日本人と“文字数制限”

これはいつか自分の尊敬する先輩が言っていたことというか、その人が言っていたことのほぼパクr...備忘録になってしまうのだけれど、いろいろ思うことがあるので書きます。

今やとてもとても多くの人が使っているTwitter、最近はニュースなどでも耳にしない日はない。もちろん自分も使っていて3つアカウントをもっています。リアル友達用と趣味用とゲーム用。たしか初めて登録したのは2013年の春だったような気がする。

最近どのアカウントのタイムラインを見ても

「美しくないな」

 と思ってしまうことがとても多い。多くはリツイートで回って来るものだけれど、汚い言葉、晒し上げ、どうも怪しいキャンペーンへの誘導、特定の個人の粗探し、一個人への集中砲火、周りが見えていない一方的な政治系ツイート、それに対するこれまた一方的なバッシング、数えてみればキリがない。いつの間に日本人の民度はここまで落ちてしまったのか、いつかの時代の気高さはどこへ行ってしまったのか、と。(海外の事例は詳しくないから一概には言えないけれど)

ここでちょっと考えてみてほしい。日本人はおよそ奈良時代から江戸時代にかけて和歌や俳句、川柳などの“文字制限”のある文化を生み出した。それは日本語の美しさを身をもって実感することができる日本が世界に誇る文化と言って間違いない。かつては愛する人への想いも31文字に込めてきた。それらは文字制限によって美しさが際立つものではないだろうか。

限られた文字数の中にどれだけの作者自身の想いや自然の表情を埋め込めるか。それが完成するとき、文字制限により美しさが制限されるのではなく、むしろ洗練された美しさが最大限に引き出される。

さて、同じく140文字の制限があるTwitterはどうなのだろう。もちろん制限された文字数は異なるけれど、それは“美しい”と言えるだろうか。

完全に自分の主観だけれど、Twitterでそのような美しさを表現できる人はほんのひと握りしかいない。(でもそんな人も確かにいる。本当にいる。マジですごいと思うし弟子入りさせてください) 

これは“日本人とTwitterの相性”に起因しているのではないかな、と個人的には思う。周知の通り日本は文明開化以来数えきれないほどの西洋文化を輸入してきた。それから150年近くの時を経てアメリカから海を渡ってきたTwitterはどうも日本人には扱いが難しい気がする。文字制限があるのは同じなのにどうしてそうなってしまうのか。

様々な要因が考えられるけれど、やはり「言葉の重み」の変化が大きいと思う。例えばかつて和歌に込めてられていた愛する人へのその31文字の重みは計り知れない。

インターネットが発達した今の時代、自分の考えを全世界に発信することは驚くほどに簡単になった。だからこそ140文字はちょうど発信しやすい文字数なのだろう。だからこそ安易にあまりにたくさんのことを発信しすぎてしまう。制約があるからこそ言葉の重みが失われてしまっている。これは1000年前と正反対の現象だ。

ここまで来て決して日本人はTwitterを使うべきではないと言うわけではない。むしろTwitterで日本人にしかできないことがあると思っている。今はまだモヤモヤしていて具体的には言えないけれど、自分がTwitterを使っていく中でいつか突き止めたいな、と思う。どうすればインターネットの波の中でも美しくいられるのだろう、と。今の時点でいろいろ考えてることはあるけどこれは長くなっちゃうから今度続き書くね。

日本人だからこその、TwitterをはじめとするSNSとの向き合い方があるんじゃないかと思った夜更けでした。日本人としてもっと和歌とかも勉強しないとなー。

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