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広島・原爆投下の日

私、加藤賢崇の母である、加藤春江(1929〜2009)が、16歳のとき、1945年8月6日に、広島市で被爆したときの体験を、1987年ごろに振り返った、手書きのノートを残したものが数冊ありました。

母の自宅は当時、爆心地から数十メートルの、本通りという商店街の中にありました。(おそらく、現在はうずしおというお好み焼き屋のあるあたり)

しかし、母は原爆投下の瞬間は、そこから3キロほど離れた「被服廠」という軍服などを作る頑丈なレンガ造りの建物の中で学徒動員で働いていたため、命だけは助かりましたが、3キロ離れていても、こんなことになるのか、と手記を読むと驚きます。(ちなみに、この「被服廠」の建物は、現在も広島市の県立工業高校、皆実高校、という学校の横に残っていて保存されています。)

母が亡くなった後で、2011年頃からテキストに起こしたものを少しづつネットで公開していたのですが、読みやすさを考えて、今回こちらにもアップし直すことにしました。当時の背景にご興味持たれた方は、時間のあるときにでも読んでみてください。

加藤春江・記

1945年8月6日

この日も朝から下迫さん、小川さんと3人で事務所の机に向かい喋りあっていた。

事務所も危ない、と言うので将校の命令どおり、

レンガ造りのごつい金網の張った倉庫の2階にあった大きな柱のそばに私の机があり、

5~6M先の天井に四角な天窓があった。

3人が喋っていたとき、突然カマドの火を炊いているときの音の何十倍かと思われるようなボーッという音がした。

瞬間、オレンジに赤を混ぜたような火の柱が天窓からサーッと落ちた。

3人があわてて机の下に入った。そして、にじり寄りながら大声で「どうなったんかねー!」と叫んだ。

と、同時に私の背中にドスン、とイスが当たり、次々と物が飛んできた。

耳の底までゴー、ゴー、と爆風が入る。3人が手をつなぎ、じっと目をつむった。

キャアーキャアー、逃げ回るような声、物が倒れる音、物が壊れたり飛んでぶつかる音、

何分経ったか、いまだにあの長い、と思われた爆風の静まるまでの異様な感覚はハッキリ憶えている。

3人が机の下から這い出したときには、みんなの顔が薄汚れて黒くなっていた。

お互い顔を見て笑った。「どうしたん? 今のは何やったん?」口々に大声でわめきながら下へ降りていった。

3人が事務所に取り残された。

廻りを見渡すと部屋の中は歩けないほど、机もイスも色々な物が重なりあって、どうする事もできない。

その中を3人はそろそろと這い出し、階段に出た。

私たち3人は外の人に比べると、のんびり屋さんなのだなーと、私はその時思った。

下迫さんが「ちょっと来て」と呼ぶ。

急いで行ってみると事務所にいつも置いてある大きな金庫が階段の中ごろまで飛ばされ、

中のお金がそこら中に散らばっている。

3人は金庫の中にあった白い袋を見つけ、1人がひとつずつの布袋に入れられるだけのお金を入れた。

3人とも、ピカだという事も知らず、キャアーキャアー喜びながら詰めた。

「誰にも教えんよー」と言いながら、袋をぶら下げて、倉庫の階段を下りて、声も出ないほどびっくりした。

降りたとたん、事務所の男の人が膝をつき、左手で目を押さえた。

指の間から、まるで滝のように血が流れ出していた。

私は一瞬胸をえぐられるような気がした。

