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“アイコ“と日本人的価値観

突然ですが、みなさんは、いつ「じゃんけん」しますか?おそらく何か役割とか順番とかを決める時が多いかと思います。その場合、「引き分け」を意味する「あいこ」は不要ではないか?と疑問に思ったことはないでしょうか。例えば、西洋であれば、コイントスが一般的ですがその場合も、選択肢は「表」か「裏」かの2択です。

「あいこ」は何故、存在するのか?そもそも不要なのではないか?一度疑問を持つと思考の回廊から抜けれません。

お寺の鳥居

話は変わりますが、先日、目黒にある目黒不動(瀧泉寺)に行ってきました。そこは、1200年以上の歴史を誇る都内有数の寺院です。誰がどうみても「寺」なのですが、このお寺、長い階段を登った先、本堂の手前に立派な「鳥居」があります。

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目黒龍泉寺(目黒不動尊)の鳥居。一般的な鳥居と異なり鳥居の上に三角が付けられています。これは、神道の一派=山王一実神道に関連する鳥居で、東京であれば、赤坂の日枝神社が有名です。

鳥居は、ご承知の通り、一般的には「神社」に建てられる構造物で、神社=神道なので、宗教の異なる構造物が、仏教寺院に建てられている。なかなか世界的にみても、このような異教徒に寛容な施設はないのでは?と思います。

歴史を紐解くと、そもそも、「神社」と「寺」には、「神仏習合」の考えから、明治までは明確な区分がありませんでした。しかも、江戸時代には、寺が主催する宝くじや(一部の寺に限る)、芝居小屋、さらに寺社の周囲には門前町があり、宗教施設というよりも一大エンターテイメント施設の側面も強くありました。(大人の社交場="盛り場"も大きな寺社の近くに多く併設されていました)

つまり、そこが寺であろうが神社であろうが、そんな細かいことは昔の人々には「どうでもよく」、宗教的な空間よりも、みんなで楽しめるリクリエーション的空間であったと考えられます。

白黒はっきりつけないことの良さ

「寺なのに神社である鳥居に違和感がある」ことは、「鳥居は神社にあるべきだ!」の考えが深層心理に刷り込まれており、知らず知らずのうちに「神社とはかくあるべき」といった「べき」論が自分の中に確立されていたのではないかと思います。

「A」であるべきか「B」であるべきか、「A」をとったなら「B」を排除する。何事も白黒つけたがる「現代病」ですが、それに対し、元来日本人は、もっと他者や異なるモノ・価値観に寛容だったのかなと思います。

アイコの概念

再びじゃんけんのアイコ。

当初は、「絶対勝つ!」と思い、始めたじゃんけんも、「アイコ」が続くと自然と笑みが浮かび、もはや勝負なんてどうでも良くなった経験、皆さんもお持ちだと思います。

「アイコ」には、白黒はっきりつけたがらない日本人の「やさしさ・寛容さ」が表れていると言えるのではないでしょうか?


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