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おでん屋奇譚1

自転車のギアは今日も軋んでいた。
真冬特有の凛とした空気を切り裂いて
尾上洋介は家路を急ぐ。

次の講義までにまとめなくてはならない課題が
山積みだ。時間に追われるのは
仕方がないにしても
落ち着いて、自転車も漕げない
自分に、いささか自嘲気味の
笑いさえ浮かべて
カーブにさしかかった。

自慢のママチャリテクニック。
ママチャリテクニック
ママ・・・・

午後から降っていた乾いた霧雨が
彼の自信を見事に打ち砕いた

気がつくと天を仰いでいた。
垂れ込めた重々しい雲の下腹を
電話局のアンテナが突き刺しているのを見て
ようやく自分が、自転車で
転んだと自覚した。

右足を派手に打ったらしい
鈍痛が今ごろになってやってくる。
なぜだか急におかしさが込み上げてきて


ニヤリと口角が上がった。

電話局のアンテナの方向から
巨大な手のひら。
豪奢な金のブレスレットをつけた
手首が顔の前でヒラヒラと
手を振っていた。

「大丈夫かい?兄ちゃ・・・ あれ
笑ってるんかい?」

「あ、はい 笑ってるんで大丈夫だと思います。」仰向けのまま答えた。

「そっか、また派手なコーナーリングだったねえ、右足動く?」

そう言われると同時に、助け起こされた。
もう少し顔に、冷たい雨を感じていたかったけど
人の好意を無駄にしたら、罰が当たる。

「派手にコケたみたいですね、その割には、右足を擦り剥いただけみたいです。
ジーンズ履いていて助かった。」

「そっかそっか。歩けるなら大丈夫だ。男だもんな。」
小学生に諭すみたいな言い方に
またおかしさが込み上げた。

プッと笑うと
おじさんもつられたように笑っている。

おじさんとの出会いは
こんな風に、文字通り
石に躓くようだった。

「いやあ吃驚したよ。とにかく
こんなとことに違法駐輪されちゃ
困るからさ、どかそうか?」

「あ、はいご迷惑・・・痛った」
違法駐輪とはまた酷い表現だなあ

「あらら、兄ちゃんだいじょぶか?ほら、向うにどかしてあげるから。」

「すみません。」

右足をやや引きずりながら、洋介は濡れた路面の端に寄って
右ハンドルの角度と後輪の片側が
擦れてしまった、愛車のママチャリを
ひょいと片づける、おじさんを
眺めていた。

おじさんが言う。
「まだ痛いだろ?とにかく座りなよ」

座るって言ったって、どこに?
という疑問符が浮かぶと同時に

おじさんは右手の親指で
屋台を指していた。
こんな処に屋台なんてあったんだ。
知らなかったな・・・。

そぼ降る雨に。しんとあたりを照らしている
温かい光と、微かに暖簾の隙間から沸き立つ湯気。
屋台には左から右に流れそうな
字体で「おでん」とかいてある。

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