「どしたん?!」

「目が飛び出たんじゃ」と大声で叫んだ。

どうしてあげるすべもなく、私はそこに立って、まわりを見回した。

大勢の人が色々な格好でうめき、また、わめいている。

砂煙の中を人々は右に左に走っている。

どうしたのかまったくわからない。

ごろごろと横たわった死体にけつまづいたり、ふんづけたり、この世のものとは思えない光景だ。

私は思わず知らず走った。

そして入り口の鉄の扉の前に立っていた。

朝だというのに空も何かもが黒ずんだ灰色一色。

ぼーっと見ている中に、その灰色の中からボロボロの着物をまとった人間の一群が

うめきながら段々とこっちへ向かって来るのが見えた。

もう一方の道を見た。

やっぱり同じ様にやってくる。足がすくんで動けない。

近づくにつれ、とにかく早く、この場を逃げ出そうと思いながら、やっぱり駄目。

私は食い入るように見た。

男か女かわからないが両手からボロ布がぶら下がり、

みんな両手を横にしている。

よく見ると足からも何かボロ布を引きづり引きづり、

うめきながら歩いて、こちらへやってくる。

髪の毛はバサバサ、小さいのや大きいのや、それは数え切れぬほどの人間だ。

私は門の外に行き、灰色の中からはっきり見た。

今まで布だと思っていたものは身体の皮がはげ、

その皮を引きづりながら歩いていることがわかった。

私はそれを確認し、一目散に下迫さんのところへ飛んでいき、手を引っ張って門のところへ連れていった。

下迫さんは大きな目をぐりぐりさせ唇をふるわせ頬は真っ青。

2人はだまって、門の中にうめきながら入ってくる、子供や大人を見ていた。

体中ずる剥けで皮を引きづりながら、歩く人、人、人。

いつまでたっても、この光景が続く。

遠くのほうで、いつも聞きなれた将校の声がして、2人は後ろを振り向いた。

その手招きに急いで走った。元気な者は倉庫に行きなさい、という。

たしか大きな倉庫が7つくらいあり、第7倉庫は戦利品がいっぱいで、

チャイナ服とかネックレスとかいろいろな外国の物を見た、という人が何人もいた。

2人が急いで倉庫に入ると、男の人たちが戦地に送る布団綿をどんどん運んでいる。

それを2M位置に高さ30cmくらいに長く敷く。

敷くはしから体中ずるむけの人を次々に綿の上に寝かせる。

ちょっと手にでも触るとギャアと悲鳴を上げる。

あわてて手を離す。無理もない。赤身に触るのだから。

でも寝かせるのには、どうしても身体に触る。

あっちでもこっちでも悲鳴と泣き声でごった返す。

倉庫の中も外も怪我人だらけ。元気な者はわずか。

あれだけ何千人もいた工員さんたちはどこへ行ったのか姿がない。自分の家に帰ったのだろう。

再び将校さんの声。

「生き残っている人はこっちへ来てくださーい」

下迫さんと2人で行く。白衣を着た軍督がブリキのバケツに真っ白いドロドロの薬を入れた。

2人は手に綿を持ち片方ずつバケツを持ち、怪我人の身体にその薬を頬から手から足からぬりたくった。

その間中

「水をくれ、水をくれ」

と泣きながら、叫ぶ。

ヤカンに水を入れ口にふくませたり、口がヤケドで開かない人は綿にふくませて吸わせたりしていたが、

今、水を飲ませてあげたのに、と後ろを振り向いて見ると、もう動かない。

行ってみると死んでいる。

誰かが大声で

「水を飲ませたら死ぬぞー!」と言う。

また誰かが

「どうせ死ぬんじゃけ、せめて水くらい飲ませやー!」と言う。

