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江戸城と皇居と二重橋

「皇居」といえばこの二重橋の風景です。

現在は、皇居の正門となっているのですが、江戸時代は江戸城「西の丸」の正門でした。

江戸城・西の丸

江戸城で将軍が日々過ごす場所は「本丸」なのに対し、「西の丸」は、隠居した将軍、すなわち、引退した先の将軍の居所でした。

東京メトロ地下鉄千代田線に「二重橋前」駅がありますが、西の丸はこの二重橋前が最寄りの駅となるのに対し、本丸は次の駅=「大手町」が最寄りの駅です。つまり、現代の地下鉄で一駅分、距離があるということで、江戸城の広さがよくわかります。

※ 本丸や西の丸のあるエリアを「内郭」と言われており江戸城の内堀内
にありました。江戸城は、二重の堀で守られており、外堀と内堀の間の空間を外郭と言い、現在の銀座や日本橋が外郭内に位置していました。外堀も含めると江戸城の城域は現在の千代田区全域と、中央区、台東区、港区の一部を含む広大なエリアでした。詳しくは、こちらを参照ください。

なぜ、西の丸が皇居なのか?

ここで、一つ疑問が出てきます。

江戸時代、最も格式が高いとされた「本丸」に、明治維新後、何故、明治天皇は本丸に入られず、西の丸に入られたのか?

それは明治天皇が江戸城に入られた時、江戸城本丸の建物は火事で焼失しており、「西の丸」の建物しか残っておらず、明治新政府は、選択の余地がなく、西の丸御殿を皇居とし、名を、江戸城から「東京城」に改称しました。

「江戸城を改め東京城とする」旨を布告した太政官(当時の行政府)の公式文書。
明治元年(1868)年10月13日発布。

参照:「変貌ー江戸から帝都そして首都へー」 国立公文書館
http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/henbou/contents/05.html


財政難に苦しむ明治新政府

明治維新の結果、一気に世の中が変わり、明治政府が権力を掌握したと考えがちですが、江戸幕府を倒したと言えども、初期の明治政府は、政治的にも財政的にも基盤は非常に弱いものでした。

そのため、外務省や大蔵省など各省庁も、旧大名家の屋敷後を再利用するなどし、江戸の都市機構をそのまま継承し活用していきました。

天皇の住まいもその例外ではなく、江戸城の遺構である西の丸を活用したわけです。

現在、そこにある建物が何故そこにあるのか。なかなか考えることはないですが、その観点で普段見慣れた町を歩くと、新たな発見があると思います。

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