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遣れることはすべて遣った―多田蔵人編『荷風追想』摘記Ⅴ

荷風本人が偏奇館の玄関に出て来て、「先生は外出しました」と返事された中央公論社の編集者がいたのはオドロキである。しかも、ご本人の松下英麿が「永井荷風」に明かすところによると、「ひかげの花」が『中央公論』に載った直後というから、なおさらである。どういう用件で訪ねたのか、その経緯には何も触れていないので確言はできないとはいえ、玄関先で本人に惚けられるような段取りで作家を訪問する編集者なぞ、飛び込み訪問以外にはありえない。

反対に、「気味のわるいほど、愛想」よく招じ入れられたと回想する編集者もいる。戦後、中村光夫のお供をして市川の寓居に荷風を訪ねた筑摩書房の臼井吉見である。臼井による「荷風の生活態度」の記述によると、その頃評判だった田村泰次郎『肉体の門』なども話題にして、「荷風が僕らのためにつとめて話題をさがし、もてなしてくれているといったふう」であったと懐かしむのである。

名作『濹東綺譚』の文章を「いくどとなく愛誦してきたし、今後も同じであろう。」と明かすのは、中山義秀「一冊の本 永井荷風『濹東綺譚』」である。荷風の文章は「纏綿とした情緒をおび、含蓄がふかく彼以外には物しえない妙趣をそなえている。荷風亡き跡もう彼ほどの文章に接しなくなった憾みをなげく者は、あながち私ばかりとはかぎるまい。」と賞嘆する。

堀辰雄の遺したノートの一冊に「荷風抄」がある。福永武彦「堀辰雄の『荷風抄』」によると、「フランス近代文芸思潮を、荷風の作品によって知ろうとした彼自身のための勉強のノオト」、すなわち戦争末期に、堀辰雄が「荷風のフランス文人観を抄した」ノートである。「戦争時代の荷風の抵抗のしかたは風に聳える老松の如くに立派」であった。「それに較べれば堀さんのは少々草の葉の風に吹かれる如き感じがする」のだが、「こうした二種類の抵抗のしかたは、一種の東京の下町の人間に共通したもので、荷風は横町の気むずかし屋の御隠居さんの如く、堀さんは恐れ入って黙々と手仕事にのみ励んでいる職人の如くである。」としたあと、福永武彦は「一つには荷風が如何にフランス文学を会得していたかに驚嘆した。‥‥その博覧強記にもその深い愛情にも感嘆の他はない」と結んでいる。

太宰治が「三月三十日」と題する一文に、「日本の老大家」荷風の小説「散柳窓夕栄(ちるやなぎまどのゆうばえ)」の一節を引いて、「日本には、戦争の時には、ちっとも役に立たなくても、平和になると、のびのびと驥足をのばし、美しい平和の歌を歌い上げる作家も、いるのだということを、お忘れにならないようにして下さい。」と書いたのは、1940年「南京に、新政府の成立する日」、日米開戦の前年のことであった。

面白いことに、「戦争中私たちの間で最も人気のあった作家は永井荷風と太宰治ではなかったろうか。」と、安岡章太郎「飾窓の前の老人」の書き出しにある。その頃、「太宰は当時一番活躍していた作家」であり、荷風といえば「一種の稀覯本的な人気をあつめていた」という。「戦争中、荷風に興味を持った」のは何ゆえだったのか。「結局、この戦争を荷風はどう見ているかということを知りたいためだった」と打ち明ける。というか、誰よりも明治の開化思想を背負った小説家が「文明開化の当然の帰結である大戦争の中で何を見、何をやっているかは、生なかな小説を読むより愉しみだった」と、安岡は胸中を明かすのである。

一方、三島由紀夫「十八歳と三十四歳の肖像画」によれば、「作家というものは、人生的法則、生の法則と、思想的法則、精神の法則と、両方に平等に股をかけて生きてゆくべきものである」のだが、荷風などのタイプは「精神的思想的発展のありえないのは自明の理」であると断じ、「それはいわば青年の木乃伊(ミイラ)なのである」と指弾してはばからない。

古本屋で購った初版本の『日和下駄』から、周作人が「東京散策記」に録するのは、「変り易いのは男心に秋の空それにお上の御政事とばかり極つたものではない。」とか、「淫祠は昔から今に至るまで政府の庇護を受けたことはない。」といったくだりである。とすれば、『日和下駄』を月刊「三田文学」に連載した頃から晩年まで、荷風には一貫する生の法則、精神の法則が見られるのではないか。荷風は人生的法則と思想的法則を貫き、〈遣るべきことはすべて遣った〉とまでは言えないまでも、少なくとも〈遣れることはすべて遣った〉と胸を張れるのではないか。

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