私はヤカンをぶらさげたまま、どっちにしようかと迷った。

前に寝ている人を見ていたら、焼けただれていてわからないが、たしかにお母さんと赤ん坊だ。

ずるむけのお母さんの身体に、隣に寝かされていた赤ん坊が、ちょっと手を伸ばして乳房をつかんだ。

その瞬間、お母さんはうめきながら、その赤ん坊の手をはらいのけた。

赤ん坊は弱々しげに悲しそうな声で泣いた。

私はその様をじっと立って見ていた。悲しかった。

涙を両手でぬぐい、ヤカンの口を赤ん坊の口に持っていき水をたらした。

おいしそうにゴクリ、と飲んだ。そして、動かなくなった。

誰かが私を呼んだ。

今はそんな感傷にふけっている場合ではないことを直感した。

数え切れない人の山だ。

どんどんバケツに薬を入れ、つけてはヤカンで水を飲ます。

この作業の繰り返しで夜が来た。

友達数人とむし暑い倉庫の中の何百人という病人、中には死人もたくさんいるので、

たとえ様もないほどのうめき声と匂いなので外に出た。

とたん、汗びっしょりの身体が身震いするほど冷え、2本の足は一歩も前進せず、そこに突っ立ったまま。

広い広場のまわりの柳の木が風にザワザワとそよぐ、

その下にどっちを向いても、まるで幽霊のような人が20~30人づつ、頭の先から足の先まで真っ白。

ただ目ばかりがギョロギョロして手を力無く2本たらして右往左往している。地獄のような風景だ。

私たちが薬を塗った、ヤケドをしている人たちが、

やっと歩けるようになって夜の風に当たろうとして、

寝そべったり座ったり、ふうわりふうわりと歩いたりしているのだ、と思うまで何分か、かかった。

私たちは今まで辛かった気持ちがいっぺんに吹き飛び、笑いに変わった。

「まるで幽霊みたいなねー」

「びっくりしたー」

と言いながら、涼しい風に吹かれながら、お互いがお互いの家の事、家族の事を話した。

それはもう夜9時近いというのに、隣の人の頭がはっきり見えるくらい、

天は炎と火花で真っ赤に燃え上がり、バリバリという音さえ聞こえた。

今考えれば、何日も天が真っ赤なはずだと思う。

あれだけの建物が燃えて灰になったのだから。

横川駅近くのお米の倉庫なぞ一ヶ月近くも燃えていた。

1945年8月7日

あくる日の朝、仲の良かった下迫さんをお父さんが迎えに来た。

「土肥さん(加藤春江の旧姓)も、お父さんが来てくれるよね。それまでここを動かんほうがええよ、

よけいわからんようなるけえ。ほいじゃ、またどこかで会おうねー」

とお父さんの手を持ちながら去っていった。

なんだか一人ぼっちになった私はじっとしていられなかった。

よし、とにかく家の者が一人でも生き残っていれば、と思い、

私は救急カバンを肩にかけ、探そうと被服廠(働いていた場所)の門を出た。

がんがん日が照りつけ、あっちからもこっちからも火の粉や灰が舞い上がり、

一足歩くたびに灰の中にひざまでつかり、青い炎がいたるところに細いかげろうのように燃え、

なんとも言いようのない匂いがする。

後で聞いた話だが、あの青い炎がガスで、吸った人がコロコロと数え切れないくらい無傷なのに死んでいった。

ある人は歯がボロボロ抜け、髪の毛は抜け丸坊主になり、青い斑点が体中に出て死んだりした。

私が生きている事のほうが奇跡なのだ。

被服廠の門から千田町に抜ける道を、死人をまたいだり、

全身ヤケドでうめいて動かれぬ人、とにかく死んだ人とケガをした人ばかり。

生きて歩ける人は、爆風で引きちぎられたような服装で、

