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広瀬旭荘と桃花―葉室麟『雨と詩人と落花と』寸感

葉室麟は雨に思いを仮託するのが好みなのだろうか、あるいは広瀬兄弟に雨が似つかわしいのだろうか。広瀬淡窓と咸宜園を描いた『霖雨』は、題名ばかりか、しかるべき場面で雨が降っていた。淡窓の養子となった末弟の旭荘を扱った『雨と詩人と落花と』もやはり題名からして雨である。富士川英郎『江戸後期の詩人たち』で出会った詩人・広瀬旭荘を扱った小説の存在を知って、『雨と詩人と落花と』に目を通した。

淡窓は、荻生徂徠の学派だった亀井南冥、昭陽を師として学んだ。旭荘もまた、〈異学の禁〉のため朱子学に転じた昭陽に学んだ。幼くして利発だった三男・脩三郎を亡くした昭陽から、その思い出を記した『傷逝録(しょうせいろく)』を見せられた旭荘は、「白玉楼成りて記未だ成らず/雲軿(うんぺい)遠く揚鳥(ようちょう)を載せて行く」と始まる古体詩を作って師にこたえた。

「白玉楼成りてとは、唐の時代、鬼才と言われた詩人、李賀(りが)が死の床にあったとき、天帝の使いが来て、李賀を召して記を作らせるため白玉楼が作られたと告げたという故事を踏まえている。さらに天女の乗る牛車である雲軿が孝行な鳥、揚鳥であった脩三郎を迎えにくる」と、作者によれば、旭荘は「死を華麗に装飾」して詠じたのである。昭陽はその詩を「奇想天ヨリ落チ来タル」と絶賛し、「コレヨリシテ、謙吉(旭荘)初メテ才子ノ名ヲ世上ニ得タリ」、すなわち「昭陽が褒めたことで一躍、旭荘の詩人としての名は広まった」というのである。

旭荘は、「桃花多き処是れ君が家/晩来何者ぞ門を敲(たた)き至るは」と吟じているが、「桃の精」と見た松子と再婚した。その後、師の亀井昭陽を福岡に訪ね、さらに佐賀の古賀穀堂、足を延ばして長崎の高島秋帆を訪れて、唐蘭館を見学するなどした。さらに、堺に赴いた旭荘をめぐって、関西の詩壇を牛耳る篠崎小竹、陽明学者の大塩平八郎などの名前が叙述されている。それから、江戸に出た旭荘は、佐藤一斎、古賀侗庵、林述斎、岡本花亭ら学者、文人と交流を広げる。梁川星巌とも親しくなって、その玉池吟社に出入りし、塩田随斎、大槻磐渓などと交遊を深めるのである。

江戸から日田に帰ったのち、再び大阪に出た旭荘は、緒方洪庵と交友を深める。一方、かつて咸宜園に一時身を寄せた高野長英の門人にたまたま出会い、蛮社の獄にある高野長英からの謎めいた角筆詩文を読み解くことを頼まれる。ひとたびは預かったものの、もろもろ煩悶の末、読み解かないまま返却した。こうした多彩な顔ぶれが揃ってくると、激しい時代の流れのなかで、旭荘はどのような活躍をみせるのか、これからの小説の展開に期待は膨らむばかりである。

老中水野忠邦に重く用いられている羽倉外記から、旭荘を水野忠邦に推挙したという手紙が届く。いよいよ旭荘の出番到来か。外記はかつて日田代官を務めた羽倉権九郎の息子で、日田で淡窓から学問を学んだ。旭荘は妻子を日田に帰して、慌ただしく江戸へ出た。が、ほどなく水野は失脚して、仕官は幻と消え、やむなく旭荘は塾を開いて糊口を凌ぐ。そして、松子と孝之助も江戸に出て来るのだが、あろうことか松子は病に倒れてしまうのである。小説は以下、もっぱら旭荘と松子の物語になるのは、正直言っていささか意外の感をいだいた。

蛮社の獄にあった高野長英は脱獄し行方が知れない。その「長英の激しい生き方を思えば、自分は学問という名の砦に籠り、世の中と関わろうとしていないのではないか」と、旭荘は恥じ入る気持ちにおそわれる。だが、「ひとりを懸命に救おうとするひとが本当に多くのひとを救えるのではないか」、換言すれば「ひとりを救わずに多くのひとを救うことはできない」と言う松子との語らいのなかで、その思いは解けていくかのようである。松子は享年二十九で逝った。師・昭陽の『傷逝録』にならったのか、松子の没後、旭荘はそのさまを『追思録』にまとめている。

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