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阪神沿線

 神戸に住んでいた頃、お金を貯めようとバイトをした時期があった。

 選んだのはライン作業と言われる、工場で製品の箱詰めをしたり、弁当の具材入れをするバイトだった。一つには短期間で稼げるからという理由があったが、一番のきっかけは、好きな子が「工場で働いてお金が貰えればいい」と言っていたことが、直接的には関係している。その時に僕は、志が低いなーということと、工場でライン作業をするような仕事に対して無自覚に卑下する気持ちがあって、「そんなのやめなよ」というようなことを言ったことを覚えている。それから、なぜかそのことが頭から離れなかった。普段、工場とかライン作業という言葉を見聞きするものの、実際のところ自分は何も知らず、何も知らないのに勝手に悪いイメージを持ち、それだけで彼女の考えを否定していいのかという気持ちがあった。それなら、一度やってみようかなという気持ちで選んだのがきっかけだった。

 神戸は六甲山脈から海側へと傾斜面が続く地形になっていて、高いところから低いところにかけて、阪急、JR、阪神と3本の電車が通っている。芦屋や岡本などが有名な阪急沿線には富裕層が住み、JRが中間層、一番低い海側を走る阪神沿線は低所得者と、なんとなくの住み分けが出来ていると言われている。

 バイトで通った工場は全て阪神沿線で、それぞれ、当時住んでいた東灘区の阪神線住吉駅近くにあったお弁当工場、尼崎センタープール前駅のクッキー工場、同じく尼崎にある、おもちゃなどの搬送倉庫だった。これらで扱っている製品は、新幹線の駅弁とか、なんちゃらおばさんのクッキーとか、ガンダムのプラモとか、普通にそこら辺で売られているものだった。こういうところで地味な作業があって売られていることは、表からはわからない。

 ライン作業というのは実に地味で大変な仕事で、一見すると簡単そうに見えるが、かなりのスピードと正確性と丁寧さが同時に求められ、いったんペースが乱れると、次から次に流れてくる商品に手がつけられなくなり、ライン作業はそこで詰まってしまう。

 そんな職場には色んな人がいた。キャバクラに通っていると話す3・40代の男性。大学生くらいの女の子。ベトナムから日本に来ている若い子たち。酸いも甘いも知っていそうなおばあちゃん。そして何より主婦さんが多かった。

「息子が急にごはんおいしいって言ったんだけど、どうしてかわかる?」

息子と同じくらいの年頃だという僕にある主婦さんが聞いてきた。

「感謝の言葉じゃないんですか?」

「でもいつもはそんなこと言わないのよ、ぶすっとして」

 急にそんなこと言うから何かあったのか心配だという不安げな顔から、親とはそんな些細なことも気にして子供のことを想っているのかと、自分の親のことを思い出した。その他にも、大学受験を控えた子供のために数時間多く働いているという主婦さんもいた。

 いま流行りのAIをビジネス展開している、あるベンチャー企業が仕事を始めて一番最初に関わった取材だった。そのベンチャー企業の代表は、AIで単純労働が淘汰されることにどちらかいうと肯定的な意見を持っていて、そのことに関して少し疑問をぶつけてみると、「工場やライン作業で働いている人が幸せですか?」と言った。何をもって、幸せじゃないといっているのかはわからないが、確かに、一部の工場で単純労働者は、今でさえひどい労働条件と低賃金で人員が簡単に配置転換されてしまうような、弱い立場に置かれている。そうしたイメージは強くある。だから無責任なことは言えない。

 ただ、僕が働いた現場で見た人たちは、決して幸せでないようには見えなかった。むしろ、毎日大変だけど必死に頑張って生きていこうという意思や強さを感じたし、働いている人たちのコミュニティに暖かさを感じたのだ。

 今は、コンサルとか〇〇クリエイターとかウェブデザインとか、知的サービスが主流の時代と言われている。しかしその一方で、コンベアーで流れてくる商品の箱詰め、具材入れというアナログな仕事は、「幸せじゃないでしょう」と他人が勝手に判断して無くなってしまっていいものなのか、ある一定の受け皿をもって必要な仕事ではないのかと、思うようになった。

 3年前に神戸を離れてから、どうやら、三ノ宮駅前の再開発が活発に行われていることを、Twitterの投稿でよく見かけるようになった。神戸をずっと知っている人からしてみれば、震災よりも遥か以前の神戸から、震災を経験し、現在に至るまで、色々なものが失われてきたということになるのだろうか。僕にとっては、たった3年間しかいなかった神戸だけど、それでも、東京の都心のように雑然としていなくて、山と海に挟まれ、歴史文化を感じさせる街並みを気に入っていた。再開発によって、整っているのだけど、どこか居場所がないような、そんなどこかで見たことのある街並みにだけはなって欲しくない。

 僕にとっては、どうしてか、AIによって工場での単純労働が淘汰されることと、再開発でこれまでの街のありようが変わってしまうことが、同じ一枚の鮮やかな色彩の絵から、彩が失われていくことのように思えてならない。

 AIも再開発も、そうした経済の合理化によって、かつての風景やコミュニティが身近な場所から失われていくことに対して、どう折り合いをつければよいのか、わからない。

あるいは、これは単なる素人の戯言なのかもしれない。

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