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神さまと生きるために知ってほしいこと 9章 聖書を読んでみよう

1. あなたは聖書を読んだことがありますか? 

神さまはどんなことを考えているのでしょう?
神さまの意思を、はっきり知ってみたいと思いませんか?

その方法があります。
ひとつは祈ること。
そしてもうひとつは、神さまの言葉、つまり聖書を知ることです。

聖書は、神さまのことばです。

私たちは聖書を通して神さまについて知り、神さまの心を知ることができるのです。
聖書にはこのように書かれています。

「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。2(テモテ 3:16)」

聖書はすべて、神の霊感によって書かれていると、ここには書かれています。
聖書を実際に記したのはもちろん人間ですが、神さまが著者たちに霊感(インスピレーション)を与え、著者たちは神さまの導きによって聖書を書いたということです。

そして、神さまの霊感によって書かれたものであるからこそ、私たちは聖書から学び、それに従って生きることによって、神さまの心に近づくことができるのです。

今回は、神さまのことばである聖書を読むことについて学んでいきたいと思います。

<聖書という書物>
聖書は、1000年以上の年月をかけ、およそ40人の人々によって書かれた書物を合わせたものです。
プロテスタントの教会で使われている聖書は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻、合わせて66巻の書物によって成り立っています。

その内容は、律法の書、歴史書、小説、詩、知恵の言葉、戯曲、預言書、福音書、手紙、黙示録という様々な形で書かれています。
旧約聖書はヘブル語と一部がアラム語、新約聖書は古代ギリシア語で書かれていて、現在2400カ国語の言語に翻訳されています。

聖書は三万部もの写本が発見されおり、古代に記された書物としてはけた違いに多く、私たちが読んでいる聖書の内容は、限りなく原文に近いということがわかります。

私たちが読んでいる聖書には章や節が付けられていますが、これは活版印刷のために便宜上付けられたものであって、後の時代に作られたもので、しっかりと考えられて章や節に分けた訳ではありません。

聖書のすごいところは、この66巻の聖書が、1000年以上の年月をかけて、40人もの人々によって書かれているにも関わらず、そこにはちゃんと、神さまによる救いの約束と成就という一本の線が通っていることです。
こんな書物は、他にありません。
この事実ひとつを取り上げたでも、人間わざでは不可能な奇跡だと言えるでしょう。


2.どうやって聖書を読んでいけばよいでしょうか?

① 聖書の全体像をとらえながら読む

聖書の言葉を部分的に読んで理解するのではなく、全体像をとらえる必要があります。
全体像を把握していないと、メッセージの受け取り方を間違えてしまう可能性があります。
例えば、律法だけを取り上げて読むなら、聖書は従うことが恐ろしく難しいルールにしかなりません。

律法をがんばって守ろうとすれば、キリスト教は単なる宗教のひとつとなってしまうのです。(実際に、多くのクリスチャンがそのように聖書を理解してしまっています。)
しかし、聖書全体で語られているテーマを土台にして律法を理解しようとすると、私たちが律法をどういうものとして受け取られるべきかということが分かってくるでしょう。(簡単ではありませんが…)

② 登場人物の罪や失敗から学ぶ

私たちがやってしまいがちなもう一つのことは、誰か好きな登場人物を見つけて、それを自分の模範にしようとすることです。

「僕はダビデが好きなので、ダビデのような人になろう!」と思ってしまうのです。

小説や普通の歴史書などであればそれも一つの読み方だと思いますが、聖書の場合はあまり良い読み方ではありません。
聖書の中で模範にするべき登場人物は、イエスさま以外ひとりもいないからです。
聖書に出てくる人たちは、みんな罪人なので、模範にするべき理想の人はいません。

私たちはむしろ、彼らの罪、弱点から自分の姿を見出すべきです。
そもそも神さまは、私たち一人一人を違う性質をもった存在として創っているのですから、他の人のマネをしても良いことはないでしょう。

③ 聖書のテーマとは?

