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「強弩の末」の捉え方―多田蔵人編『荷風追想』気ままな摘記Ⅳ

多田蔵人編『荷風追想』気ままな摘記そのⅣ。「四月三十日のある夕刊に、荷風氏の死の部屋の乱雑貧陋の写真をながめていると、そのなかにうつぶせの死骸もあるのにやがて気づいて、私はぎょっとした。言いようのない思いに打たれた。」と記すのは、『中央公論』永井荷風追悼特集に寄せた川端康成の追悼文「遠く仰いで来た大詩人」である。「しかし、このようなありさまの死骸の写真まで新聞紙にかかげるのは、人間を傷つけること、ひど過ぎる。」とまずは苦言を呈して、追悼文を書き起こしている。

「映画館のニュースで、荷風さんの仰臥された遺体を見」た室生犀星は、「これが同業先輩の死顔かと、そして斯様なニュースに死顔を晒していることが激怒と悲哀とを混ぜて、私に迫った」と、『新潮』永井荷風追悼特集に寄せられた一文「金ぴかの一日」に綴っている。そして、「今日も一日生きられるという素晴らしい光栄は、老いぼれでなければ捉えられない金ぴかの一日なのだ」と言い、ゆえに「我が荷風の過失は自らの天命の予感がなく、あと四、五年も、もっと永く生きる心算でいた事にあった。」と、苦言を呈するのだが、すでに傘寿を幾つかこえた老いぼれの身から見ていささか同意しがたい。

そればかりか、「金をまもる事を知りすぎた彼は、自分の命をまもることに一日遅れていたのである。」というのだが、これは題名「金ぴかの一日」の〈金〉と「金をまもる」の〈金〉の語呂合わせなのか。「慾張りという根性はここらでその能力を発揮してほしかったのだが、金には謹直でも、自分の命を吝(やぶさか)にまもらなかったことでは、吝も真には徹してはいない訳である。」と、〈金〉と「謹直」の〈謹〉、〈吝(やぶさか)〉と〈吝〉(けち)という塩梅に、ヘンなレトリックを駆使するのは如何なる了見だろうか。

まして、古稀を迎えた室生犀星が言うに事欠いて「荷風も人知れず死ぬことによって大嫌いな世間をあっと言わせたことは、一挙に死花というものを見せてくれた気がする。」と誉め殺しとも言えない言辞を弄し、「他人の死に対(むか)って今度ほど親しく接したことは、私の生涯においても稀なことである。」とは、口に剣ありというか、何をか言わんやである。

やはり『新潮』永井荷風追悼特集に掲載された、石川淳「敗荷落日」も痛烈な荷風論である。戦後はただ「葛飾土産」の一篇のみ「さすがに風雅なお亡びず、高興もっともよろこぶべし。しかし、それ以後は……何といおう、どうもいけない。」ばかりか、「わずか日記の文があって、いささか見るべしとしても、年ふれば所詮これまた強弩の末のみ。」とこれまた手厳しい。ところで、佐藤春夫は「月評家たちが強弩の末と云った」と人の評として「強弩の末」を用い、石川淳は『断腸亭日乗』に着目しながらも、「強弩の末のみ」と自身の評として用いるーーこの対比を何と言おうか。

この「強弩の末」は、『漢書』韓安国伝にある「疾風も衰えては、羽毛さえ挙げられず、強弩も勢いつきては、薄い魯縞(魯の国に産する薄い白絹)さえ破ることができない」(小竹武夫訳『漢書』、ちくま学芸文庫)に由来する。「そもそも盛んになればやがてかならず衰えること、あたかも朝が来ればやがてかならず日暮れになるようなもの」(同前)とすれば、しごく当たり前の道理を述べたに過ぎず、「強弩の末」を恐れることはないのだ。

また、「この変り身というものが、晩年の荷風にはさっぱりうかがわれない」と、論語の「暮春すでに春服」を引いて、石川淳は痛切に惜しむ。さて、金谷治訳注『論語』(岩波文庫)の訳文をみると、「もしだれかお前たちのことを知って〔用いて〕くれたとしたら、どうするかな。」と、孔子から問われて、弟子の一人曽晳は「春の終わりごろ、春着もすっかり整うと、五、六人の青年と六、七人の少年をともなって、沂水でゆあみをし、雨乞いに舞う台地のあたりで涼みをして、歌いながら帰って参りましょう。」と答える。孔子は感嘆して、曽晳に「賛成するよ。」と言った――というのだが、これのどこに「変り身の妙」があるのか、どうにも理解が及ばない。

そうかと思えば、瀧井幸作は荷風文学に惚れぼれしたと、裏表なく真っ直ぐである。瀧井孝作「覚書」によると、円本の企画を持って来た改造社の山本社長に、志賀直哉が「荷風氏は一人でいても一歩も退かず、益々進む人だから、除外することの出来ない人だ、現代日本文学全集には、必ず入れなければ」としきりに勧めていた。それを側にいて耳にした瀧井は、たまたま中央公論社の編集者にその話をした。荷風は「独立して絶対に妥協せず。虚偽を憎み。捨身で。下層の方にも深くはいって行って。時代に鋭敏で。作品一筋の生活で。どんな事を書いても俗にならず。美しい詩情がたっぷりして。と、こんなに思って、私は惚々した。」と語り、その編集者から依頼されて、瀧井は『荷風全集』附録一三号(中央公論社)に、そのまま「覚書」に書いたというのである。

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