ただ大声でお互いに家族の名前を呼んで、みんな半狂乱であった。

やがて御幸橋のたもとについた。

たぶん今でいう中学生くらいの人たちが、水、水、と焼けただれた両手を前に突き出し、

通る人に頼んでいるが、誰一人として見向きをするものはいない。

どうしてあげることもできない。水道管が破裂しているのだから

炎天下として水一滴出ているところはない。

ふと川を見た

牛や馬、人間がまるで空気を詰め込んだ風船玉のようにふくれ上がって川一面に浮かんでいる。

川の水は血でにごり、この世の地獄だった。

水を飲みに行ってそこで死んだ人たちだろう。

あの不気味にふくれあがった唇は今でも頭に焼き付いている。

被服廠の門からここまで、普通10分あったら来れるのに、1時間半かかった。

それは死体の顔をひとつひとつ見たからだ。もしや知った人はいないか。

それでもまだ私は自分の家の者は必ずどこかで無傷でいるはず、と希望を持っていた。

橋のたもとに真っ赤に焼けただれた電車をのぞいた。

電車の底は空っぽ。出口と入り口のわずかに残っている鉄に、

ただ焼けた人間の骨が重なるようにして何体もへばりついていた。

それを見ても誰も一言も発さない。私もなんとも感じなかった。

道行く人はただ、自分の気になる家族の名を呼びながら歩くだけで、他人の事などまったく無関心。

千田町からタカノ橋のほうへと歩く。のどはカラカラ、お腹はぺこぺこ。

ふと右手を見ると市役所の前にひとだかりがしている。

列の後ろに並び、まだぬくもりのある、三角の大きなむすびをもらい、

そばの石に腰掛け、むさぼるように外の人たちと食べていたとき、

「お姉ちゃん!」

と声がした。

耳を疑った。

よく見ると戦闘帽に大きな救急カバンをかけ、

手に大きな箱をかかえた弟が目にいっぱい涙をためて、

じっと私を見つめて立っていた。

私はのどがつまり、声にならなかった。

走りより、頭をなでながら

「正実どうしよったん?」と聞いた。

学徒動員でゴム会社に行っていた弟だが

「ぼくと友達が2人でボイラー室で火を燃やしよったら、

爆風で友達が目の前で溶鉱炉の中へ吹き飛ばされて死んだんよ」

「ほうねえ。びっくりしたでしょう。あんたあ、よお助かったねえ」

「うん」

「その箱はなんねえ」

「会社の生き残ったおじさんらがにわとりを取ってきて、焼いて食べさせてくれたんよ。

ほいで、この運動靴をくれたんよ」

弟は自慢げに箱のフタをとって見せた。それは大人でも大きいような靴だった。

「まあ大きな靴じゃねえ。荷物になるけえ捨てんちゃい」

「うん」

「それよりカンパンをくれるところがあるけえ、もううて歩いたほうがええよ。

お父ちゃんやお母ちゃんを探す、言うてもなかなかじゃけえ。

被服廠にお姉ちゃんと一緒に帰ろうやあ。水も飲めるよ」

「うん」

2人は肩を並べ、お互いにびっくりした事を話し合いながら、歩いた。

被服廠に着いて、みんなに親が見つからんので弟を少しの間ここに置いてもらえるかどうか聞いた。

みんなはすぐに「ええよええよ」と言ってくれた。

事務所に私の救急カバンを置き、椅子に座らせた。

私はうれしかった。姉なんだから、と気をよくしていたら、誰かが、

「弟さんの手や足にガラスの破片がいっぱい立っとるよ!」

と言う。

私はうれしさのあまり、体を見ることを忘れていたのだ。

シャツを脱がしてみると背中一面に突き刺さっている!

