトラマンはそもそも地球人の味方で、それは揺るぎないものだ。
だが、「シン・ウルトラマン」ではウルトラマンの設定そのものに改変が行われている。

「ウルトラマン」の前年に放送された手塚治虫の「W3(ワンダースリー)」。

同胞で殺し合う地球人の悪評を聞いた銀河連盟はW3を派遣して地球を破壊するべき星か否か調査させる。
ひかりの国の住人の設定がW3の銀河連盟に近い立場にすりかわっているのだ。
「エヴァンゲリオン」を作った人だから、悲観的な世界観であるのは当然。
藤子不二雄、石森章太郎、赤塚不二夫など手塚作品の影響を受けているトキワ荘の漫画家たちの作品には根底的に手塚悲観主義が描かれている。
おそらく「シン・仮面ライダー」と庵野の悲観主義は通底で一致しているから齟齬はないはず。
ところがウルトラマンがやってきたのは「ひかりの国」ウルトラマンのベースを作った金城哲夫と上原正三を描いたドラマ「ふたりのウルトラマン」では
ひかりの国のモデルは沖縄の伝説の理想郷・ニライカナイだと描いていた。
ひかりの国の人々はあくまでも全てを受け入れる存在であるべきなのに、今回のひかりの国の住人はちと人類に対して厳しかった。

言っておくが私は手塚治虫も石森章太郎も庵野秀明も大好きだ。
どちらかというと手塚治虫や石森章太郎のイズムに賛同する立場。

だけど、元々のウルトラマンの立ち位置を崩したらいかんでしょうという見解だ。その立ち位置を崩したら、それはもはやウルトラマンではない。似て非なるものだ。

旧約聖書の神様ヤホベがいつのまにかキリストが神にすりかわっているのように、「ウルトラマン」もしれっと「ニセ・ウルトラマン」にすり替えられている恐怖を感じた。
二次創作らしいごちゃ混ぜ盛りがここでもなされている。
ひょっとしたら「シン・ウルトラマン」のウルトラマンが一言もシュワッチと言わなかったのはニセモノだとバレるのを恐れたから。
そう言えば、シリーズごとにニセ者が登場するが、ニセ者フラグはいつもシュワッ言わないことだった。
と言っても、この「シン・ウルトラマン」が多くの人のイメージするウルトラマンになるんだろうなあ。
あなたの見たウルトラマンはホンモノのウルトラマンですか?


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