「たまたま」という時間から「生活」を見つめ直す

「検索では届かない」をコンセプトした紙の雑誌『モノノメ』に寄せられた、『生きる意味への応答──民藝と〈ムジナの庭〉をめぐって』について論じてみたい。
筆者である鞍田崇さんは、民藝を「教科書的な伝統工芸としての枠組みを超えた、広がりのあるものとして捉え直したい」と考えている人である。

 本稿で、鞍田さんは物につきない民藝ならではの「かたち」を探っていく。
柳宗悦を引き、民藝における「用そのもの」を成す根幹は、「生活」そのものであると述べる。そして、フランスの精神科医ジャン・ウリが注目した「コレクティフ」というコンセプトから、鞍田さんは「たまたま」という言葉を抽出する。「コレクティフ」とは、個人の独自性を保ちながら無理なく全体に関わる状態であり、それは、停留所でバスを待っている人々の群れのようなものだという。バス停に、「たまたま」居合わせて人々が群れることは、それ自体に何の必然性もない出来事かもしれない。だが、日常とはそんな事柄の集積であると、鞍田さんはいう。

「たまたま」という言葉を選んだ理由を考えてみるために、
「たまたま」と「偶然」の比較研究を参照する。

「偶然」も「たまたま」も,話者が事態を認識したときのその心情を表すモダリティ表現だと考える.その違いは,「偶然」は思いも寄らぬことに遭遇した話者の驚きを表し,「たまたま」は話者が事態をさほど重要とみなしていないという話者の心的態度を表すものと考える。〈「たまたま」と「偶然」の比較研究  田岡 育恵〉

「たまたま」を使用する状況は「偶然」と比較して、より日常にありふれた「ほんのちょっとしたこと」であるといえる。さらに注目したいのは、「たまたま」は『広辞苑』でも『大辞泉』でも品詞は副詞のみであるが,「偶然」には副詞に加えて『広辞苑』では「名詞」,『大辞泉』では名詞と形容動詞の品詞も挙げられているのだ。つまり、「たまたま」は修飾語として「場」の『触媒』となるイメージを与える。一方、「偶然」は具体物=『物』として機能する場合もある。鞍田さんが、なぜ「偶然」ではなくて「たまたま」を選んだのか、その理由がここにある気がする。鞍田さんは、民藝の「用そのもの」から、一度〈『物』の用〉を分離し、〈『心』の用〉に「かたち」を与えたかったのではないだろうか。「偶然」では、具体物としてステレオタイプ化された『モノ』となり、『心』を置き去りにして一人歩きしてしまうのかもしれない。なぜなら、「具体物=名詞」として認識されてしまえば「検索というネットワーク」に「民藝印」を押されてしまうのだから。対して、神出鬼没な「たまたま」は「検索では見つからない」


最後に、何気ない日常の「時間」と「生活」から連想された一冊を紹介したい。
医学博士であり合気道家である佐藤友亮さんが、昨年に刊行した『身体的生活』である。

人間の下す判断には〈無時間的〉判断と〈有時間的〉判断があると、佐藤さんは述べる。〈無時間的〉判断とは、電卓で計算を行うように、判断の根拠となる情報を利用してベストの結論を出そうとすることである。対して〈有時間的〉判断とは、人生における判断や決断とその後の生活を一つのまとまりとして捉えるものだ。実現するには、取捨選択の結果を柔軟に受け入れる巧みな解釈力が必要となる。もちろん〈無時間的〉判断が全て悪いとは思わない。「ネットワークへの常時接続が日常」となった現代ではむしろ自然である。しかし、無自覚であれば「民藝印」をブランド消費するように「物」の表層部分しか眺めることが出来ない。佐藤さんは言う、「身体感覚や感情は、外部からの入力があってはじめて形成されるリアクションなので、外部からの到来を受け入れる風通しの良さと、身体の内側から生まれる感覚を尊重する繊細さの両方が必要である。」ここに鞍田さんと佐藤さんのお二人が各々の視点から同じことを述べていることが伺える。〈有時間的〉判断とは、「たまたま」そこにあるものを受け入れることでもあるのだ。「時間」とは主観的なものであるが、自ら「つくる」ものではない。それは、おぼろげながら自ら「かたち」を見出すものなのかもしれない。



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