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大田南畝『仮名世説』の光悦像

大田南畝は「本阿弥行状記」を見た数少ない人の一人である。「本阿弥光悦が行状記といえる書を、人に借りて読みしが、光悦の芸、一としてその妙手にいたらざるはなし。(中略)文あり武あり、人となり一時の傑というべし」と賞嘆する南畝『仮名世説』の一節が、先の正木篤三『本阿弥行状記と光悦』に引かれていた。

その『仮名世説』(『大田南畝集』有朋堂文庫)にザッと目を通してみると、もう一か所、光悦を俎上に載せているので、ここに抜き書きしておきたい。

「本阿弥光悦は、(了寂院と号す。)晩年洛北鷹が峯に一寺を建立して、光悦寺と号せり。その子光瑳、その子光甫に至りて、代々鷹が峯を監護せり。能書の誉ありといえども、筆跡は名のみにて志をいわず。後鷹が峯に蟄(ちっ)して、牛に炭薪を負わせ、京の一家中、または心やすき方へ売り、鷹が峯へ蟄居する前に、家財も、よき道具はことごとく一門あるいは入魂(じゅこん)の方へ送り、麁物(そぶつ)なる器にて、茶を楽しまれぬ。よき道具は、損いわるな、など気づかいにして面白からず。とかく損い破れても苦しからぬぞ楽みなる、と言われしとなん。」

日蓮が門下に送った書状に「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財よりも心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし。」とあるが、光悦はまさに「心の財」をつむことに専心したということか。

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