ガラスは全部三角で、先が体に食い込んでいるのだ。

友達が

「外へ言ってごらん。何千人も一列に並んどるけえ。

待ちよったら今日の事にならんけえ。おいで。

うちが軍医さんを知っとるけえ。すぐにしてもらう様に頼んであげるけえ」

と言ってくれたので、弟を連れ、外に出た。

すごい、たくさんの患者だ。

その人は弟の手をひっぱり、人を押しのけ、何か軍医さんに耳打ちし、すぐに弟を座らせた。

医師が「一面に突き刺さっとるよ。ハダカでおったんねー」

弟は「ボイラー室が暑いんで、ハダカで仕事しよったんです」と答えた。

このとき弟はわずか13歳。中学一年だった。

いくら戦争だからといって、こんないたいけな子を学徒動員で借り出すなんて、

まったく日本はなっとらん。と父がよく言っていた。

まったくだと思う。

30分くらいたって、弟のそばにいってみた。

軍医さんが

「頭にも刺さっていましたよ」

「え!」

「全部で64こあったよ」

「まあ!かわいそうに」

抜いた跡から血がブワっと出ている。

私はちり紙で拭きながら、

「よお我慢したねえ」と言った。

痛かっただろうに。

私は涙が出た。

※ 弟はそれから9年後に、右太ももが痛いので医者に行ったところ、

レントゲンで見ると、障子の桟が入っている、という事で手術した。

そのときに刺さっていたことにずっと気付かなかったのだ。

15センチくらいの木が出たことを知った。

1945年8月8日から

被服廠というところは軍人がいばっているところで、人数が合わないととても面倒なところで、

夜暗くなるとそれぞれ班が集まり、召集ラッパで1列に並び、点呼をとる。

私たちのところは16名で、だんだん家に帰る人が出るので、減るたびに班長が報告する。

その夜も一番うるさい山上少佐が来る。

一、二、三、と聞くと顔を見ながら、歩く少佐に見つからぬように

チビの弟をみんなが背中でかばいながら、

手で弟を次へ次へと見つからぬように反対の背中へ送る。

私はみんなの親切さが身に沁みて、よく泣いた。

このことを知った将校の人たちが自分たちの配給の果物を

「おい、坊主、これ!」と言って私の机の上に置いていってくれる。

そのたびに私は涙を拭いた。

配給のごはんが私一人分しかないので弟に食べさせると、

それでも足らず、暗くなるとみんなと一緒に食堂へ、ご飯やおかずを盗みに入った。

私たちだけかと思い、そっと行くと、知った人たちと鉢合わせになり、

大笑いになり見つかって、何度も怒られた。

しまいにはみんなが盗むので、食堂のおばさんたちもお手上げ。

真昼間からみんな早いものがちで盗んだ。

盗むことは嫌だが、弟がお腹をすかせてはいけないと、いつも先に食べさせ、

私はそれを嬉しげに横で見ながら残りを食べた。

夜9時前、突然警報のサイレンがけたたましく鳴った。

ピカから何日目だったか覚えていない。

誰かが「敵機よ!」「空襲よ!」と叫んだ。

私は腹ばいになり、私の体の下に弟を押さえつけ頭に座布団をかぶせた。

たとえ私が死んでも弟を死なせては、と必死にかばった。

やがて爆音が消え、みんなホッとした。

「ひつこい敵機じゃねー」と誰かが吐き捨てるように言った。

助かってよかった、と胸をなでおろした。

そこらのイスを寄せ集め、イスの上に弟を寝かせ、私は机にうつぶせになって夜を明かす。

やがて夜が明け、どこからか陽の光が射した。

私は弟を起こし、鉄の門の扉の上に、2人でよじのぼり、火の手が上がり、

燃えている道を時々人の行き交う姿を指差しながら

「あら、ありゃ父ちゃんじゃないかねー! 正実、よう似とるよ。見てみんさい」

と言うと、弟もニッコリ笑って、穴があくほど見つめる。

その人は段々近づいてくる。

2人が期待に胸をはずませ、息も止まる思いで見ているのに、あっけなくその人は横道に入っていく。

2人は目を合わせがっかりする。

また、気を取り直して次の男の人を見る。

何時間も何時間も来る日も来る日も。

2人の朝のひとつの行事のように、鉄の扉に張り付いて見た。

その甲斐もなく、ついに父の姿も母の姿も見ることはできなかった。

だんだんと市役所や福屋百貨店や銀行の前などに、

死んだ人で身元の解かった人の名前が張り出されている、と誰かが教えてくれた。

2人は風呂敷包みにカンパンを入れ、死亡者の名前が張り出してありそうな場所を

次から次へと、汗びっしょりになりながら歩いた。

名前をひとつづつていねいに声を出して確かめた。だいぶん歩いた。

