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大田南畝『仮名世説』の光悦像

大田南畝は「本阿弥行状記」を見た数少ない人の一人である。「本阿弥光悦が行状記といえる書を、人に借りて読みしが、光悦の芸、一としてその妙手にいたらざるはなし。(中略)文あり武あり、人となり一時の傑というべし」と賞嘆する南畝『仮名世説』の一節が、先の正木篤三『本阿弥行状記と光悦』に引かれていた。 その『仮名世説』(『大田南畝集』有朋堂文庫)にザッと目を通してみると、もう一か所、光悦を俎上に載せているので、ここに抜き書きしておきたい。 「本阿弥光悦は、(了寂院と号す。)晩年洛北

    • 正木篤三『本阿弥行状記と光悦』抜き書きの賜物

      最近、あまり馴染みのないジャンルの本を読んでいると、老いのせいもあるのだろうが、気に留めた個所がアレッという間に記憶から消えていく。やむなくその都度抜き書きしていると、不思議なことにというか、嬉しいことに、その本の叙述する世界にいつの間にかスッカリ嵌っていることに気づいた。「本阿弥行状記」中巻・下巻にざっと目を通したくて、正木篤三『本阿弥行状記と光悦』(中央公論美術出版)を手にして、心に響く個所を自分流に書き留めながら繙き、抜き書きの効能を体感したのである。 《中巻》の冒頭

      • 益子の雨巻山を山歩する

        いまは昔、シルクロードを旅して、敦煌へご一緒した荒田秀也画伯から、絵画展「道のア・ラ・カルト」のご案内を頂戴した。なんと会場は陶器の町・益子である。西域の情緒に惹かれて、会場のワグナー・ナンドール アートギャラリーを訪ねた。おまけに真岡鉄道は初めてなので、ちょっぴり「乗り鉄」気分も味わった。 あわせて雨巻山の山歩を思い立った。雨巻山は益子町の最高峰、と言っても標高533.3mの低山である。登山口まで1時間余り歩いて、大川戸ドライブインでお昼の腹ごしらえ。三登谷山尾根コースを

        • 本阿弥光悦の「小宇宙」―『本阿弥行状記』を読む

          本阿弥光悦の母・妙秀はとんでもない“肝っ玉かあさん”であり、『本阿弥行状記』(日暮聖・加藤良輔・山口恭子訳注、東洋文庫)は、その妙秀の“武勇伝”から始まる。先の《本阿弥光悦の大宇宙》展にふれて本書を手にし、一知半解をおそれず、以下はその現代語訳からつれづれに抄録した光悦の「小宇宙」である。 光悦の父、すなわち妙秀の夫・光二が織田信長公からあらぬご勘気をこうむった際には、妙秀は鹿狩りを楽しむ信長に夫の無実を直訴して許されるのである。秀吉の時代のこと、盗賊に蔵を破られ、預かりも

        大田南畝『仮名世説』の光悦像

          金冠山から富士山を眺望する

          修善寺温泉には目を瞑って、金冠山へ向かった。だるま山高原レストハウスでバスを降りると、駿河湾の彼方に富士山が聳えていた。しばし見惚れてから、伊豆山稜線歩道へ入ると、急登もなく、さながら緑の芝生に覆われたゴルフコースのようである。春の陽光を浴びて歩くと、稜線脇に咲くマメザクラも歓迎してくれているかのようだ。金冠山の山頂に立つと、駿河湾の向こうに絵のような富士山の眺望がひらけた。 つづいて達磨山へ向かう。舗装された緩やかな坂道を下り、戸田峠から稜線歩道に入ると、いきなり長い木段

          金冠山から富士山を眺望する

          官ノ倉山・石尊山を山歩する

          久しぶりの快晴で、黄砂も気にならないので、官ノ倉山を歩いた。山頂に立つと素晴らしい眺望がひらけるというよりも、深い森の山歩きが楽しく気分爽快である。海なし県の埼玉は大高取山、仙元山などの低山でも森林資源に恵まれ、管理がしっかりしているのだろうか。もう一つ、駅から登山口まで長くて、しかも歩くほかない場合が多く、のどかな里をテクテク散策するのも悪くない。 官ノ倉山は標高334mの低山にもかかわらず、急登が多く、立ち止まって休む時間がいちだんと多くなった。石尊山から下る鎖場にはデ

