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「あれがゴジラか」に見る、俳優の一興について。そしてワークショップのお知らせ。

皆さん、霊感ありますか?
ちなみに私はこれまで1回も霊を見たことはないので、恐らく無いのだと思っています。

とはいえ昔、霊感持ちの友人のお祓いに付き添った時に「あなたが霊を呼んでます」と告げられたことがありまして、
確かに思い返してみれば、彼は私と一緒にいる時によく怪奇現象に遭ったり、なにかを見てしまったりしている様子だったので「災難だなぁ」と他人事を貫き通しておりまして、「俺見えないけど呼んじゃうんだ☆」という当たり障りのないエピソードトークの1つとして気軽に扱っていたんですけれども、

つい最近、
「今だから言うけど、君、だいぶ前、たまに乗っ取られてたよ」と身内から報告を受け、戦慄を覚えた今日この頃です。

もちろん乗っ取られている間の記憶はありませんが、唐突に虚空を見つめたり徘徊したりして、1分くらいで何事もなく元に戻ることが何度かあったらしく、流石の私も「やべぇ巫女じゃん。俳優の資質パネェ」とは一切思うことなく、ただただ慄然としたわけであります。
その話を聞いた後に、乗っ取られ時期に住んでいた土地を調べたら、やはりガッツリ心霊スポットでした。こえ〜。今後、私がフルチンで踊り狂っていても乗っ取られているのかもしれないと思って通報まで1分は様子見してほしいところです。

というわけで、今日の記事はこれらとは一切関係の無い、俳優の一興についての話です。


限定された言語にみる矜持

無趣味な私ですが、唯一趣味と言えそうなことは『うわぁ〜その台詞そうやって喋るのか〜俺絶対思いつかねぇ〜パネェ〜』と思う俳優さんの語った台詞を、自分の愚かさと他者の素晴らしさに狼狽えて吐きそうになりながらも感動してしまう芝居のシーンを繰り返し観ることです(ね、気持ち悪いでしょ)。

人は普段話をする時も、自分の中に抱えている事の殆どは相手に表明出来ません。
実際に口に出した言語はその中の氷山の一角でしかなく、台詞は、その限られた言語を用いて『何を言わんとするか』を突き詰めるのがこれ一興と考えるわけです。逆にそれ以外に演技って何か楽しいことあるん(略
長台詞を扱うのも楽しいかもしれませんが、個人的には短い台詞をどう扱うのかということが、胸アツポイントであります。

もちろん俳優が意図をもって相手にきちんと喋れていれば、どう言おうが正解っちゃ正解だと思いますが、ごくまれに『正解これしかないやろ』という私的ツボを押さえてくるものが出てくると、芝居ってなんて素晴らしいんだろうというお気持ちになります。

というわけで、ここからは完全なる独断と偏見と勝手な解釈に満ちた『正解これしかないやろ』台詞を思いつくままに並べていきたいと思います。


「あれがゴジラか」

映画「シン・ゴジラ」公式HPより

こちらは、庵野秀明監督の映画『シン・ゴジラ」で主演の長谷川博己さん演ずる内閣官房副長官・矢口蘭堂がゴジラを肉眼で初めて目にした時に発する台詞です。私はこれにとても痺れまして、以来何十回と該当のシーンを繰り返し見てしまいます。

文章で説明するのは非常に難しいのですが、
痺れポイントと致しましては、この「あれがゴジラか」という台詞を、長谷川さんは「あれが」ではなく「ゴジラか」に力点を置いて扱ったところです。

「あれがゴジラか」という日本語は「あれが/ゴジラか」という2つの文節(或いは、あれが/ゴジラ/か の3文節)で構成されています。
文節とは、言語として意味が通る最小の単位です。
小学校で習った"〜ね"で切ることができるやつですね。

たったこれだけの文節からなる短いシンプルな台詞でも、それを果たしてどう扱うのかというところにこそ、俳優の矜持が見えるものです。

例えばもし、まだ『ゴジラ』という単語だけが噂のように飛び交っており、姿形が想像上のものでしかない中で初めてその実物を目にしたというシーンであれば、『あぁ!あれが噂の!』という意で「あれが」に力点を置くことも理に適っている気がします。
しかし実はこのシーンの前に、矢口蘭堂は既に映像でゴジラを目にしているので、その姿形は知っている訳です。とすると、この台詞は『あれが噂の』の意ではないことがわかります。

平たく言うと、この台詞を以て言いたい事は「あれが」ではなく「ゴジラか」の方な訳です。

この最後の「か」は終助詞ですが、「あれが・・・ゴジラか」の場合、推定の傾向が強まる感じがしますが、「あれがゴジラか・・・・」の場合は、意思や理解の傾向が強くなります。

まず「あれが」でその姿を指し示し、それに対して「ゴジラか」と再認識することで、その存在が強調され、下手すると「いや知ってたやん」というツッコミを貰ってしまいそうな場面に、敢えてこの台詞をこう発する事で『知ってはいたが理解してはいなかった』いう表現として成立し、且つこの表明を以て『畏怖に立ち向かおうとする人間』というこれからの物語の流れに自然に移行できる"色んなピースがっちりハマったぜ感"に、私は大変ゾクゾクして今日も巻き戻しボタンを押す訳です(ね、気持ち悪いでしょ)。

