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本阿弥光悦の「小宇宙」―『本阿弥行状記』を読む

本阿弥光悦の母・妙秀はとんでもない“肝っ玉かあさん”であり、『本阿弥行状記』(日暮聖・加藤良輔・山口恭子訳注、東洋文庫)は、その妙秀の“武勇伝”から始まる。先の《本阿弥光悦の大宇宙》展にふれて本書を手にし、一知半解をおそれず、以下はその現代語訳からつれづれに抄録した光悦の「小宇宙」である。

光悦の父、すなわち妙秀の夫・光二が織田信長公からあらぬご勘気をこうむった際には、妙秀は鹿狩りを楽しむ信長に夫の無実を直訴して許されるのである。秀吉の時代のこと、盗賊に蔵を破られ、預かりものの名刀脇差の数々を盗まれた。妙秀は「この盗人は世に隠れのない刀脇差を多く盗み取ったので、間もなく正体がわかるでしょう。これを盗ったのが不運なことだ」と少しも驚かなかった。「この家へ来たばかりにこの盗人が見つかり、(処刑によって)多くの人の命を失わせるであろうことが心の痛むことである」と、盗人たちが捕縛され死罪になるのを憐れんだので、光二夫婦は「世の常とは変わった者たちだ」と人々から評判された。のちにその盗賊・石川五右衛門の一党は捕まって煮釜の刑に処せられたと『続本朝通鑑』にある。

その肝っ玉かあさんの子育て。光悦は如何にして育てられたのか、今も変わらぬ子育ての要諦なので、いささか長くなるが書き写す。

「妙秀が子どもを育てる時には、少しでも(子に)よい行いがあればことのほかよろこび褒(ほ)めたという。人の親の怒って子を折檻するのを見ると、嘆かわしいことだと言っていた。幼いものをこそ、心がちぢこまっていじけないように、のびのびと奮い立つように(育てよ)と言っていた。(中略)また、我が子にとても悪いところがあると、ひそかに蔵の内へ伴って行き、くろろをおとし(戸締りをし)、人がやって来ないようにしておいて、『どうしておとならしくなれないのか。近頃の不作法、いやしきことなども、ひとつひとつよく知っていますよ』といって少しも怒らず、我が前に抱き寄せて、もう一度慎むようにそっと叱って、機嫌よく言って聞かせたという。」

すなわち、光悦は心の悴けないように、心の勇むようにと心配りして育てられたのである。

もう一つ、富貴と慳貪のことがある。妙秀は男の子2人女の子2人をもうけたが、姉娘が嫁いだのは仲人に偽られて、ことのほか貧しい家だった。父親の光二は大いに悔やんだが、妙秀は違った。「身の上が貧しいことはつらくはありません。(かえって)富貴な人は慳貪である故に有徳になったのではないだろうかと心配です。」ーー富貴に栄えているのは、ケチで欲深く無慈悲だからではないかと、かえって心配だというのである。「とかく慳貪大欲で有徳になった者は、程なく滅びるものである」と言って、妙秀は慳貪大欲を大変嫌っていた。

だから、妙秀が九十歳で亡くなったとき、「唐島の単物が一つ、かたびらの袷が二つ、浴衣、手拭い、紙子の夜着、木綿の蒲団、布の枕ばかりで、この他には何もなかった。」というほど質素であった。そのもとに育った光悦もまた、八十歳で亡くなるとき、粗末な「木綿の夜着の蒲団に臥して」いたばかりか、「二十歳ほどから、八十歳にて亡くなるまで、小者ひとり、飯炊きを一人おくだけで暮らした」。ゆえに、誰の世話になることもなく、「一生涯、媚びへつらうようなことはしなかった」のである。

臥る光悦を見舞った京都所司代から、「もはや暇乞いとなるので」と、ともなって来た嗣子へ「何でも遺言申し上げよ」と遺訓を求められ、さらに「自分にも意見を聞かせよ」と請うほどであった。また、松平伊豆守が上京のおりには、光悦を召し寄せて「(これが)うちうちでお噂の光悦でございます」と引き合わせ、伊豆守は「心得になるようなこと」を問うのであった。光悦は「ご威勢の盛んなうちに、後代まで万民が満足するであろう重要なことがらだけを急いでなされ、小さなことはおいておき」などと遠慮もなく開陳した。さながらABC分析の発想である。さらに「その折にはご多忙であったので(お二人の)心得になるであろうことをなおまた書き留めて申し上げましょう」というのが、以下の第一六段から第四九段までである。