聖書の全体像で語られている重要なテーマは、3つに集約することができます。

1.神の愛
神さまは私たちを愛しています。
神さまがあらゆる方法で人と関わり、救おうとしている姿を、聖書の中で見ることができます。

2.人の罪
「私たちが神様から離れてしまったこと。」それが罪の根源です。
そのために、私たちは神さまが創られたようには生きようとしないし、生きることができない存在となってしまいました。
その罪が起こす様々な問題が、聖書の中では描かれています。
そこにあるのは人の愚かさであり、人間という存在の絶望です。
しかしそれを補い、包み込む神さまの愛と救いの話へと繋がっていくものなのです。

3.神からの救いの道 (イエス・キリスト)
人は救いを必要としているというのが、聖書の中で描かれている一つのテーマです。
その救いの道が、神のひとり子による罪の贖いなのです。

「イエス様が十字架にかかることによって、私たちに救いの道が開かれた」
それが、聖書全体を通して(もちろん旧約にも)描かれています。
救い主とは誰か、いつ、どのようにして地上に来て、何をするのかを描くことが、聖書の大きな目的のひとつです。

④ へブル文化とヘレニズム文化

聖書は、二つの文化の影響を受けています。へブル文化と、ヘレニズム文化です。
へブル文化は、聖書の中心となる民族であるへブル人(イスラエル人)の文化です。
へブル文化は東洋的な文化と言ってよいでしょう。
その表現方法は、情緒的であり、抽象的であり、象徴的で、絵画的です。

一方でヘレニズム文化とは、新約聖書の時代にイスラエルを支配していたローマ帝国にも広がっていた、ギリシア文化のことです。
ですから、ヘレニズム文化は西洋的な文化です。
その表現方法は、現実的であり、具体的であり、実際的で、論理的です。

日本の文化も本来は東洋的な文化ですが、それを歌の中に見る事ができます。
盆踊りなどで有名な、“炭坑節”の歌詞を見てみましょう。

月が出た出た 月が出た
(あ ヨイヨイ)
三池炭坑の 上に出た
あんまり煙突が 高いので
さぞやお月さん けむたかろ
(サノ ヨイヨイ)

この歌詞から、三池炭鉱の様子を豊かにイメージすることができるのではないでしょうか?

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しかしこの歌詞は、決して現実的ではありません。
煙突がどれだけ高かろうと、実際の月と地球の距離を考えたら、月に煙が届くはずはないからです。
そもそも、月は煙たがったりしません (笑) 。
これが、東洋的な文化による情景の描写であり、へブル文化の影響下で書かれている聖書の大部分は、このように情緒的、抽象的、象徴的、絵画的な表現をされているのです。

炭坑節を西洋文化的に表現するとこのようになります。

三池炭坑の上に、月が出ました。
しかし30mの高さの煙突からの大量の煙によって、月がほとんど隠れています。

正確かもしれませんが、情緒も何もあったものではありませんね。

現代の日本は、西洋文化の影響を受けているため、聖書を読む時に西洋文化的な読み方をしてしまいがちです。
すると、聖書の言葉を誤解したり、「事実と違う」ということが気になって信じられなくなってしまうこともあります。

とは言え、聖書の中には、ヘレニズム文化的に書かれているものもあります。
それは、パウロ書簡(パウロが様々な教会に送った手紙)です。
パウロの手紙は、読むのが難しく感じる人も多いですが、とても論理的で実際的です。

異邦人であるルカが、異邦人のために書いたルカの福音書も若干ヘレニズム的ですが、ルカが実際に見たことではなく、他の弟子たちから聞いたことをまとめたものなので、ヘブル文化の影響も色濃く残っています。

ヘブル(東洋)文化的に理解すると、どういう言葉として受け取れるでしょうか?

• 他にも、雅歌をヘレニズム的な読み方で解釈し、絵で描いてみるとおもしろいです。
• この観点から考えると、創世記に記されている天地創造は、どの様に考える事ができるでしょうか?