しかもゴジラはCGですから、撮影時は実物のない中でこれをやっていたかと思うと「パネェ」以外の言葉が出てきません。
もし予告編を作る時に、"この台詞の後にタイトルをドーンと出せるか"という観点で考えても、この「あれがゴジラか・・・・」なら、フゥ〜!と盛り上がれそうだ。
ただの妄想じゃねえかと言われたらただの妄想なんですけれども、その瞬間の演じる気分にいっぱいいっぱいになるより、そういう観点を持ちながらやることは大事な気が致します。

とは言え、
もし私が「あれがゴジラか」という台詞を与えられて、それを何とな~く喋ってしまったら「あれが」に力点を置いてしまいそうだ。それは「あれがゴジラか・・・・・・」という1ブロックの文字面のイメージに引っ張られ、雰囲気で喋ろうとしてしまうからでしょう。この『雰囲気で喋っちゃう』ことは芝居で陥りがちな落とし穴ですが、本人は気持ちよくても、傍から見るとクソキモ大明神なので、尻穴を引き締めていきたい所存です。

因みに、このシーン後にゴジラが発光するのを(光線を吐き出す前兆)見て、静かに「なんの光だ」と発するところも痺れます。
「…なんの光だッ!?」と不思議"そうに"・驚いた"ように"やりたくなってしまいそうですが、やりません。感銘。


「やあ、ごめんごめん。探したよ」

© 2004 Studio Ghibli・NDDMT

言わずともご存じの方も多いと思いますが、映画『ハウルの動く城』より木村拓哉さん演じるハウルの台詞です。兵隊にナンパされ困っているソフィーを華麗に救出する場面ですね。

そもそも木村拓哉さんの演技というものが、私の中で神様の領域に突入しているので、もはや何から語れば良いのか分かりませんが、
まず凄いのが、ソフィーの背後から歩いてきて①「やあ、ごめんごめん」そしてソフィーの肩を抱いて隣で②「探したよ」の2ブロックで、声の距離感と方向を正確に変えていることです。
そして、これはこの台詞に限ったことではなく、全ての台詞に共通して行われています。
この後、兵士に向けて「この子の連れさ」ソフィーに向けて「どちらへ?私が送って差し上げましょう」追手に気付いたソフィーに「知らん顔して、追われてるんだ」空を歩きながら「足を出して、歩き続けて」…と続いていきますが、自分の置かれた状況・相手への働きかけ・距離感・意図…演技をしているときの意識が常に自分の外側に向けられており、結果すべての台詞に徹底して声に指向性があるのです。こうした1つ1つの丁寧なアクトが、フィクションを本当(実際)にしてゆくのです。鳥肌が止まりません。チキン畑中と呼んでくれ。
それはジブリの新作映画『君たちはどう生きるか』でも同様で、木村氏が喋る度に「セルフサラウンド音響やん…パネェ…」と私は座席で涎を垂れ流していましたが、ギリギリのラインで失禁だけは防ぎました。

因みに、掲題の台詞はハウルの初登場シーンにおけるものです。ソフィーをナンパから助けるために咄嗟についた嘘の文句のようにも聞こえますが、ハウルはソフィーを『未来で待っていた』わけですから、この「探したよ」は嘘ではないわけです。めっちゃ洒落た第一声だ。

この木村氏の発する「探したよ」を聞いて震えるポイントとしましては、実際に『探していた』という行為が、その一声を聞くだけで手に取るように実感として伝わることです。
演技において「探したよ」と一言発すれば、その前に『探していた』という行動があったであろうと、受け手や聞き手は日本語の意味から推測できてしまいますが、言葉の送り手が実際にその行為があったと”自覚したうえで発する”のと”無意識に発してしまう”のとでは、その実感に雲泥の差があります。このイマジネーションとアクチュアルを以て、肉体を伴った声を出すことが演技のひとつの神髄であると思いますし、こういうものが聞けたときはもう「ありがとうございます」以外の言葉が出てきません。ありがとうございます。


「…マジか」

出典:芥見下々「呪術廻戦」コミックス第9巻

ガンハマり中のアニメ『呪術廻戦』より、愛してやまない子安武人さん演じる伏黒甚爾の台詞です。

天才(五条悟)vs超人(伏黒甚爾)の闘いの末、甚爾にトドメを刺されて死の淵を彷徨った五条が生死の狭間で"呪力の核心"を掴み、覚醒のち復活を遂げ再び甚爾の前に現れたシーン(何を言っているんだろう)です。
伏黒甚爾にしてみれば、一度殺した筈の相手が目の前に現れたというまさかの場面ですね。

