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教会に所属せずにクリスチャンになる方法-3

「教会という場所に通う」あるいは、「教会という組織に所属する」というのではなく、自分自身が「教会として生きていく」クリスチャンとしての歩みは、前者のそれとは自ずと違うものになるでしょう。

いや、厳密に言えば「教会」として生きているクリスチャンが教会に通ったり、宗教に所属することもできるのですが、その逆は成り立たないということです。

つまり、通ったり組織に所属しているだけでは、「教会」として生きることには繋がらないというわけです。

ならば、どういう選択をするにしても、「教会」として生きていく方がいいよなぁと僕は思っています。
読者の皆さんはいかがでしょう?

では、「教会」として生きていくためには何が必要なのかという話をしていきます。

1.神との関係

まず欠かすことができないのは、神さまとの関係です。
多くの場合は「信仰」という言葉が用いられますが、「ただ信じていればいい」というような誤解を生んでしまう部分もありますので、敢えて「関係」という言葉を使います。

「信仰」によって救われると書いてあるではないかと思う方もいらっしゃると思いますが、問題なのはこの「信仰」の定義です。
聖書にはこのように書かれています。

あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。(ヤコブ 2:19)

新改訳聖書2017

ただ「信じる」だけなら、悪魔や悪霊でも神さまを信じているだろうというのです。
つまり、「存在を信じている」とか、「教理や教義の正しさを信じる」というのが求められている信仰ではないということです。
一方で、イエスさまは私たちが守るべきこととしてこのように言っています。

イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』(マルコ 12:29-30)

新改訳聖書2017

これは、聖書に何度も出てくる言葉であり、私たちに求められているのは神さまとの愛の関係性であるということです。

そう考えて聖書を読んでみると、神さまとの愛の関係は、聖書の最初(創世記)から最後(黙示録)まで描かれてきたことだということが分かります。

神さまとの関係を築いていくためにはイエス・キリストを知ることが不可欠なのですが、それについては別のシリーズでお話をしていますので、ぜひそちらをご覧ください。

2.他者との関係

イエス・キリストは、「神さまを愛する」ことの後で、第二の戒めも同じように大切だと述べています。

第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」(マルコ 12:31)

新改訳聖書2017

隣人とは、誰のことでしょう?
これは、私たちの周りにいる人たちのことです。
でも実際には、誰もが隣人と呼べるような関係にはなっているわけではありません。
私たちが誰の隣人となるかが問われているとも言えるでしょう。

では、「愛する」とはどうすることでしょうか?
厳密に言えばいろんなことが含まれていると思いますが、可能な限りシンプルに書くならば、相手に仕えるということではないかと思います。

私たちは、自分が生きるため、何かを得るため、満たされるためにはどんなことでもするものです。
自分のためではなく、相手のためにそのようにすることが仕えること、そして愛することです。

他にも、聖書では愛についてこのように書かれている個所があります。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。
すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。(Iコリント 13:4-8)

新改訳聖書2017

もちろん、隣人をそんな風に愛することが、簡単なことではありません。
でも、神さまは私たちをそんな風に愛してくださり、そのような愛を受けることを通して、隣人を愛することができるようになっていくのです。

3. 互いの関係

第三に、私たちは互いに愛することが求められます。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ 13:34)

新改訳聖書2017

これは、私たちクリスチャン同士が互いに愛し合うということです。
聖書には、「互いに」という言葉がたくさん出てきます。
「互いに教え、忠告し合い(コロサイ3:16)」「互いに従い合いなさい(エペソ5:21)」という言葉もあります。
聖書に記されている「教会」の姿は、まさにそのようなものでした。
この辺りの話は大切な事なので、改めて詳しくお話する回を設けますね。

さて、「互いに」という言葉がたくさん出てくるということは、少なくともそこに二人以上いることが前提となっていることがわかります。
私たちは「キリストのからだの一部」であり「神の家族」なのですから、当然と言えば当然のことですね。
クリスチャンとしての生き方は、一人では成り立たないのです。
聖書にはこのようにも書かれています。

ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。(ヘブル 10:25)

新改訳聖書2017

このシリーズを読み始めた方の中には、人間関係が面倒なので、一人でクリスチャンとして生きていく方法を求めて読み始めた方もいるかもしれません。
でも、残念ながら、クリスチャンは神さまとの関係だけでは生き続けることができないのです。
私たちが一つの内臓器官だけで生きていけないのと同じですね。
他の体の部分と繋がり、互いに働きを補完していくことなしには、生きていけないのです。

では、「やっぱり宗教組織としての教会に所属する必要があるのか」と言えば、そうではありません。
そもそも、「○○教団」や、「○○キリスト教会」とグループを分け、そこにだけ所属するという考え方は、実際には聖書が伝える教会観ではないのですから。

キリストに繋がる全てのクリスチャンが一つの「教会」です。
私たちがクリスチャンとして一人で生きるのではなく、他のクリスチャンと繋がりを持ち、互いに愛し合い、教え合い、助け合い、支え合うとき、私たちは「教会」として機能していくことができるのです。

次回は、このことについてもう少し掘り下げてみたいと思います。

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