骨

骨を埋める覚悟でやる

こんなことを言うと、超ブラック企業など言われそうです。また、昨今の、働き方改革、兼業、ワークライフバランスみたいなことからの流れとは、異なる言葉ですね。しかし「骨を埋める覚悟でやる」このくらいの覚悟がないと、仕事に迫力が出ないし、真剣さは伝わらない。これは古今東西変わらぬ真理でしょう。

【真理】
絶対に成し遂げなければならない。しかし、簡単ではない。。。そういう局面を突破するのは、ある面で、目に見えない力。その人がその場にいることからくる迫真さです。その迫真さは、深い源泉と繋がる無限のエネルギーからくるものであり、その人個人の意思や欲求みたいなことではそうした深い力につながりません。Background Potential Forceとも言えるでしょう。

*Forceについてはこちら。

「志」とも言いますが、より広く深い源泉と繋がり「意志(意思、意図でなく)」として立ち上がってくるものこそが、局面を打開していきます。

では、なぜ打開できるのか? それは、相手の心・認識に響くからでしょう。こうして成されていく仕事は、不利な状況でもまず最初に理解者が現れ、それがまた一人また一人と重なり、やがて大きな運動エネルギーとして広がっていきます(生物学的には、生存・増殖)。そうしたことを成功と呼ぶのでしょう。お金はそれが見えやすくなっているだけで、背景で動いているのは、掘り出されたエネルギーの拡散・増殖です。私たちは、人間社会で生きていて、動きづらいものを動かすには、共感の輪が広がることが必要です。共感の輪が広がった時、それは、その本人にも大きな喜びとなって返ってきます。社会に必要なエネルギーを掘り出した場所に、時空間を通り、形を変えてエネルギーは返ってくるのは、エネルギー保存の法則から必然とも言えます。

いつの時代もそうだった。
「いつの時代も、やる奴はやる。やらない奴はやらない。」
これは、矢沢永吉さんのセリフだけど、全くもってその通り。


【組織への個人の見解】
「それはわかりますが、理想的にはそうですが、うちの上は全然聞いてくれないんですよ。」
「話が通じないんですよね。」
「どんだけやっても、給料変わらないんで。。。。」
「無意味な指示ばかりで、本当にやるべきことがやれません。まじで、変わって欲しい。」

うんうん。よく分かるよ。組織に身を置いたことがある人なら、誰もが聞いたことがあるセリフ。変わるべきは、自分かもしれませんが。

【組織を運営する側の見解】
「そうなんですよね。そう言う人間ばかりだとありがたいのですが。。。なかなか。人は悪くないんですが。。。」
「あんまり多くを期待しないようにしてます。」
「なかなか、優先順位を理解してくれなくて。。。」

これもよくある話。こちらも、自分の目の前の世界を信じてない。

さて、この二つが組織を取り巻く標準状態だとしたなら、どう乗り越えましょう。

【解決】

こうした状況に組織的方法論はありません。個人の発達段階を高めるしかないのです。あえて言うなら、そうした気づきを得られる環境に放り込むと言う事でしょう。上記は、いずれも他責で組織を絶対視し、目の前にいる人間と共に、難題に向き合うと言う状況になっていません。では、個人の発達段階を高めると、「どこででも骨を埋められるのか?」なんて問うのもナンセンス極まりないです。そんな、訳がありません。人に強要されるものでもありません気づきを深めて、「自分が骨を埋めてまでやる仕事でない」と気づけば、去っていきますし、それが双方にとって良い事でしょう。

私たちが最初に行うことは、自分が骨を埋める覚悟でやれることが「何か?」を探すことです。そのために、全員がもう一度自分に問わなければいけないのは、

Where「この時代、自分の立つ場をどのように定義するのか」
Who「その定義をした君は一体何者か?」

という二点です。この二点が明確になるからこそ、

Why「なぜ、社会はこうなのだろう?」

と、自分の考える理想状態との剥離から問いを立てることができます。その問いは、そもそも、自らの定義から来ているので、当然なんとしても成し遂げたい課題です。そうした課題意識と全く関係ない場所にいるなら、それは、本来いるべき場所にいないので、そこに向けて動かねばならないでしょう。時代が動くのを仕掛けて待つことも大事ですが、自身のキャリアの時間軸の中で時代がどの程度動くかは、よく考えないといけません。

キャリア論も、組織論も、マーケティングも、あらゆる手法は、こうした点を踏まえてなければ薄っぺらいただの方法論となってしまい、外側から見た成功も、自分に取っては意味のないものだったと、死を目前にしたら、虚しく気づくことになるかもしれません。


それでも社会的成功を得られたなら、まだ良い方ですが、それで、そうした他者承認すら手に入らなければ、目も当てられません。(本質的には同じですが。)

方法論が不要だと言っているのではなく、ものすごくたくさんあるのでどれでも使えば良いのですが、そこにいく前の「構え」ができてなければどれも、根本的問題は解決しないだろうということです。

根本的問題が解決しているのか、していないのかは、私たち全員が自分で感じているはずです。それを、直視するのか、無視して、ないことにするのかは自由ですがこれは、人生を通して追いかけてくる問いです。

「君は誰だ?」
「君のいるそこは、どういう場なのだ?」
「なぜ、そう思うのだ?」
「で、どうするんだ?」

このくらいシンプルな問いに、きちんと答えること。自己紹介ともいえますが、自分のことがわからないと自己紹介はできませんし、自分を知ると言うことは、なかなか一人ではできない。それには、学べき型もあるし、フィードバックをくれる場所もいるでしょう。

私たち自身のマインドセットが、16世紀ごろの科学でできた、18世紀以降の社会観に基づいているため自己イメージを刷新できないでいます。まずは、自己イメージを刷新しなければなりません。

ニュートン

どれほど、太陽が東から昇り西に沈むように見えても、動いているのは私たちの方です。認識範囲を広げると必ずしも直観が正しいわけではありません。今は、21世紀です。20世紀に大きく進歩した科学的知見を踏まえて、そろそろ自己イメージ、社会イメージのコペルニクス的転換が必要な時代です。我々の開いている「WaLaの哲学」では、そうした問いを深めています。3期が始まったばかりですが、いよいよ、4月以降の第4期の日程が決まりました!


2月19日よりオリエンテーションを順次行います。
オリエンテーション だけでも、十分知的刺激溢れる会になると思います。
ピンとくる方は、ぜひいらしてください。

素晴らしい2020年をスタートされてますか?

節分くらいまでには、今年の覚悟定まると良いですね!

WaLaの哲学座長 屬 健太郎


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