亜紀菩薩、八代亜紀の崇高性について

 先週の金曜日、2022年10月21日に友達に誘われてパリの日本文化会館になんと八代亜紀を聴きに行って来ました。僕を昔から知っている人からしたら、洋楽しか聞かない―特に大人になってからはあんちょくな「解決」なんて欺瞞だとシェーンベルクだのを聴いたり、バッハこそが人間の心なんて下らんものを排除した音楽だ!と息まいていて—のを知っているので意外と思われるかもしれませんが、実は幼稚園の頃から彼女のことは好きでした。 
 彼女は僕が年長組であった昭和46年にデビューしたはず。その年は新人の豊作の年でその後数年間テレビに君臨する天地真理、沖縄復帰を予告するように南国の花の甘い香りを持ってきたような南沙織、抜群の歌唱力の小柳ルミ子、デビューは前年だが甘酸っぱい夏の(失)恋というその後テンプレートになる主題を個性的に歌って大ヒットした平山美紀らが綺羅星の如く輝いていました。幼児だったぼくはアイドルと本格的な歌手の区別がつかなかったからだと思いますが、その中で―といっても僕の記憶もその数年後のことも混ざっていると思いますが―飛び切り美しく、歌も他の人たちと比べれば明るいものではないがとてつもなくうまい人がなぜ他の人のように人気がないのか、と不思議でしようがありませんでした。
 その後大人になってスポーツ新聞の芸能版記者が書いた回顧録で淡谷のり子センセイに「不潔」と嫌われて冷遇されていたことを知ったが、僕自身も―「も」というべきか悩むが―子供の頃、なぜか八代亜紀の年齢は42歳と思い込んでいて、紅白歌合戦でだったと思うが年齢が20代の前半とわかると、当時若さで売っている歌手たちとさほど歳が変わらないことにびっくりすると同時に彼女のヴェテラン然として堂々と歌いっぷりに子供ながら感心したものでした。
 なぜ5、6歳のガキをも魅了しえたかと先週の金曜日の素晴らしいショーを見て納得したのですが、その美貌はもちろんのこと、それは彼女は僕一人だけのために歌っているという思いにさせてくれるからだと確信しました。
 演歌は、ウンチクかませてもらいますと、1880年代(明治十年代)に自由民権運動のさなか異議申し立てのため、その申し立てが民衆へ伝わりやすいようにするため歌われた「説のための」が発祥と言われています。つまりそもそも演歌はその始まりから民衆特に農村における日常を歌っていたのでした。その後さまざまな変遷を経て1960年代の後半から演歌はその独自の安定した人気を持った位置を獲得します。それはちょうど日本の高度成長期にあたり、人々が地方から都会に押し寄せ、今までの生活習慣から離れて西洋式の都市型生活に変わっていく、いわゆる地方の伝統の崩壊と都会での孤独の誕生の時代であり、演歌はそこで生きる慰みと機能したのでした。
 舌足らずに精神分析用語を使わせてもらうと演歌が惹起するのはラカンのいう対象aではないでしょうか。つまり私たちは普通に生きているときに感じるもどかしさ、ある種の欠如感、それを充填、補填するもの―お金、性、団結など―を探し求めます。しかしもし急激な社会の変化で実際失われたもの―日本の義理人情、田舎―が人に現実的に多大なる空虚感をあたえたならばそれを生きる上での失われたものとして歌い上げる演歌を聞くことによってあたかも戻ってくるように感じるならば、それこそ幸福な充足感を感じたことでしょう。欠けた円環をまた完全なものに修復してくれるラカンの対象a。そして日々不全感を抱えている私たちを補填してくれるのが演歌だったのです。つまり演歌は言ってみれば永遠に失われたもの―これが対象aの定義です—として、私たちの前に現れ、つかのまの間の充足感を与えてくれたのです。自身の欠如を充填するものと欲望されるが永遠に手に入らないもの。だからこそみんなが切望する。それが演歌の神髄、もっとエラソーに言うならば社会的機能だったし、今でも少なからずそうなのではないでしょうか。
 北島三郎は―彼は農村ではなく漁村を歌うが―人懐っこい笑顔で仁義の狭間に悩む口下手の北の男―すなわち大多数の日本人―を励まし、都はるみは歯切れのいいこぶしで田舎出身の人たち―すなわち大多数の日本人―を元気づけたのでした。彼らはすべて失われていった美しい日本の田舎という原型をもの悲しげにそして時には空威張りして歌い上げたのでした。
