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映画「怪物」の感想分析 後編

「つくる、つながる、とどける」

普段SNSとかって鍵かけてしか使たことなかったんですけど、Noteってオープンアカウントしかないんですよね。だから自分の投稿が全く知らない人の目に触れる機会が多いし、その分リアクションもすこしは多い。まったく知らない人からフォローやいいねが来たりするのって不思議な感覚ですね。

何かを書きたい、伝えたいという意思から自分の文章を「つくる」
たまたまそれを知りたかった人がいて、その作品作者と「つながる」
読み終わったときにはその人が何を伝えたかったのかが「とどく」

noteの企業理念はここにあるらしい。自分の考えたことが、とどくといいな



後編です。示唆パート。前編の感想パートを踏まえたうえで、制作側の「生の声」を参考にじゃあ結局この映画、何がしたかったの?というところの真実をお伝えしようというパート。ただ、この映画、初見で思った方も多いとは思うがとにかく鑑賞者に解釈がゆだねられているため、一概に「これが正解だよ」「その解釈は間違ってるよ」とは言えない部分がある。その辺のあいまいなところには多く触れず、制作側が明言している部分を主に扱いたい。あとごめん。感想パートで書き損じた「感想」がある。だからインタービュー読んだうえでの感想、みたいな感じかもしれない。。失敬!

前編もどうぞ。





怪物って何?

「怪物だーれだ?」というセリフが予告編で流れる映画だ、怪物を探すのは当然の試みである。
さて、じゃあ結局「怪物」ってなんなのさ、ってところから。

インタビューの中で映画内での「怪物」に触れている箇所はいくつかある。

息子に「豚の脳」という言葉が向けられたという怒りを抱えた母親が、同じ言葉を先生に向けて放つ。そこが凄い脚本だと感じました。誰でもが怪物になりうるという反転の仕方。

【カンヌ2023】『怪物』是枝監督インタビュー。坂元脚本を、自分に引き寄せ格闘した物語とは|カルチャー|ELLE[エル デジタル]

【カンヌ2023】『怪物』是枝監督インタビュー。坂元脚本を、自分に引き寄せ格闘した物語とは|カルチャー|ELLE[エル デジタル]

早織や保利のほうが、観客のスタンスには近いんじゃないかと思っています。だから、自分のなかに気づかずにしてしまっている言動があの少年たちを追い詰めていくという目線と価値観のある種の抑圧が、少年たちを自分自身を「怪物」だと思わせてしまうということがこの物語が描いている一番の本質だと思います。

『怪物』是枝裕和監督インタビュー。性的マイノリティの子どもたちというテーマにどう向き合ったのか | CINRA

ちろん本作は性的マイノリティの子どもたちを扱った映画だと思っています。(中略)そういうアドバイスをもらおうと思っていたのだけれども、お話を伺って、彼らが自分自身をまだ名付けられていない。だからこそ「怪物」だと思い込んでしまうという設定が今回はふさわしいのではないかと考えるに至りました。

怪物』是枝裕和監督インタビュー。性的マイノリティの子どもたちというテーマにどう向き合ったのか | CINRA

『怪物』是枝裕和監督インタビュー。性的マイノリティの子どもたちというテーマにどう向き合ったのか | CINRA

1つ目の引用では、「他人に『豚の脳』というような人物」が怪物であるという風な解釈を取ることができる。こちらはわかりやすい定義だ

2つ目の引用部分はどうだろうか。「価値観のある種の抑圧が、少年たちを自分自身を『怪物』だと思わせてしまう。」なるほど、どうやら彼らの価値観を暗に抑圧することは、すなわち「こうするべき、こうしたほうがいい」という文言は、呪いとなり、それをできない子供たちを自己否定に陥らせ、自己を怪物だと思わせてしまうようだ。すなわちここでの怪物は「期待に合わせられない、普通と違う人物」と言い換えることができる。

3つめは興味深い。「彼らが自分自身をまだ名づけられていない。だからこそ『怪物』だと思い込んでしまう。」確かにゴジラや「ミスト」に出てくる怪物たちは得体が知れない。どこから来たのか、何がしたいのか、全く不明のため、どのように対処したらいいかわからない。なるほど、ただ豪快に町を破壊するのだけが怪物の定義ではなく、「その得体のなさ、コントロール不可能性」も怪物たるゆえんなのかもしれない。

さて、上記映画内で登場する怪物の定義をいくつかピックアップしてみた。
ただ、制作側からすると、諸君らには、ここで怪物の「答え」をただ受け取ることだけに終始していただきたくないようだ。以下再びインタービューから抜粋。

作品を見た方が右往左往しながら誰が怪物なのかと探した挙句、自分だったのだと気づかないと、つくった側の思惑や意図が伝わりにくいと思っていて。逆にいうとその気づきを奪ってしまいかねないなと思って、僕も中途半端な口幅ったい言い方をしてしまい、反省もしているんですが、できるだけあまり作り手の前情報を入れずに見てほしいというのがありました。

同上

すなわち、登場人物の一人に「こいつが怪物!」と指をさすことではなく、鑑賞者たる自分が「怪物」なのではないか?という内省の姿勢を制作側は期待しているのだ。これらを受けて、自分なりの怪物の定義を新たに提示したい。それが