どこの看板にも父の名も母の名もなかった。

「正実、ひょっとしたらお母ちゃんは己斐のほうへ逃げとるんかもわからんよ、

遠いが、明日は2人で行ってみよう。日が暮れんうちに被服廠へ帰ろうやー」

「うん」

なんとなく弟の声はがっかりしていた。

「帰りに家のところへ行ってみようやー」

「うん」

ピカが落ちてから初めて、我が家のほうへ行ってみることにした。

家が残っているとは最初から信じてはいない。

どこを見ても屋根の瓦がそっくりそのままの形で灰になっている。

それを踏むとヒザのあたりまでブスっと灰に埋まる。私たちはヒザまで灰につかりながら、

電車道がこうじゃけえ、このへんが道で、ここから何軒目がどこで、

と見当をつけ、こうでもない、あそこでもない、と

2人で歩きまわった。

やがて目に止まったのは、お茶のときに使う抹茶の茶碗だった。

焼けて色が少し変わっていたが、まぎれなもない、それは母が自慢の萩焼の高価な物だった。

ふと、そのそばに丸い真っ黒な丸太棒ががある。よく見ると顔のようなものがある。

2人はそばに寄り、じっと見た。

母に違いない。

でも手も足もなく、ただ丸太棒だ。真っ黒い炭だ。

私は恐る恐る、その丸太棒に爪を立てて掻いた。まるで炭の粉が落ちるようにガリガリと音がする。

よくよく見ると、かすかに目のふくらみと唇である事がわかった。

髪の毛はチリチリに頭一面に押さえつけるように焦げてくっつき、触るとポロポロと落ちた。

「こりゃあ、やっぱりお母ちゃんよ。一瞬でこうように焼けたんじゃろうねえ。。」

と言い、そばを見た。

頭がなく、両手の肘から先がなく、灰になった肋骨に細い針金がすーっとくっついている。

手で触り掘ってみると、もものへんから肉がつきているのが見えた。

後ろのほうへ回って驚いた。

首の白骨にへばりついた小さな白い布を見て、父のシャツである事がわかった。

父はいつも夏はチヂミの白いシャツにチヂミのステテコ姿で、

見覚えのあるマークのついたシャツを私は覚えていた。

なぜ、それだけが焼けずに白骨にへばりついているのか。

「お父ちゃんが、自分だとわからすために、これだけは焼けずに、へばりつけといたんじゃねえ」

と私はひとりごとを言いながら見た。不思議でならなかった。

これが父母の姿で、これで2人とも死んだんだと心の中で納得しながらも、

それでも、どこかへ逃げて、元気な姿を私の前に見せるのではないかと、

来る日も来る日も、炎天下を弟と歩きまわった。

ちょうど鷹ノ橋の交差点の所を歩いていたら

「春江? 春江じゃないんね?」

聞いたような声なので振り返った。

汚い大きな麦わら帽子にモンペをはき、わらぞうりをはき、

背中にはひっくり返るほどの大きな重そうなリュックサックを背負ったその人は立ち止まった。

よくよく見ると町野のおばさん(親戚)だった。

平常は母の妹でも、母があまり付き合いをしないので、なじめなかったが、

このときはなぜか神の救いのような気がして「おばさーん」と弟と二人でそばにかけ寄った。

「おばさん!」

「お姉ちゃんは?」

「わからんのよ。まだ家へ帰っとらんけえ」

「どうしたんね。大きなリュックをおうて」

「昨日、己斐のタネ屋にうずら豆を買いに行っての。お金を出してオツリをもろうて帰ろう、

思うたところへ、ドサっと家がくずれて下敷きになって、這い出すのに一晩中かかって。

今どうでも己斐を集合場所にしとるけえ、己斐へ今から戻ろうと思うんよ。

うろうろしたら、みんながバラバラになるけえ。

焼けてなかったら、己斐駅近くの踊りのおばさん言うたらわかるけえ。

そこが避難場所にしとるけえね。もしお父さんお母さんが見つからなんだら、そこへきんさい。

ほいじゃあ、またね」

「うん、わかった」

おばは元々そっけない人だが、その時も一人でしゃべりまくって、あっけなく去った。

弟と二人であっけらかんと、その後姿を見送った。

(この項おわり)

その後、その前

加藤賢崇です。母の手書きノートはかなり膨大で、戦前の生活やら、自分の少女時代の思い出など、キリがないのですが、原爆投下前の数日の日常描写や、その後の戦後の生活などを記した部分を、以前も一度公開していた部分ですが、あらたにnoteにまとめなおしました。↓ 続きが気になった方は読んでみてください。


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