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川越さんぽ!河越館跡

川越で【上戸】と言えば?
上戸 彩うえと あや】ではなく

上戸うわど】ですん💖

上戸に来たなら

国指定史跡 河越館跡!

河越館跡 史跡公園 説明台

河越館跡は昭和59年12月6日
国指定史跡に指定されました
国指定史跡と言えば!
昨年 市内大塚の
【山王塚古墳】が文科大臣に答申され

今年の春には指定されるはずです

地図

市内に2か所も国指定史跡がある川越市

大きな建物は
川越市立上戸小学校

平安時代 朝廷は地方を治める為
都から貴族を国司こくしとして派遣していた
当時 都では藤原氏が実権を握り
他の貴族たちは それに従うしかなかった

国司となった貴族の中には
4年の任期が終了しても
都に戻らず そのまま住み着き
新しく土地を開くことを望むようになった

桓武天皇かんむてんのうから出た桓武平氏かんむへいしの出で
秩父に住み着いた秩父氏ちちぶし
その一人でした

秩父重綱ちちぶしげつなの次男 重隆しげたか
秩父から荒川伝いに下り【河越上戸】に
家族・家来を引き連れ 館を造り土着
河越氏かわごえし】と名乗り栄えたのが始まりと聞きます

秩父から引っ越しの前に
河越 先住の仙波氏せんばし!下流の難波田氏なんばたし
西の丹党たんとう!北の児玉氏こだましとの
話し合いをしっかり行い
争う事もありませんでした

ちゃんとした根回しの必要は
今も昔も変わらないんですね😝テヘ

川越の地名の起源には諸説あります
この地に行くには どの方向から来ても
えなければならぬから 河越になった説

豊富なの水が栄養のある土を運び
土地が
田畑に質の良い土であるから
河肥になった説等

河越館跡公園に行くと

塚状遺構

河越氏の屋敷地内の霊廟
あるいは納骨堂だったと
考えられる遺構です
盛土の表面に石を葺き
周囲は溝で囲まれていました

井戸跡

河越氏の屋敷地内にあった井戸です
同時代の絵画資料をもとに
井戸枠を再現されています

土塁跡

山内上杉氏陣所が置かれた頃の土塁

堀や通路もあります

まとめますと・・
河越氏は桓武平氏・秩父氏の流れをくみ
平安時代末から南北朝時代にかけて
武蔵国でも有数の勢力を誇った武士です
このことは河越重頼の京姫が源義経の正妻に
なったことからも窺い知れます
しかし!室町時代の貞治6年1367年
鎌倉公方足利基氏が死去すると
関東を統治するために設置された
政庁である鎌倉府と
河越直重を中心とする平一揆との関係が悪化
応安元年1368年 平一揆が河越館に立て籠り
鎌倉府に反旗を翻しますが
結果 敗北してしまいます
武蔵平一揆の乱
これ以降 河越氏は歴史の表舞台から姿を消します

堀跡

数度に渡る遺跡の発掘調査で
河越氏時代の堀跡や
山内上杉氏陣所の堀跡も
区画を分けてあります

この通りの先には【入間川】が流れ
水運もできたそうです

時宗 河越山 三芳野院 常楽寺

常楽寺は河越氏の持仏堂
基となって発展したものとされます

応安元年(1368年)武蔵平一揆で河越氏が滅んだあと
長享の乱の際には
扇谷上杉家河越城を攻略するため
山内上杉家上杉顕定がここに上戸陣を置いた

常楽寺 本堂

後北条氏が川越を支配すると重臣の
大道寺政繁が領主となったが
豊臣秀吉小田原征伐に屈し

秀吉の命で大道寺政繁は
この地で自害した大道寺政繁供養搭がある

左から京姫・河越重頼公・源義経公の供養塔

また河越重頼・京姫(郷御前)・源義経の供養塔もあります
京姫は義経の正室で
義経と4歳の娘と共に平泉・衣川館で最期を遂げ
重頼もそのため源頼朝に誅殺された

一遍上人 像

境内に一遍上人の像があります

増上寺より移築した石灯籠

石灯篭は かつて東京芝の
増上寺の徳川家の墓所にあったもの
(Wikipediaより)