この絵は、聖書の雅歌に記されている言葉を、文字通りに絵にしたものです。

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本来は、乙女の美しさを称えることばなのですが、書かれている言葉を文字通りに受け取って絵で表現すると、化け物のような姿になってしまいます。

「聖書のことばは字義どおりに読んで受け取らなければならない」と言われますが、「字義通り」というのは、必ずしも「文字通り」だとは限らないことがわかりますね(笑)。
いつでも、文脈を読み取って理解する必要があるのです。


3. 通読とディボーション

神さまのことばは、「霊的な食事」とも言われるものです。
私たちが毎日食事をするように、神さまの言葉に毎日触れることが、私たちの神さまとの関係を深め、信仰を成長させていきます。

通読とは、聖書を読み進めて全部読むことです。
神さまの言葉に毎日触れ、聖書の全体像を理解するためにはとてもいい方法です。
ムリのないペースで、意味がわからなかったとしても、とにかく読み進めることを考えましょう。
聖書は全部で1192章ありますので、毎日4章ずつ読めば1年足らずで全部読むことができます。

ディボーションというのは、神さまとのふたりきりの時間を味わうことです。
祈りと聖書の言葉を通して、神さまとの時間を毎日過ごしてください。

初心者の方には、いくつかの出版社からディボーションガイドという雑誌が発行されているので、それを使いながらディボーションをすると、どのように聖書の言葉を受け取り、祈ったらいいのか学ぶことができます。

でも、実はディボーションガイドを使ったディボーションは、個人的にあまりお勧めしたくありません。
ディボーションガイドを使うと、ディボーションではなく勉強になってしまいがちであり、聖書のことばから直接神様の声を聞く力を奪ってしまう傾向があるからです。

私がお勧めしたいのは、通読をしながら、以下の方法でディボーションをする事です。

1.  心を静めて、神さまと祈りの時を持つ。
2.  「聖書のことばを通して語りかけて下さい。」と祈ってから聖書を読む。
3.  読み終わったら黙想し、一番心に留まった段落をもう一度読んでみる。
4.  何度か読み返しながら黙想し、神さまが語ろうとしているメッセージを受け取る。
5.  必要であれば、ネットや注解所、聖書のガイドなどを使って、その個所の解釈を調べてみる。
6.  神さまからのメッセージを受け取り、何をどのようにしたらよいか計画し、書き記す。
7.  神さまに従って、受け取ったメッセージをなるべく早い内に実行に移す。

4. スモールグループと分かち合い

ひとりで聖書を読み進め、通読を続けるのが難しいと感じる人もいます。
できれば、2~3人のスモールグループで同じ聖書個所を読み進めながら、受け止めたメッセージの分かち合いをするといいでしょう。

以下のガイドに従って、スモールグループでの分かち合いをすることをお勧めします。

1. あまり人数が多くなると集まるのが難しくなるし、発言の機会も少なくなります。なるべく少人数(5~6人まで)にしましょう。
2. 互いの聖書理解を聞いて、参考にしましょう。
3. 同じ聖書個所でも、受け取るメッセージは人それぞれです。互いに受け取ったことに関して、批判したりしないようにしましょう。
4. 週に一度会い、どのようなメッセージを受け取って何をしたか、それによって何が起こったかということを分かち合いましょう。
5. 祈りの課題を出し合い、互いに祈り合いましょう。

5. 神さまに教えられたことを生活に適用し、実践する

多くのクリスチャンが、聖書を学ぶだけで満足してしまいます。
しかしそれでは、知識が蓄えられただけで人生は何も変わっていません。

聖書に詳しいクリスチャンが教会にはいます。
何十年も教会に通い、場合によっては神学校に行ったり、自分で研究してきたのでしょうが、聖書に詳しい人が必ずしも人格的に優れているとも限らないという現実があります。
その人が、現実を無視して聖書の勉強ばかりしてきたのなら、むしろ人格的に問題があるということもあるかもしれませんね。

「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。(Ⅱテモ 3:16)」

聖書に書かれていることを読み、理解し、神さまが何かを語ってくださったなら、私たちは神さまに従う必要があります。
これは、神さまに従って、実際に行動してみないとどうにもなりません。

本を読んだり、人から教わっただけで自転車に乗れるようになる人はいません。

同じように、聖書を読んだだけで人生が変わるなどということはありません。
私たちの人生が変わるためには、神さまに従い、生き方を変える必要があります。
大切なのは、神さまに教えられたことを生活に適用し、実践することなのです。

自分の部屋を出、教会を出て、人を赦し、愛しましょう。
誰かのために祈り、自分が抱えていたものを手放して委ねましょう。
罪を悔い改めて、誘惑から離れましょう。
いつでも神さまを信頼し、すべてのことを委ねていきましょう。
そのためには、神さまの力が不可欠です。

祈りをもって臨みましょう。 

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