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正木篤三『本阿弥行状記と光悦』抜き書きの賜物

最近、あまり馴染みのないジャンルの本を読んでいると、老いのせいもあるのだろうが、気に留めた個所がアレッという間に記憶から消えていく。やむなくその都度抜き書きしていると、不思議なことにというか、嬉しいことに、その本の叙述する世界にいつの間にかスッカリ嵌っていることに気づいた。「本阿弥行状記」中巻・下巻にざっと目を通したくて、正木篤三『本阿弥行状記と光悦』(中央公論美術出版)を手にして、心に響く個所を自分流に書き留めながら繙き、抜き書きの効能を体感したのである。

《中巻》の冒頭に、「この付録は光悦翁、光甫翁両所の書き残されし反故の中より取り出したり。それゆえに混雑校合するに能わず。見る人不審を残すべからず。ならびに予が聞きし所をもしるす。」とある。この〈予〉とは誰のことか。著者の考察によると、第三〇三段の文中に「堀田公御老中、酒井雅樂公御大老のみぎり(中略)祖父の申されるは」というくだりがある。その時代の光悦家系における当主は光甫であり、「この光甫を祖父と呼ぶ者は、光通の後を継いだ次郎左衛門光春でなければならない。」ということである。すなわち、中巻・下巻は本阿弥次郎左衛門によって現存するかたちに編纂されたと判定されるのである。

《下巻》に、日蓮門下の六老僧が列記されている。

「六老僧/日昭 日朗 日興 日向 日頂 日持

(中略)今に御宗門ご繁盛有り難きことなり。しかれども祖師ご入滅後、御弟子思い思いに大寺を建立し、少しずつは立派に相違もこれ有り候。」とある。『精選版日本国語大辞典』を見ると、「立派」とは「りゅうは」とも読み、「① 派を立てること。ある流派を起こすこと。② 各派の拠って立つ立場。たては。」とある。「立派に相違もこれ有り」と知る光悦、光甫、あるいは次郎左衛門は、「日興遺誡置文」などを目にすることはなかったのか、探索する手がかりを知らない。

《光悦と本阿弥行状記》は著者が、「光悦の名に親しむことの薄かりし人々のために、少しでも理解を深めることができるならばと考えて、簡単な伝記と、行状記の紹介とを添えることとした。」ものである。

太田南畝は「本阿弥行状記」を見た数少ない人の一人であり、その『仮名世説』に「光悦の芸一としてその妙手にいたらざるはなし。その手習う反古を見しが一字を数かぎりなくうつし置きたり。かように小致といえども意を深く用いしゆえ筆道(ひつどう:書道)も高く凡境(ぼんきょう:普通の場所)をもぬけ、その外刀剣の鑑定、茶事は(小堀)遠州をまなび、文あり武あり人となり一時(いちじ:当代)の傑というべし(中略)光悦がかかる人となりしはその母妙秀といえる尼の教育によれりとぞ」とある。

光悦は出版印刷文化の分野にも大きな足跡をのこした。

「世に光悦本、角倉本、また嵯峨本と称して貴重されている一種の印本がある」というのは、言うまでもなく印刷した書物のことである。近世初頭、「西欧活字および朝鮮活字印刷術の移入」もあって、「図書出版事業が確立して営業的書肆の出現をもうながすにいたった」のである。「いわゆる嵯峨本はちょうどこの近世文運勃興の機運に乗じてあらわれ、さらにこの傾向に拍車をかけたもので、印刷技術の上におけるのみならず、近世学芸史の上にも大きな功績をもつ」というのである。著者は「ことに国書の開板を主にしたという点に関しては、その手動者たる光悦と素庵の識見に嘆服せざるをえない」と高く評価する。

この吉田(俗称角倉)素庵は外国貿易に従って巨富をなし、「その巨富を擁して図書開板の業に志し(中略)この開板事業に光悦もまた参加し、時には進んで自ら版下を書き、料紙(りょうし:ものを書くのに用いる紙)装幀の意匠に心を傾けたものの如くである。(中略)この一類のものを、光悦を主体として考えることによって光悦本と汎称し、またはその中、とくに光悦の版下に成り、料紙、装幀まで彼の意図のおよんでいるもののみを限定して光悦本と呼び、全般の称呼としては吉田素庵を中心と考えて、角倉本、またはその居地にちなんで嵯峨本と呼ぶ」のである。

