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江藤淳『荷風散策-紅茶のあとさき』を読むⅠ

三田に通っている頃、友人に触発されて『朝日ジャーナル』を手にするようになり、江藤淳の連載「アメリカと私」に魅せられて愛読した。ほぼそれ以来の出会いになるが、江藤淳『荷風散策-紅茶のあとさき』の冒頭に記された、「三田文學」創刊五十周年記念の祝賀会のくだりに、往時を思い起こして懐かしかった。

あいさつに立った久保田万太郎が、「かなり離れた一隅に腰掛けていた和服姿の佐藤春夫氏を、横目でチラリと一瞥」して、こう述べたと言うのである。江藤の文章がリアルである。

「そこにおられる佐藤君も、かく申すあたくしも、ともに『三田文學』から世に出たのでありますが、その『三田文學』が今日五十周年を迎えましたのは、まことにおめでたいことと存じます。それにつけても喜ばしいのは、この雑誌の伝統が現に脈々と生きつづけていることであります。さきごろ荷風先生がお亡くなりになった折、実に数多くの荷風論が発表されましたが、そのなかで一番荷風文学の真髄に迫っていたのは、なんといっても一番若い江藤淳君が、『中央公論』に書いた『永井荷風論』でした。これなども、さすが三田派ならではのことと、あたくしは、大変心強く思っているのでございます」

そのとき「会場はたちまち水を打ったように静まり返った」というのも、江藤淳の「荷風論」を持ち上げることは、おのずから荷風没後に発表した佐藤春夫の話題作『小説永井荷風伝』を、「殊更に貶める結果とならざるを得ない」からであった。『小説永井荷風伝』については、先に思うところを書き記したが、江藤は「身に余る讃辞」を呈されて大いに感激したと回顧している。

ちなみに、この「永井荷風論」は荷風の死からおよそ3か月後、「中央公論」9月号に発表された。「ある遁走者の生涯について」と副題があり、「『美』の壁のなかに『壺中の天地』を夢みる非生活者」すなわち「遁走者の生涯」に迫る、若い学究ならではのシャープな荷風論である。

さて、作品論に入って、《『おかめ笹』の地誌》を説かれても、まるで理解は及ばない。『つゆのあとさき』の「時空間」も同様で、「この小説における荷風散人ほど、そのような女の時空間が、『夢』を媒介にして男の時空間と交錯しあうときの機微を、『一種の凄味』を以て描き切っている例を私は寡聞にして他に知らない。」と言われても、その「一種の凄味」を捉える感知力を持ち合わせない。

《橋の彼方の世界》を彷徨すると、「日常生活の拘束と秩序」から解き放たれるだろうか。随筆集『冬の蝿』所収の「深川の散歩」には、「今日の深川は西は大川の岸から、東は砂町の境に至るまで、一木一草もない。」と記されている。学生の頃、しばしば通った砂町界隈で、「セメントの大通」が「砂町の空地に突き入つてゐる」ような景観を目にして、いささか寂寞を覚えたものだが、高度経済成長の時代を迎えるまでは、荷風が散歩した往時の景観をかなり残していたということか。数十年ぶりに訪ねると高層住宅が建ち並び、まるで別世界に変貌していた。

さて、《日記と小説の間》の章になると、「私はかつて『中央公論』に『永井荷風論』を書いたこと」があり、「『濹東綺譚』については、『荷風論』でもかなりの紙幅を割いた。したがって、ここでは敢えて触れずに置こうかとも思ったけれども、やはりこれだけの作品を素通りにして過ぎるのは勿体ないような気がする。」としつつ、名作『濹東綺譚』論にかなりの紙幅を割くのは分からなくはない。だが、まず「言語空間」の考察である。そもそも「地誌」「時空間」や「言語空間」とか、抽象概念を持ち出すのはいかがなものか。

つづく《記録者と創作者》も『濹東綺譚』論である。主人公の小説家大江匡は「『ラデイオに妨げられ』て執筆が思うに任せない。」ので、「『散策の方面』は、したがっておのずと『隅田川の東』、即ち玉の井の陋巷に向わざるを得ない。」のだが、同時に「作家『大江匡』の取材のための探訪としても位置づけられている。」のである。いうまでもなく、荷風は「ラデイオのひゞき」を嫌悪したが、それはたんに騒がしいからだけではなかった。

『濹東綺譚』の執筆は昭和11年と言えば、「いうまでもなくこの年は、二・二六事件の勃発した年」である。「ラジオ放送が、何よりも精力的に伝達しようとしたのは政治的メッセージである。その最も緊急なものが戒厳司令部の『兵に告ぐ』の呼び掛けであり、その日常的なかたちが荷風散人のいわゆる『九州弁の政談』のたぐいである」ことに、ラジオ放送を嫌悪した所以があるとは思い及ばなかった。そればかりか、「道徳の鼓吹もまたラジオ放送の重要な使命の一つであった。‥‥島崎藤村作詞による『朝』や『椰子の実』などの『明るく、健全』な『国民歌謡』が制定され、放送されるようになったのもこの年のこと」とは知るところではなかった。

つまり、荷風は「放送というものに生得なこの属性を敏感に看破り、それをほとんど生理的に嫌悪した」と、江藤は見抜いた。すなわち、荷風は「『濹東綺譚』で古色蒼然たる情話を語ると見せかけながら、実は同時代の言語空間の構造そのものを――とりわけその禁止の構造を、暴露して見せようと企てていたのではないだろうか。」とする着眼は、まさに目から鱗であった。

ラジオ放送のみにはとどまらない。荷風に筆誅を加え抹殺しようとした『文藝春秋』など、《文学者と新聞記者》もまた、荷風から「銀座の言語空間を奪い去った」のである。「いきおい『わたくし』は夜陰にまぎれて『墨水をわた』り、『東に遊』ばなければならなくなった。大川の彼方には、『わたくし』が僅かに自由を呼吸できる他界の空間――政治からも道徳からも干渉を受けずに済む玉の井の『溝際の家』の空間」があり、しかも「鶴屋南北の狂言などから感じられる過去の世の裏淋しい情味」をかもす時空間でもあった。《私家版の周辺》は『濹東綺譚』余話といったところか。

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