道具について

 最近、キーボードを買った。文章を書くのに気持ちよくタイピングできたほうが捗ると思ったから。カチカチと小気味よくなるキーボードを買った。とても満足した。執筆の欲が高まった。

 最近、ノートとペンを買った。メモを取るのに自分が気に入った文房具を使った方がよく書けるからと思ったから。サラサラと滑るペンとノートを買った。とても満足した。また執筆の欲が高まった。

 高まった欲はどうなるのだろうか。確かにそこにある。けれど、実を結ばない。道具があっても宛先がない。

 最近、疲れやすくなってしまって、一旦全てをやめてみた。全てをやめてみて見えたのは、転がっている無数の道具たち。道具は私を駆り立てる。目的なき道具は私をその形態へと変形させようと必死だ。キーボードは私にそれを叩かせる。ノートとペンは私の指を誘惑する。

 ある朝のこと、ティーカップは私を紅茶へと方向づけ、ティーバックへと目をやる。あぁ、お湯を沸かさなきゃ、ケトルに手を伸ばす。ケトルは空っぽだ。洗面所の蛇口へ。蛇口を捻る。水が溜まっていくとケトルは重くなっていく。重くなっていくケトルに合わせて力が入る腕。ケトルを再度セットしてお湯を沸かす。お湯が沸く。ティーバックをカップに入れ、お湯を注ぐ。ケトルが少し下手に傾いて、熱湯が滴る。腕を伝う熱湯。熱い、けれど、離せない。

 ある朝のこと、私は紅茶を飲む。

 意志なんてものは最初のほんの一瞬で、あとはあれよあれよと道具たちがやってきて、次の瞬間には意志が叶っている。重要なのは意志を持つことか?意志が叶うことか?それとも、意志叶うように道具が揃っていることが重要か?

 道具はそれほど重要ではないのだろうか。意志が道具を従えるのだろうか。道具が意志をつくるのだろうか。ティーカップが目に入ることが重要か。ティーカップを目に入れる「私」が重要か。これは些細なことなのだろうか。

 では、目的なき道具はどうだろう。目的なき道具は静かだろうか。それは眠っているだろうか。主人の呼びかけを待っているだろうか。目的という活力を待っているだろうか。でも、確かに道具はわたしに呼びかける。いや、命令とでもいうべきか。私が目的を持っていなくとも。その呼びかけは、極めて微弱だから無視することもできる。抗うこともできる。仮に、「そうしたから」といって、「ものに従った」とも言えないだろう。けれども、ものは確かに呼びかけてはこないだろうか。次第に声は反響して、目的なき連鎖の聖歌隊にはなっていないだろうか。その時私は眠っているのだろうか。目覚めているのだろうか。

 道具は常に目覚めて、歌を歌ってはいないだろうか。私はそれを聞いている。目的があるときは、意志があるときは、その工事音のような音の大きさにかき消されて、道具の歌は聞こえない。目的は大きな音を立てて、道具を従えているかのように見える。

 道具について、それは眠っているだろうか。目的なき道具の世界に、道具はただあるだけだろうか。

 けれど私の欲望は、その歌をきいて、実を結ぶだろうか。その欲望は形になるだろうか。ちょうど、型に入れないでケーキを焼いて、丸く焼けるか、そんなところではなかろうか。ケーキとも言えない代物がそこにはあるのか?それとも、それは、ケーキと呼びうるか。

 静かな歌声は心地よくても、私を眠りに誘う一方ではないだろうか。意志は眠っていても働きうるか。起きていたって、はたらいているか怪しいのに!

 目的なき意志はありうるか。目指す場所なくして、エンジンをふかすことに意味があるのか。いや、エンジンを入れるだろうか、目的地もないのに。

 目的なき道具とはなんだろうか。そこに意志はないだろう。意志は道具を従わせる。目的なき道具を眺めるとき、私は全く道具をまじまじと見つめる羽目になりそうだ。きっと目的なき道具は気味が悪いだろう。おそらく私は、それに用途を見出さずにはいられない。

 用途とはなんだろうか。それはおそらく、目的にしたがっているところの道具そのもの、だから用途は道具そのものでもある。

 だけれど、私が見出す用途が用意されたものであるとは限らない。道具は確かにデザインされている。だから企図されている用途があるはずである。企図された用途にしか使えない道具がある一方、大なり小なり企図されていない用途で使える道具がある。企図された用途で使うことを「従う」というならば、企図されていない用途で道具を使うことはなんと言うべきか。道具の呼びかけは、こう考えると、一体なんだったのか。大合唱とハミングはその意気込みから異なるように、呼びかけにも種類があるのか?

 目的に応じて、道具はその姿を変えるのか。そしたら、目的なき道具は、裸の道具を意味するか、あるいは、そんなものは「ない」と言い切ってもいいのかもしれない。けれど、道具は私に呼びかけている。企図させようと狙っている。無数に転がる目的なき道具、それは罠である。何かの弾みに私の行為を構成し始める。呼びかけは、企図を伝えようとする歌声ではない。企図をさせるための呻き声なのである。だから私たちは欲望をその呼びかけで満たすことはない。むしろ不快にさえなるだろう。なぜなら、そこに目的はなく、ただただ、企図を待ち望む道具が転がっているのだから。用途は私たちが見出さなければならない。だけれど、それは、労力がいる。だから、道具の目的に従う。「従う」のである。

 だから大抵、目的なき道具に囲まれれば、私たちの行為は規定されてしまうのではないか。そうでなければ、「お気に入りの道具」なんてものはなぜ必要になりえようか。従うときに、せめて心地よく眠りたいからではなかろうか。道具は、私たちを誘う。それに抵抗するのは労力がいる。だから、従うという選択肢を取る。従うという選択肢を取る以上、せめて心地よく従える道具を。

 従うことは悪いことであろうか。特段、あらかじめ企図された道具の目的に従うことは悪いことであろうか。むしろ従わないことの方が稀有で、奇妙ではなかろうか。まさに現代アートが連想されよう。けれど、私たちが用意に道具の企図に従いうることを悪用することはできるだろう。だから、道具の呼びかけに従うことが悪いことになることはありえよう。ここになんら意味のないように思われる目的なき道具に目をむける意味はなかろうか。呼びかけがどれほどのものか、知る必要はなかろうか。あらかじめ用意された企図は、どれほど私の目的を変容させているか、知る必要はなかろうか。次に、もしその企図があまり好ましいものでなければ、私はそれを変容できるかもしれない。道具は目的を目指すためのものであって、目的そのものでないのだから、私はそれを逆手に取ることもできるのではないか。新しい用途を見出すのだ。私はそうして再び道具を従える。

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