なお、その称呼について、川瀬一馬『古活字版之研究』は、「光悦が自ら版下を書き、その装幀に芸術的の意匠を施したもの、ならびに光悦の書風、装幀等の影響をすこぶる豊富に具備する刻書に対して『嵯峨本』という名称を付与すべきである」とあらためて定義を下している。そこで嵯峨本と考定されているのは、伊勢物語、源氏小鏡、方丈記、徒然草、三十六歌仙など13点がある。余談ながら、出版文化の先人として光悦の嵯峨本を展覧する催しは開かれないだろうか。

「光悦に親炙した人の光悦を物語っている唯一の文献として(灰屋紹益の)『にぎはひ草』がある」として、その一節が引用されている。

「一大虚庵光悦といえる者、能書たりし事はあまねく世にしるし(著し:明白である)といえども、生れ得たる心の趣、かつ覚たらんもうせてなく、伝え聞んもまたまたなし。また世に有べき人間とは覚え侍らず。今の世の有さまを見るに、聖人賢人の道を学ぶとするも、世をわたる為をもととするに似たり。中略我いと(稚)けなき時より、光悦そば近くな(馴)れて、老人の物語きく事おもしろく覚ければ、いくそたび(幾そ度)まかりてけり、小物覚えけるほどに成ぬれば、茶のみの友にも成て、私宅にもあまたたび(数多度)たづね来られし、老人のくせにておなじ物語もたびたびききける。」

紹益にとって光悦はじつに52歳も年上であった。「紹益は七十の齢を累ねてから青年時代を追懐し、光悦の知遇に感激忘るる能わざるものがあったとみえて、『また世にあるべき人間とは覚え侍らず』とまで嘆紹したのであろう。」そのことは、光悦の書に接して、その人となりを想像するとき、「さこそとうなづかれるものがある」というのである。

「立正安国論」を代表的作品にあげながら、仏典等を書写した光悦の書蹟について、著者は言葉を尽くして賛嘆する。

「これらはいづれもきわめて謹恪な書風に成り、もっとも深く(王)羲之(ぎし)を学んだと伝えられることの決して誤りでないと信ぜられるほどに、その骨法を羲之に取り、しかも何ともいえない温潤な和らか味を蔵しており、筆路堂々、いささかの匠気(しょうき:芸術家などが技巧をひけらかそうとする気持ち)なく、和様より出でて和様の臭を脱し、唐様を学んで唐様の擒(とりこ)とならず、光悦書蹟の真骨頂は実にここに存するかと思われる。」

さらに、「これを人にたとえるならば」と続ける。

「彼の書簡はいわば日常家居の態であり、色紙歌巻の類は遊楽自暢(じちょう)の様であり、書写内典にいたっては謹厳苟くもせざる晴の姿である。遊楽の姿は綺羅(きら)錦繍に身を輝かせて、美はすなわち美といえども自ら媚撫(びぶ)の風あるをまぬがれない。素紙に一点一画をも苟くせざる筆を着け、しかも毫(ごう)も窘縮(きんしゅく:苦しみ縮むこと)の弊なく、悠容迫らざる寛雅(かんが:優雅なこと)の風を湛えているこれら書巻に接する時は、あたかも生まれ得て寛仁の大度(たいど:心の広いこと)ある人の、晴の儀式に臨んで臆せず、迫らず、しかも傲(おご)ることもない自然の気韻(きいん:気品のあるおもむき)に触れるの感がある。」

われらの行住坐臥もかくありたいものだが、そうはトンヤが卸さない。

しかも、「光悦その人に親炙するの感をあたえるものこそ彼の作陶である」と言うのだが、如何せん陶芸などはまったくの門外漢、茶も嗜まず、髹漆(きゅうしつ:漆の塗りもの)や能楽なども珍紛漢だから、何をか言わんやである。とまれ光悦の芸術作品について「最も偉大なものはと問うならば、躊躇なく彼の生活と答うべきである。彼ほど芸術をもって、あるいは芸術心をもって生活を律し、生活を満たして行った人は少ない。」と見るのは、けだし卓説ではなかろうか。

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