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おでん屋奇譚5

水島三郎は今日も店の裏の青いポリバケツの前で
かがむと、案の定といった按配で
首を傾げるのだった。

「また落ちてるよ。どうしたもんかなあ?」
独りごちながら、白いエプロンに
無造作にしまい込む。
チャリンと小気味よい音がした。

日常の小さい謎に気づいてしまった。

サブローベーカリー
なんとも捻りのない名前のパン屋。
大通りから一本外れたいわゆる「地域密着型」の
たたずまいは、黙っていても
パン好きの触手を刺激するみたいだ。
天然酵母を使っていて、安心感のある
美味しいパンは、マンション族の若い奥様に人気で
朝から、トングをカチカチする音が
狭い店内に響き渡って、体を横にしないと
通路を通れないほどの盛況ぶりだ。

水島はサブローベーカリーの店主。
評判を聞きつけた雑誌の取材を
「パンの写真など撮っても味は分からんだろう。」
「パン作り以外の仕事はしたくない。」
と、とりつく島もなく断り続けている
職人気質の男だ。

エプロンのポケットに手を入れたまま
首を伸ばして、溜息をつくと

「ニィニィ、ニィニィ」と

可愛らしい声が聞こえてきた。

サブローの目尻が
勢い下がり出す。
彼だけが知る、最後のお客さんが
今日も来た。

サブローがにこやかに目を落とすと
足元に8の字を描きながら、3匹の真っ黒い子猫が
絡み付いてくる。

「ニィニィ、ニィ」

いつも突然に現れるこの子猫たち
一体どこの猫なのだろう?
野良猫なのか?
毛並みが良いので、そうは思えないのだが。

子供と動物にはすこぶる優しい、職人は

「お腹減ってるか?」とポジティブな返事を期待するように
足元に話し掛ける。
3匹とも真っ黒いので、まとめてクロと呼んでいる。
サブローとクロ 秘密の関係だ。

早速、別に取ってあったパンを細かく契ると
クロに与えた。不器用に咀嚼する姿に
一日の疲れが癒えていく気がする。
「今日はツナパンだぞ、クロ。」
「そっちのクロが食べてるのは、コーンパンだ。」

人差し指でクロの額をつつく。


「お前達さあ、先月から毎日来てくれてるよなぁ。
あのさ、ちょうど同じ頃から閉店後にゴミを捨てに
来ると、決まって小銭が落ちてるんだが。
不思議だよな。近所の猫好きおばさんかな?
でも、お前達が来ること、知ってる人はいないはずだし・・・。」

不思議で少々気味が悪い。
猫に話し掛けている、自分に気づいて
ちょっと恥ずかしくなった。

「ニィニィ・・・ッシュン」

「あはははは、風邪引くなよぅ。」

「さてと」腰を叩いて立ち上がると
裏口棚に置いてある、トマトソースの空き缶に、先ほど拾った
小銭を入れた。チャリンと小気味よい音がした。

店の電気はすべて消え
サブローベーカリーのシャッターは
完全に閉じた。

風が冷たく、歌っている。

入れ替わりに
通りを挟んだ向かい側の店に
火が灯る。

左から右に流れる字体で
「おでん」
の三文字だ。

グツグツと音を立てて透明度のある
出汁をひとすすり。
今日も満足のいく出来栄えに
何気なくうなずいて、湯気に目をしばたいた。
牧村はおでん種を箸で転がす。

厚揚げを返しながら
「今日あたり洋介が来るんだね。」
と誰かと会話するように、独り言をつぶやいていた。

一週間前の霧雨の日
尾上洋介という大学生が
店の前で派手に転んだ。
幸い、大した怪我ではなかった。
なんとなく、そうなんとなく
彼が気に入ったので、おでんをご馳走してあげた。

「ちょっと寂しそうだったというか
なんだか歳の割には、ずいぶん落ち着いた奴だったね。」

グツグツと美味しそうな音を立てる
おでんに注意を配りながら
牧村は今日も客待ちをしている。

暖簾が内側にゆらりと揺れて
今日一人目のお客さんが顔を出した。

「いらっしゃい。」
「こんばんは、大将。」

グレンチェックのコートの襟を
立たせた中年紳士が、うれしそうに席に坐った。

「うぅぅ寒いね、大将、熱燗あるかな?」
「はいよ。」

どこにでもあるけど
何故か心が温まる風景が
この屋台には絶えない。

「えっとそうだな、大根とちくわ頂戴。」
「はいよう。」

素早く種を小皿に取ると
出汁をひと掛けして
熱燗と同時に出す。鮮やかな手付きに
一瞬の輝きが交差する。

「お、大将って、意外とお洒落なんだねえ。」
会社の要職に就いているであろう、紳士は
その光を見逃さなかった。

牧村は少し笑うだけで
左手首を、少し隠す仕草をした。

おでんを肴に、酒をチビリと飲ると
紳士はどうやらいい気分になってきたらしい。
最初は、若い部下の態度がなっとらんという話や
会社への不満をこぼしていたで
相槌を打つ程度でよかったのだが
それに飽き始めた紳士は
饒舌にもこんなことを言い始めた。

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