書きたいものを描く

最初に

つたないうえに、文章構成も何もあったものじゃない、自分のための文章です。また、くろーむのを読む前に書いたら、ダブってしまった部分が大きいので、余計に恥ずかしいです。もう少しましな文章が書けるよう練習します…。




なぜ僕の書きたいものは認めてもらえない?-自己満足の塊

僕が描くものは、自分が書きたいもの、自分が書きたいものを自分が書きたいとおりに描く。その世界に矛盾が生じても構わない。世界の創造主は自分自身なのだから。だから、他人が見たときに思うことはただ一つ。これは、作者の自己満足だ、と。


書きたいもの と 書くもの

前段で書いたのは自分のための小説の書き方。それは、世間には認めてもらえない。書きたいものじゃなくて、書いてみんなが喜ぶものを書かなければならない。矛盾してはならない。単調ではならない。設定がぶれてはならない。自由はない。その世界を描くのは僕であって僕ではない。真に世界を描くのは僕を通してみた世間。僕が描きたいものを押し殺して、僕は世界が望むものを描くようになった。

そう教育されたのは小学生の時から、自分が望む回答は書かせてもらえない。自分が書きたいことは書いてはいけない、その問題を作った者が思うことを書けと言われる。自分の思考に、思想に合わなくても書くものはその合わないものに対して書かなければならない。僕たちのアイデンティティは殺されて、均一な人間へと教育される。できない奴は弾かれて、ダメ人間だとレッテルを貼られる。

なぜ、僕たちは抑圧されなければならない?なぜ僕の書きたいものは認めてもらえない?認めてもらえないものは必要ないの?


僕たちはなぜ抑圧されなければならない?-抑圧されても隠れろ、牙はもがれてはならない

僕たちが、抑えられてやる必要はない。でも小学生の僕はその至極当然な事実に気づくことができなかった。大人は狡猾だ。思考力の発達していない子供のうちに思想を固定していく。個性という世界に食らいつくための牙のもっとも根底にある部分を均質に並べられる。子どもたちは気づかれないうちに自分の牙を弱体化させられる。上辺だけの個性を取り上げて、人は皆違うとほざきながらも、一番初期は統一する。その最初期を統一されながらも、その最奥まで侵略されなかったものは奇才として名を上げるか、または奇人として目立つのか。その『奇』である部分が本来の人の個性なのではないだろうか。だから、子ども達にはこういいたい。自分らしさを大事にしろ、ただし、それを鋭く主張するな。自分を守れるようになってから、その来るべき時にそれを世界に突き刺せ。それまで潜んで、自分らしさを研げ。子どもの僕がもう少し賢ければ今とは違う僕になっていたのだろうか。


なぜ僕の書きたいものは認めてもらえない?-認められる必要はあるのか?
認めてもらえないものは必要あるのか?-自分にとって必要ならばそれで十分

僕の書きたいものが認められない理由はそれが世間に合わないから。今いる世界における一般の思想は僕の考えとはずれていて、僕が書く世界を嫌うから。

僕は思う。認められなくてもいいじゃないか。認められなくても自分が描ければそれでいいじゃないか。矛盾を治すのは自分が納得いかないから。誰に認められなくとも自分がその存在意義を認められるのならばそれでいい。

自分に必要だから書く、それが一番の理由で最大の理由。


僕はこれからも描き続ける、これからも自分のために…。僕の世界は僕以外には侵略されない。僕が創る世界は僕自身のものだから





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