          官ノ倉山・石尊山を山歩する

          中野孝次『本阿弥行状記』の読み方

          先の「本阿弥光悦の大宇宙」展へ出かけて、光悦筆の「立正安国論」や「如説修行抄」など、また小野道風写経「紫紙金字法華経開結」の光悦筆による「寄進状」などを目の当たりにして、光悦の法華信仰は如何なるものか、いささか興味をそそられた。 という次第で、まず手にしたのは中野孝次『本阿弥行状記』(中公文庫)である。だが、中野孝次が原典の『本阿弥行状記』を翻案し、灰屋紹益『にぎはひ草』まで持ち出して、小説に描こうとしたのは“清貧の思想”ともいうべき生き方のようだ。やはり、まず原典に当たる

          中野孝次『本阿弥行状記』の読み方

          長淵丘陵をめぐり赤ぼっこに立つ

          奥多摩方面は久しぶりである。「赤ぼっこ」という名称の珍しさに惹かれて、長淵山ハイキングコースを山歩した。 宮ノ平駅から多摩川をこえ、ハイキングコース入口から山道に入るのだが、要害山の山頂までの上りはキツかった。立ち止まっては深呼吸して、わが身をひたすら励ますほかない。要害山の山頂を越えると少しラクになった。天狗岩は急階段を下った先と分かって、躊躇なく回れ右した。 赤ぼっこからの眺めは素晴らしい。説明板には、「関東大震災の際、この付近の表土が崩れ落ち、赤土の露出した山となっ

          長淵丘陵をめぐり赤ぼっこに立つ

          「本阿弥光悦の大宇宙」と法華信仰

          「本阿弥光悦の大宇宙」展は大盛況、同時に「中尊寺金色堂」「江戸城の天守」展もあって、雨模様もなんのその、東京国立博物館の入場券販売窓口は長蛇の列であった。 本展の〈第1章 本阿弥家の家職と法華信仰―光悦芸術の源泉〉には、「本阿弥光悦肖像」「本阿弥行状記」や国宝の「刀 無銘 正宗(名物 観世正宗)」などの刀類はもとより、重要文化財の光悦筆「立正安国論」――日蓮が北條時頼に奏進した建白書――や「始聞仏乗義」――門下の富木常忍の母の3回忌に際して送った書状――、さらに小野道風写経

          「本阿弥光悦の大宇宙」と法華信仰

          彩の国の仙元山にあそぶ

          昨秋はせっかく剣山に出かけながら、足腰の衰えは如何ともしがたく、山頂には立てなかった。以来、百名山などに憧れるのはヤメにして、大高取山、松田山、烏場山など近場の低山を歩き、少しなりとも衰耄をセーブしようと発心した。というわけで、きょうは彩の国の仙元山めぐりである。 仙元山遊歩道の入口まで20分余り。林のなかのゆるやかな坂道を上ること40分ほどで山頂に着く。杉に囲まれた山頂からは、北側の眼下にわずかに小川町の街並みが眺められるだけ。休むベンチもないので、そのまま青山城跡に向か

          彩の国の仙元山にあそぶ

          越生梅林から大高取山ぶらさんぽ

          この季節であればと、まずは越生梅林へ足を運んだ。梅まつりのさなかである。園内に立つ佐佐木信綱の歌碑に刻まれた歌に得心した。   入間川高麗川こえて都より    来しかひありき梅園のさと 大高取山の登山口はすぐ近くにあった。山道に入ると、樹木に囲まれて気分爽快である。緩やかな坂道の落ち葉を踏みしめて歩くのも気持ちいい。だんだん気温も上がって汗だくだが、へたばることなく山頂へたどり着けた。バンザイ!である。 くだりは桂木山を経由して越生駅に向かうルートを進んだ。山から里に