しかも、「父の光悦は、生涯にわたって媚びへつらうことをたいへん嫌う人でありました。特に日蓮宗に信心が厚かったため」に、おのずから「これまで記して箇条書にも、儒者の見識とは違うところが数ヶ所あります。(そのため)この箇条書を(松平信綱や板倉重宗に)差し上げお見せしました際には、光悦の子孫が後に誹りをうけるかと恐れましたが、なにぶんご所望にしたがって差し上げたことでありましたので、何の差し障りもありませんでした。」と付記されている。なるほど、日蓮の立正安国論が胸底にあってのことか、「宋の時代ほど優れた儒学者があらわれました時代はありませんが、(中略)それらを著作した人々が生きていた間でさえ、宋による天下統一を学問の力では達成できませんでした。」とか、あるいは「唐土でも早くも孔子在世の時代には乱世であって、なかなか孔子のお力でも太平(の世)になりません。」などと痛烈である。

ここまでの光悦の聞き書きは、息子の光瑳によって編まれた。そして、孫の光甫に引き継がれ、本阿弥一族の「規模」(模範)として編纂された。光悦が「日蓮宗に信心が厚かった」ことは、徳川家康から拝領した鷹ヶ峰の領地に然るべき土地を選び、法華宗の4か寺を建立したことからもうなずける。一つは光悦の「嫡子光瑳の才覚によって法華経の談所(だんしょ)を建立」し、「高徳の僧を招いて能化(のうけ)と定め」、「数百人の所化たちが絶えることなく」ここで学問をした。また、もう一つは「光悦の母・妙秀の菩提所」である。さらには「天下泰平の祈祷を行なう」寺院、次に「本阿弥家の先祖の菩提所」でもある寺院である。「誠の志をもつ仏道修行者たちを集めて昼も夜も常に声を絶やすことなく交代で『南無妙法蓮華経』の題目を唱へ奉り、また(もう一ヶ所の)知足庵でもやはり法華経の読誦が絶えることがなかった。」とある。こう見ると、光悦はここ鷹ヶ峰の麓に法華信仰の理想郷を夢みたのだろうか。

光悦にとっては嫡子の嫁になるが、光瑳の妻・妙山もまた「法華の首題を毎日一万遍ずつ怠ることなく唱えて」、七十八歳で亡くなった。その臨終は、「知死期(ちしご)の時刻になると祖師大菩薩の曼荼羅を懸け、読経し題目を唱えていた。(中略)大曼荼羅に香花飲食を供え、合掌して本尊を拝し、またたきもせず、少しも苦しそうな様子なく題目を唱え、合掌(した両手)を口のそばへ寄せ、両眼をふさいだと見え(た時には既に)息絶えていた。」という最期であった。

本阿弥家の家職は刀剣の研磨、浄拭、鑑定である。

「本阿弥家の者の目利きに越ち度がないのは、年若い頃から絶える間もなく刀剣に馴染み、そのうえ目利きに関する口伝の秘事があれば、十二、三の時から一言も残らず相伝を受け、また細工を行う時には、一腰を十日も二十日も手に持って、骨髄を見ぬかねばと心がけて、良い切っかけがあれば(その骨髄を)見出して、親兄弟よりも名人になろうと精を出すため、目に見え、心に浮かぶほどのことならば、数十年の経験の積み重ねによってずいぶん見知っている。」

こうして、光悦から光瑳、光甫へと秘技は相伝された。

ことに本阿弥家の「目利きの吟味や詮索の厳しいことといったら、心に曇りのある人には想像の埒外であるにちがいない」として、その事例を列挙する。徳川家康が秘蔵の正宗の脇差を、足利将軍家の宝であると言って見せたとき、光徳は御前にて拝見し、「焼き直し」なので、その由を申し上げた。「どんなに諂いのない人々であっても、何事によらず上様がご秘蔵である旨を仰せになり、御前でお見せなさっているのに、(その刀を)何の役にも立たない物と申し上げられるほど潔い人は稀であるにちがいない。是が(証拠の)一つ。」というのである。ましてや、「私が利得に価値を置いていないこと」は言うまでもなく、刀剣の売買で金儲けするつもりはないのである。

光甫は言う。本阿弥の「一門二〇人あまりの者たちは(詮議の場において)少しも依怙贔屓はいたしませんという旨の誓紙を書き、また惣領も一門の人々に相談した上で、極札、折紙を出さねばならぬ旨の起請文を書いて大切にし、そうして(それらを)一門の(菩提)寺である本法寺の宝蔵に納め置きましたので、(我ら本阿弥家は必ず)行く末頼母しい家である」。すなわち、光甫は「これまで述べてきた数々は私の親(光瑳)、並びに私(光甫)の自讃である。そうではあるが自讃であっても一つには子孫に励むよう言わねばならないためであり、かつ家の誉れである(から記した)。」と、誇らかに行状記上巻を締めくくるのである。

なお、本書には、中心的本文とされる上巻の64段に現代語訳・語釈を付けて収められ、付録と位置づけられる中巻・下巻は収録されていない。

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