「期待の反対にあるもの」

である。

ここで、登場人物に対応する「怪物」を照らし合わせてみよう。一部キャラの名前がわからなかったものは役者名のみで記載している。

・早織(安藤サクラ)
→誠実な対応を期待するものの、全くその雰囲気が見えない学校

・堀先生(瑛太)
→同上の理由、学校

・依里の父(中村獅童)
→強制したいがそれに反抗する、依里

・子供たち
→彼らの期待、望みは「親の期待に応えること」。それができない自分は「怪物」

そして、これら映画内の人物それぞれが、鑑賞側から見た時に「うわ~これがよくないんだな」「これやっちゃだめでしょ」と思われるようなことをしでかすわけだ。そして、我々は心のどこかで「俺は違う」「私はこんなことしない」期待しているのではないか?その姿勢こそが彼らが明るみにしたかった「怪物」の正体なのかもしれない。


※正直怪物どうこうはそんなに興味なかったため、映画の意思を乗せるために枠組み過ぎないと思っていたが。なんだ、しっかり意思やんけ。おれも怪物かもしれない、ちゅうことか。

映画「怪物」の目的

怪物そのものに関して考える余地ができたところで、肝心のクライマックスに関しても彼らの声を参照してみたい。

自分たちがじつは加害した側だったのだということに、母親と担任の先生が最後に気づきますけど、もちろん気づいたことや追いかけたこと自体は正しいと思うけれども、でも届かない。少年たちが大人たちの手をすり抜けてふたりの幸せを手にしたということのほうが、むしろ大事なのかなと思うんです。その部分は脚本を練るなかで、僕も坂元さんもずっと変わりませんでした。その着地点が現実的にどういうものなのかはともかくとして、坂元さんと僕は、ふたりが大人の手をすり抜けて笑い合っているっていうことだけは、見失わないようにしようと思っていました。

『怪物』是枝裕和監督インタビュー。性的マイノリティの子どもたちというテーマにどう向き合ったのか | CINRA

だから、何だろうな、難しいんだけど、生まれ変わらない世界が彼らに置き去りにされる結末にしようということですね。僕らがちゃんと生まれ変われるのかどうか、ということが問われている。だから、「当事者」でない作り手たちが作品をつくるうえで、僕らがどのように気づくべきなのかということを、ちゃんと描かないといけないと思いました。

『怪物』是枝裕和監督インタビュー。性的マイノリティの子どもたちというテーマにどう向き合ったのか | CINRA

坂元さんも製作陣もそうだと思うけれど、少年たちが置かれている現実の状況がそういうものだという認識のもとに、それでも彼らが自分たちなりの幸せを手にしていいのだということ、気持ちを表明していいのだということを、そうできた子どもたちを祝福したいという思いが僕らのなかにはあったから、ああいった結末として描き、そして最後の坂本龍一さんの“Aqua”につながっていくというイメージをしていました。

『怪物』是枝裕和監督インタビュー。性的マイノリティの子どもたちというテーマにどう向き合ったのか | CINRA

なるほど、前章で私は「少年たちの成長」という風にラストを名付けたが少し解像度が低かったようだ。成長というよりかは「解放」「脱出」。そして、ラストのシーンは伝えたかったこと、というよりかは据えたかった着地点、のほうが近いかもしれない。正直映画製作論に関しては明るくないので「着地点か、、はぁ」といった感じでその言葉以上でもなんでもないのだが。ただあのラストは子供たちの祝福ために、そしておいて行かれた大人たちが変われるか、すなわち広い裾野での「我々」が変われんのか?変わんなきゃいけないんじゃない?という呼びかけのためにあるのだろう。

※「終わりに」はちょっとお気持ち表明になってます。いらねえって方はブラウザバック推奨。


終わりに

皆さんは今年自死したりゅうちぇる氏を覚えているだろうか。もともと男性としてタレント活動を行っており、「良きパパ」のような売り出し方をしていたが、ある日自分の性的自認がわからないということを告白、父としては誇りがあるが夫としての自分がつらくなった、という理由で離婚を発表。その後、ネット上で「無責任だ」等の避難の矢を一身に受けた末に自死した。

正直、外側から見た時に、彼の行動が「おかしい」ことは否定できない。

「男性のはずなのに男性が好きだし、でもゲイのはずなのに女性と子供作ってるし、子供作ったのに自分の都合で無責任に離婚してるし」

りゅうちぇるも、もしかしたら「何か大きいもの」からの暗の圧力に葛藤した一人なのかもしれない。


時代は変わった。個人はそれぞれの中に多様な世界を抱えていて、それらは整序されておらず、雑多におかれているものなのかもしれない。そんな個人に一貫性を求めることは必要なのだろうか。ただ、それが外側から見た時、「説明ができてない」「論理が通ってない」といわれるのも確かだ。それが、パーソナリティーをお金に還元している「芸能人」ならなおさらだろう。本件に関して、個人と社会どちらかが間違っている!と一概にいうことは難しいだろう。だからこそ内省が必要なのではないか。個人が発信力を持ち得る現在、その発言の可不可は自然状態、「万人の万人に対する闘争」のように誰もが争いにさらされうる状態だ。よって現状それらの質は個人のリテラシーや倫理観にゆだねざるを得ない。重ねて言うが、だからこその内省なのだろう。

僕たちは変われるのか?純然たる少年たちに置いて行かれないためにも、考える必要がある。


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