「よぉ 久しぶり」
「…マジか」
「大マジ 元気ピンピンだよ」

この「…マジか」という台詞。これ自分なら絶対に相手に掛けてしまう気がします。原作太字だしな。下手すると『マジかよ感』の雰囲気も乗せてしまうかもしれません。種類でいえば「フラれたわ」「マジか」の「マジか」といったところでしょうか(は?)。
しかし子安氏はそんな愚かなことはせず、ほぼブレスのみで呟きます。
あえて相手に声を掛けないという手を取ることで、"唖然"="言葉を発することが出来ない様"が浮かび上がり、『あ、これ大変なこと起きてんだ』と再認識させられます。
「マジか」をがっつり掛けてしまうということは相手をがっつり認識しているということですから、確かにそれは死人蘇生に対して耐性あり過ぎかもしれない。

そして、この台詞の扱い方がパネェポイントは、次の五条の台詞を聞いて初めて発覚します。

甚爾は「…マジか」を独りごちっています。先程も述べたように相手に届かせる前提の言葉ではないわけですが、しかし次の五条の台詞は「大マジ」です。本来聞こえる筈のない呟き「マジか」に呼応しているんです。
なぜか。覚醒しているからです。

本来「え?なんて?」と聞こえないはずのものすら聞こてしまうという、五条の覚醒感の演出として一つ前の台詞が機能してくるのですね。
こうした声で奥行きを持たせる表現は漫画では不可能なわけで、平面を立体的に立ち上げていく俳優の可能性について考えさせられます。パネェ。


「…いいね。ベイビー、俺のハートに火をつけたぜ」

続いては、アニメ『少女革命ウテナ』より、薔薇の花嫁を賭けたデュエリスト達の決闘に巻き込まれた天上ウテナが西園寺莢一を倒した光景を見た桐生冬芽が言葉を溢す場面(何を言っているんだろう)です。
演じるのは、そう、子安武人さん(大好き)です。

何と公式動画があります。やったね。

幾原邦彦監督は、寺山修司をバチバチに継いでいて感無量です。真のアングラ万歳。

それはともかく該当のシーンは、20分35秒頃からです。

「いいね/ベイビー/俺の/ハートに/火を/つけたぜ」

果たして本当に見えているんだろうかと、不安になる遠距離からの決め台詞。
これ、私は「いいね」を発して、「ベイビー」「俺のハートに火をつけたぜ」を噛み締めてしまいそうになります。恐らくそれも文字面から受けるイメージかもしれませんが、終助詞の「ね」を考えの主張と捉え、「ベイビーが俺のハートに火をつけた」を感想の趣旨と捉えてしまいそうになるわけです。

しかし子安氏は逆に「いいね」を噛み締めて「ベイビー」「俺のハートに火をつけたぜ」を発します。これにより終助詞の「ね」は詠嘆の意となり、「ベイビー」は名付け・呼び掛けとなり、そのうえで「俺のハートに火をつけた」ことを相手に告白するわけです。

「ベイビー」で注意を引いて、何を言うのか人々の注目を集めた上での決め台詞。自己演出とはこういうことか。勉強になります。

「いいね」はまだしも、この「ベイビー」の扱い方は私は一生思い付かないでしょう。「ベイビーにメロメロ」という文句は感想ではなく、相手に贈るものなんですね。いかに自分が伊達男から遠い存在か思い知らされます。
この扱い方ならば、「俺のハートに火をつけたぜ、ベイビー」と並び替えても成立します。THE・漢の告白です。しかもこの距離感で。絶対に届いていませんがそんなことはどうでもいいのです。彼は世界を革命しようとしているのですから。


WSのお知らせ

というわけで、この調子で連ねていくと終わりが見えないのでこの辺にします。
4つ中、3つがアニメーション作品になってしまった。声から受け取る情報量が濃いですから、そりゃそうなのかもしれませんが。

台詞を扱うということは、感覚やイメージでそれっぽく喋るということではなくて、極めて実際的な部分での立ち上げが大事ですが、その基礎を固めたうえの”遊び”の部分で「うまい!」「技あり!」みたいなものを体現出来るよう精進したい所存であります。

ところでこの記事において挙げさせて頂いた台詞の見事さは、その『言い方』ではなく『扱い方』であります。つまり真似ようと思って『言い方』を真似たり、『言い方』で何かを表現しようとすることが無理があるわけです。これって本当に説明するのも実践するのも難しいことでございます。気軽に参加出来て、わかりやすく教えてくれる楽しいとこないかなあ…。

…ええ!?ありまんがな!!!

というわけで、私が所属しております演劇団体COoMOoNOによるワークショップを10月に開催致します。
俳優志望の方じゃなくても、ご興味ある方はどなたでもご参加くださいませ。

ちなみに講師は主宰・伊集院もと子ですので、私のように個人的なフェティシズムに満ち満ちたよく分からんものではありません。すごくちゃんとしてます。ご安心ください。

そして、COoMOoNOの新作公演は、
渋谷ギャラリールデコ・3Fにて、12/13(水)~17(木)を予定
しております。
こちらにも是非ご期待ください。

それでは、衣替えのタイミングを必ず失敗するこの時期を共有する日本の同志たちよ、ごきげんよう。


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