          越生梅林から大高取山ぶらさんぽ

          松田山みどりの風自然遊歩道さんぽ

          案に相違して松田は曇天だった。昨日の天気予報では〈快晴〉だったのに悔しい。西平畑公園の河津桜は、見事に満開、菜の花に映えて圧巻である。朝から花見客が長蛇の列をなしていた。雲に覆われて、「関東の富士見百景」はお預けである。 お花見を愉しんだ後、みどりの風自然遊歩道をゆっくり歩いた。最明寺史跡公園まで1時間余り、ただひたすら舗装された坂道を上るのも、案外シンドイものだ。史跡公園は入り口に「からさわ古窯跡」が設置され、なかの池の周りの散策路は桜の樹に囲まれ、春になれば訪れる人々の

          松田山みどりの風自然遊歩道さんぽ

          遣れることはすべて遣った―多田蔵人編『荷風追想』摘記Ⅴ

          荷風本人が偏奇館の玄関に出て来て、「先生は外出しました」と返事された中央公論社の編集者がいたのはオドロキである。しかも、ご本人の松下英麿が「永井荷風」に明かすところによると、「ひかげの花」が『中央公論』に載った直後というから、なおさらである。どういう用件で訪ねたのか、その経緯には何も触れていないので確言はできないとはいえ、玄関先で本人に惚けられるような段取りで作家を訪問する編集者なぞ、飛び込み訪問以外にはありえない。 反対に、「気味のわるいほど、愛想」よく招じ入れられたと回

          遣れることはすべて遣った―多田蔵人編『荷風追想』摘記Ⅴ

          烏場山の花嫁街道を歩く

          先の嵯峨山はあっけなくギプアップしたので、捲土重来というのは大袈裟だが、今回の烏場山はなんとか山頂に立ちたいと、老躯を励ましてスタートした。烏場山は標高267mの低山、花嫁街道を登って、花婿コースを下ると、ひと回り13.5km、「歩行時間4時間40分」の長丁場である。 花嫁街道の入り口まで、和田浦駅からおよそ50分。いよいよ山道に入る。要所に道標があって、道に迷う心配はない。第二展望台から眺める房総の海は輝いていた。マテバシイ林を歩いて、〈経文石〉に着いたのが11時半。変哲

          烏場山の花嫁街道を歩く

          「強弩の末」の捉え方―多田蔵人編『荷風追想』気ままな摘記Ⅳ

          多田蔵人編『荷風追想』気ままな摘記そのⅣ。「四月三十日のある夕刊に、荷風氏の死の部屋の乱雑貧陋の写真をながめていると、そのなかにうつぶせの死骸もあるのにやがて気づいて、私はぎょっとした。言いようのない思いに打たれた。」と記すのは、『中央公論』永井荷風追悼特集に寄せた川端康成の追悼文「遠く仰いで来た大詩人」である。「しかし、このようなありさまの死骸の写真まで新聞紙にかかげるのは、人間を傷つけること、ひど過ぎる。」とまずは苦言を呈して、追悼文を書き起こしている。 「映画館のニュ

          「強弩の末」の捉え方―多田蔵人編『荷風追想』気ままな摘記Ⅳ

          ぽかぽか陽気に吾妻山さんぽ

          久方ぶりのぽかぽか陽気につられて、かねてから折りをみてと心にとめていた吾妻山公園へ出かけた。二宮駅に降りて役場口へ向かうと、目の前に長い階段が現われた。何段あるのだろうか、高齢者もゆっくり登って行くから脱帽である。吾妻山は標高136.2mである。山頂の芝生広場に立つと、富士山がアタマに雲をかぶって聳えていた。早咲き菜の花とのコントラストが美しい。 中里口へ下りて駅へ向かっていると、木々に囲まれて小さなベーカリーがあった。ブーランジェリーヤマシタである。店の前に行列ができてい

          ぽかぽか陽気に吾妻山さんぽ