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徒然なるままに、野口冨士男編『荷風随筆集』(上)

「日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く」のが、永井荷風のスタイルである。「その日その日を送るになりたけ世間へ顔を出さず金を使わず相手を要せず自分一人で勝手に呑気(のんき)にくらす方法をと色々考案した結果の一ツが市中のぶらぶら歩きと」なり、「日和下駄(ひよりげた) 一名 東京散策記」にまとめられた。きょうこの頃のオミクロン禍をやり過ごすにはうってつけのくらし方かも知れない。

とはいえ、荷風も「いろいろと無理な方法を取りこれによって纔(わずか)に幾分の興味を作出(つくりだ)さねばなるぬ。然(しか)らざれば如何に無聊(ぶりょう)なる閑人(かんじん)の身にも現今の東京は全く散歩に堪(た)えざる都会ではないか」と慨嘆するが、現代にあってはなおさらである。では今、どのような「興味」を作り出せるか。

荷風に倣って「嘉永板(かえいばん)の江戸切図(えどきりず)を懐中(ふところ)」に、ぶらり歩いて「名所絵にて名高き渋谷の金王桜」を春に訪ねるなぞ、「日和下駄」の跡を訪ねるという「興味」のつくり方も一つである。だが、東京の「水」の美を論じて言及する「角筈(つのはず)十二社(じゅうにそう)の如き池」など、淀橋浄水場すら跡形もないのだから、何をか言わんやである。細流のくだりに、小学唱歌「春の小川」に歌われ、今は暗渠と化した河骨川はなかった。

荷風は「閑地(あきち)」に咲く「雑草が好きだ」と言う。そして、「閑地は即ち雑草の花園である」とする。ここに荷風が引く戸川秋骨『そのままの記』に、戸山ヶ原には「少しも人工が加わっていない。全く自然のままである。‥‥その自然と野趣とは全く郊外の他の場所に求むべからざるものである」とあるが、そこに高層マンションの建ち並ぶ今となっては昔々のこと。東京に「自然と野趣」を求めるのであれば、川苔山や三頭山など奥多摩の山陵を歩くほかない。奥多摩の初夏のツツジ、秋の紅葉もまた素晴らしい。

「崖」の上は、何と言っても団子坂の頂き近くにある「当代の碩学森鷗外先生の居宅」をはずせない。「二階の欄干(らんかん)に彳(たたず)むと市中の屋根を越して遥に海が見えるとやら、然るが故に先生はこの楼を観潮楼と名付けられたのだと私は聞伝えている」――ここにつくられた森鷗外記念館には、五年ほど前、二度ばかり足を運んだ。ちょうどコレクション展「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」と、「死してなお―鷗外終焉と全集誕生」が開催されていて、教えられるところが多かった。

「崖」があれば「坂」もある。眺望の絵画的に麗しい坂に、荷風は「牛込神楽坂浄瑠璃坂左内坂」をあげ、「さりとて全く眺望なきものも強(あなが)ち捨て去るには及ばない。心あってこれを捜(さぐ)らんと欲すれば画趣詩情は到る処に見出し得られる」として、「四谷愛住町の暗闇坂、麻布二之橋向の日向坂」をあげるのだが、岸田劉生が「道路と土手と塀(切通之写生)」に描いた代々木の切通しの坂は、荷風の日和下駄は及ばなかったようである。

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