 ところが八代亜紀はそれとは違う。八代亜紀は大多数の人に対してというより今ここのワタシに向かって歌っている気にさせてくれるのです。例えば『舟唄』は男がいささか自分勝手に自分の酒の飲み方、女性の好みを独白していて、それを聴いて失われた美しい田舎の日本への郷愁、あるいはかつての失われた恋への哀愁を共有するというより、目の前で優しい笑顔で静かに男の寂しさをこちらに向かって代弁しているように聞こえます。そして心の叫びのようなインテリリュード。また次の年の1980年にレコード大賞をとった『雨の慕情』には社会性も周りへの配慮も一切なく恋人に会えるようにと雨よ降れ、とエゴティスティックに歌う。目の前でこのワタシにささやくように歌うからこそ自分勝手な訴えを切実な心の叫びと聞くことができるのだと思います。もちろん長い職業歌手としてのキャリアで前述した演歌の定型と言える―望郷、失恋―歌もたくさん歌っていますが、でも八代亜紀の魅力とは今ここでワタシのためだけに歌っているという気にしてくれるところではないでしょうか。渋谷陽一がどこかで使っていた表現を借りると、彼女の歌とはよりパーソナルな一対一のいささか閉鎖的な肌ざわりを持ったコミュニケイションなのです。
 じゃあ、このパーソナルな一対一の肌ざわりを持ったコミュニケイションとはどういうことなのか。それは美しい共同体、悲しい失恋を聞くことによって聞き手が慰められたり、逆にこちらが愛でたりする、安心する分かりやすい型を持ったものではなく、むしろこの分かりやすさを超えて気持ちを揺さぶるもの、あとになって振り返ってみると揺さぶられた自分にちょっと恥ずかしくなるものなのです。彼女のハスキーな声はたんに心地よい美しいものではなく―どちらかというとなく通常の意味で美しいとは言えない―、あたふたと不安にさせる大袈裟にいえば暴力的にこっちの感情を掻き立てる声だと思うのです。だからこそ聞き手は今ここでワタシだけに歌っているという気になってしまう。八代亜紀の歌はカントがいう美しいものに対比する崇高なものなのだ、としったかぶった言い方をしておきましょうか。そして「不潔」と言い放った淡谷のり子はこの八代亜紀の不穏な魅力―崇高性―をその鋭い感性で見抜いていたのではないでしょうか。
 八代亜紀はキャリアの初期に映画『トラック野郎』に出演しその主題歌も歌いました。驚くことに彼女と実際のトラック野郎たちの交流はそこで終わらず、ファンとしての彼らを大切にしており、彼らの中では『亜紀菩薩』と拝める人たちもいるようです。トラック野郎たちが乗るいわゆるデコトラはいかなる意味でも美しくありません。むしろ醜悪といってもいい。歌舞伎や能など公式な日本文化を賛美することは簡単です。しかし通常の審美眼を裏切るデコトラの写真をコンサートの背景に投影し日本の伝統とシレっとフランスの観客に説明する彼女に私たちは戸惑いながらもそこに崇高性を見出すのです。
 彼女を歌の世界に導いたのは子供の頃に父親が買ってくれたジュリー・ロンドン(Julie London)のレコードだったそうです。特にFly Me to the Moonに惹かれたそうで、実際ショーでも歌ってくれました。確かに声がハスキーなところはジュリー・ロンドンに似ていますが、ジュリー・ロンドンのFly Me to the Moonは60年代から流行ったボサノバ調に編曲されたやつで、非常にきびきびした感じでいかにも景気がいい60年代のニューヨークのStork Clubなどのナイトクラブで聞くことができたようなものですが、八代亜紀のはどちらかというとIn Other Wordsという題名であった50年代の情感たっぷりなヴァージョンに近いような気がします。むしろ「ニューヨークのため息(sigh of New York)」と呼ばれたヘレン・メリル(Helen Merrill)に似ているような気がするのですが(もっとも彼女のはボサノバ調ですが)。いつもの八代亜紀で目の前で迫ってきます。
 それにしても八代亜紀は驚くほど変わりません。かつてデビュー当時42歳と幼児の僕は勘違いしましたが、この間のショーでも56歳の初老の僕だけに42歳のように若くかつ成熟した姿で歌ってくれました。

※これを書くために演歌に関しての記述はChristine R. Yano, Tears of Longing, Nostalgia and the Nation in Japanese Popular Song, Harvard University Asia Center, 2002. を参考にしました。 


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