ここで 休憩
お昼になったので 霞ヶ関まで行って

四川料理 龍の子

龍の子さんで お昼ご飯です

今週の定食

豚肉と青梗菜チンゲンサイの炒め定食 850円にしました

龍の子 店内

テレビを観て料理待ち

餃子がひとつとキムチ 沢庵付き
汁物は中華スープ!美味しい

ごちそうさまでした

角栄商店街

かすみ北通りは・・

ちっと寂しいシャッター通り

和菓子 かどや
開店と同時に人気商品が無くなるとか・・

お土産を買いました
いなり寿司が 一つ70円は安い!
買わなかったけど・・💦

帰り道に
上戸の日枝神社に寄りました

別日に撮った上戸の日枝神社への道
(右へ進むと上戸の日枝神社)

ここの分かれ道に建つ建物が
薄くないかい?
いつも気になって💦

上戸の日枝神社

伝説 虚無僧塚こむそうつか
昔 鳥居の前に小さな塚がありました
(現在はありません)
神社前を通りかかった虚無僧と修験者が喧嘩
真剣勝負をすることになり
結果!修験者が勝ち虚無僧は亡くなりました
その後 しばらく経った9月13日の
十三夜のおまつりの際 虚無僧の身内が
敵討ちにあらわれ修験者を後ろから
斬りつけました
それが原因となり日枝神社で
十三夜のおまつりは決して行わないそうです

石鳥居
鳥居額
日枝神社 拝殿

常楽寺の北西ほど近くに新日吉神社いまひえじんじゃ
(現在の上戸の日枝神社)があります
永暦元年1160年後白河法皇が京都東山に
新日吉山王社を祀ったのにともない
河越氏がこの地を新日吉山王社に寄進
新日吉社領河越荘となった 

河越重頼は 京都の新日吉山王社から分祀して
この地に新日吉神社を創建
以来 河越荘の総鎮守として
河越氏一族が崇敬した神社でした
明治時代神仏分離令
「日枝神社」と名を変えて現在に至っています
(川越市小仙波の日枝神社とは別) 
河越重頼が新日吉神社に奉納した太刀は
川越歴史博物館に所蔵されています

文応元年1260年河越経重
新日吉神社に銅鐘を寄進

銅 鐘(複製)川越市立博物館
養寿院

現在は
川越市内の養寿院が所有
(国の重要文化財)非公開

拝殿 日吉神社 額

かつては 常楽寺より
新日吉神社に鎌倉街道が通っていました
(Wikipediaより)

拝殿・幣殿・本殿の社殿造り
本殿 内陣に
懸 仏かげぼとけが祀られています
鋳出しの手法で弥陀三尊をあらわしたもので
二箇の釣手の耳をもち
鉄円盤の直径は25㎝
室町時代の製作と思われる
懸 仏 とは円盤上に仏像
または神像をあらわし
本神仏を神鏡面に影現したもので
神社・仏閣の内陣に
懸けるようにしたものです
(平成5年3月 川越市教育委員会)

河越館跡の資料展示は
川越市 鯨井にある

川越西文化会館

川越西文化会館のロビー奥の窓際に

ロビー奥の窓へ

ご興味がある方は川越の現地へ
来てくださいたま🙇

帰宅してお土産を開けると

手前におにぎりがありましたけど
嫁さまがひとつ持って行きました

かどやさんの太巻きは美味しい
かんぴょう巻大好き
おにぎりは具の鮭がゴロリと入った
絶品です✨明太子も良かったとか💦
次回は【草餅】がある時に行きたい

(完)

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これからもよろしくお願いします🙇

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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