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徒然なるままにⅡ、野口冨士男編『荷風随筆集』(上)

もうかれこれ七、八年ほど前になるだろうか、南原繁研究会の友人に誘われて多摩霊園に南原繁の「探墓」に赴いたことを、野口冨士男編『荷風随筆集』(岩波文庫)の「礫川(れきせん)徜徉(しょうよう)記」を読みながら思い起こした。

「雨の夜のさびしさに書を読みて、書中の人を思ひ、風静なる日その墳墓をたづねて更にその為人(ひととなり)を憶ふ。この心何事にも喩(たと)へがたし」――というまでの感慨はないものの、幼い頃、新聞に報じられた東大総長の式辞の一節に、なにか胸を衝かれた記憶がよみがえった。新渡戸稲造、吉野作造、内村鑑三、矢内原忠雄などのお墓にも参って、活字の世界の人物が多少とも具象性を帯びてくるようでもあった。

まだ寒い春の彼岸、世間の賑わう花見の頃は避けて、「八重の桜も散りそむる春の末より牡丹(ぼたん)いまだ開かざる夏の初こそ、老軀(ろうく)杖をたよりに墓をさぐりに出づべき時節」であるという。荷風はヨコ軸に墓をさぐり、タテ軸に「苔(こけ)を洗ひ蘿(つた)を剥(はが)して漫漶(まんかん)せる墓誌なぞ読み」、そこから「更にその為人(ひととなり)を憶ふ」のである。言うなれば「荷風流人生地理学」であろうか。

手もとの市街図によると、白山にある本念寺に、大田南畝とその後裔にして荷風の親友・南岳の墓を訪い、つづいて白山通りを越えて蓮久寺に赴き、竹馬の友にして「終生よく無頼の行動を共にした」「わが狎友(こうゆう)唖々子(ああし)井上精一君」をあれこれ追想してやまない。夜ごと父の肩揉みに来ていた按摩の亡き後、その妻が真心込めて「炊爨(すいさん)浣滌(かんでき)の労」をとってくれた。その墓を初めて小日向の日輪寺に弔い、荷風の追憶は深まるばかりである。

そこから関口に出て目白坂を上り、鶴巻町から神楽坂を下って麹町に出て帰宅、荷風はその日の「墓さぐり」を終えたのである。

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