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サンダンスの儀式

 森の中、見上げると無数の星を抱いた空。木々の影が切り絵のように貼り付けられている。人としての孤独。しかし、生き物としてはあらゆる温かい繋がりに囲まれている。冷たさと温もりが、自分の心の違った深さに当てられる。炎の中で薪がパチンと爆ぜる。火が揺れるのに合わせて影が踊る。人間には聞こえない、音にならない音楽。自然のリズムに合わせて、森の中が静かに賑わっている。

「コーヒー、飲むだろう」
「ありがとうございます」

 焚き火の上で湯気を出していた金属製のポットに、向こう側から手が伸びる。欠けてヒビの入った黄色いマグカップにコーヒーが注がれる。男は真っ白な髪の毛をオールバックにして、優しげな顔付きに眼光は鋭い。赤いヘッドバンドをはめて、その後ろに鳥の羽が吊るされている。年齢は60歳前後だろう。しかし、その体は若々しく力に満ちていた。
「さて、聞かせてくれ。なぜここに来たんだ」

 僕はアメリカ・ミシガン州の森にいた。北米大陸の先住民であるインディアンと呼ばれる人々の土地。憧れの土地だ。高校生の頃、偶然手に取った本にインディアンの思想が記されていた。その言葉たちに触れ、美しい精神性に心を打たれた。人の心の、究極の洗練を見たような気がした。それ以来、彼らに関するたくさんの本を読んできた。そしてこの地を訪れることは、僕にとって最も大切な、胸に秘めた夢になっていた。
 数年後、ついにこうしてここに座っている。インディアンのことを調べている中で出会い、お世話になった人に戴いたご縁であった。年に一度行われる、サンダンスという儀式に合わせて訪問させてもらったのだ。
 到着してからの数日間、この森の目の前に広がる草原で、サンダンスを行うための準備を手伝って来た。小屋を立てたり、薪を集めたりと言った作業だ。そして四日目の夜、目の前にいる彼と対話する機会をいただいた。彼はこの土地の人々から、賢者として尊敬され、頼られている。

 火を眺めていると、今ここにいることが、とても自然なことに感じられる。その温かさを感じながら、彼の問いかけに応える。
「僕は、人と自然の調和について考えるために旅をしています。昔、インディアンの思想や生き方に本を通して触れ、心から感動しました。それが、この旅を始めるきっかけの一つになりました。だからこそ、この旅の中で一番訪れたい場所がここでした。尊敬し、学ばせてもらいたいと思っています」
 彼は野生の動物のように、じっと目を見て耳を傾けている。僕には驚くほどに緊張がない。
「そうか…。名前は?」
「ケントです」
「俺の名前はミディディグウィ・アニモシュ。「犬の声」という意味だ。英語ではバウキングドックと呼ばれてる。ケント、歓迎するよ」
 彼は微笑んで、マグカップを差し出してくれる。お礼を言ってカップを受け取り、一口啜る。

「ケント、サンダンスの儀式の意味を知っているか?」
 彼は、子供に物語でも聞かせているかのように優しい口調だ。
「…知りません」

 ここに来る前に、サンダンスについての話は聞いていた。四日間、飲まず食わずで踊り続ける。そして最後には、胸の肉を摘んでそこに木の棒を貫き通し、胸に刺さった木の棒にロープを括りつけ、そのロープのもう一方の端を木に縛りつける。それから、後ずさりすることでロープをピンと張り、そのまま木の棒を刺した皮膚が引きちぎれるまで引っ張るというものだ。
 僕は正直、この話を聞いた時に困惑した。「人と自然の調和」や「平和」についての美しい思想を持った彼らが、なぜこのような残酷な行為を行うのか解らなかった。「もしかしたら彼らの思想は、僕が思っていたような素晴らしいものではないのかもしれない」などという考えが頭をよぎる。しかし幸運にも、僕は僕がどれほど無知なのかを痛いほど分かっている。何も知らない僕がそんな判断をしても意味がない。機会をいただけるなら偏見を持たず、ありのままを見て、ありのままを学ぼう。そう決めてここに来ていた。
 そういうわけで、僕はサンダンスの意味を知らない。そして彼には、安心して「知らない」と言わせてくれる包容力があった。

 バウキングドックは「そうか…」と呟き、一呼吸を置いてまた口を開いた。
「感謝が全てだ」
 その言葉には、この森の奥にまで染み渡るような不思議な響きがある。
「人間は、産まれてからひたすら貰い続けている。産んで貰って、体と命を貰い、母親に母乳を貰う。食べ物、水、空気、光、常にあらゆるものを貰っている。大人になれば狩りや農耕、そのほかの仕事をすることで、『自分で得た』と感じるかもしれない。しかし、獲物でも、作物でも、我々はその『命』を貰っているのだ。この世界に何一つ、根本的に我々自身で創り出したものはない。全てはこの自然の大きなサイクルの中から貰っているものだ。貰っていない瞬間などないほどだ。貰い続けることで生かされている我々が、もしそれを忘れ感謝の心を失ってしまえば、人間は傲慢になり、あらゆる物が自分のものだと勘違いしたり、後先考えずに消費し破壊してしまう。そうなれば、自然のサイクルが壊れ、その一部である我々は自らを滅ぼしてしまう。兄弟姉妹である、あらゆる生き物もろともだ。だから、全てのものに対する感謝が必要で、我々にとって感謝が全てなのだ」

 確かに、現代の環境破壊はそうして起きている。そして確かに、感謝が鍵になるのかもしれない。僕は旅を経て、環境問題の解決を物理的な視点で考えることに限界を感じていた。感謝という感情こそ大切なのだという視点が、世界の本質を見る為の、大きなきっかけになるような気がした。しかし、まだ解らないことがある。
「とてもよく分かります。確かにそうだ。けれど、なぜその為に肉をちぎるようなことをするんですか?」
 彼は静かに頷いて口を開く。
「サンダンスでは感謝を伝えるために捧げ物をする。それは世界中であらゆる民族が行なっていることだ。どの民族も、自然の恵みに感謝してそれが続くようにと祈り、穀物や家畜や酒などを捧げるだろう。我々も同じだ。しかし、我々が捧げるのは自分自身。なぜなら、自分以外のものを捧げてもそれは自然のサイクルから戴いているものだから、捧げたことにはならない。この体でさえ貰ったものだが、せめて自分の命や魂に一番近い体を捧げるのだ。四日間、飲まず食わずで踊り祈り続けることで、自分の体を浄化し命や魂にできる限り近づける。その上で血を流し、自分自身の一部を捧げて感謝を伝えるんだよ。サンダンスは、感謝と祈りの儀式なんだ」
 僕の培って来た常識や合理性とは違う、しかし不思議と腑に落ちるところがある。僕は少し火を眺める。全てを理解できなくても、彼の言葉には何か本当に大切なことが秘められているような気がしていた。
「祈り…、ですか」僕はぽつりと呟いた。
「ああ、祈りだ」
 バウキングドッグの声には、柔らかさの奥に、硬く揺るがないものがある。
「祈りとは…、どんなものですか」
 彼の目は、僕の目を覗き込み、一瞬たりともブレることがない。
「サンダンスでは、自分のために祈ってはならないんだ。自分以外のあらゆるもののために祈る。家族や友人、自分の共同体、人類、自然のサイクルや、母なる大地。あらゆる存在のためものなんだ。祈りは、誰かに指示されるべきものではない。大いなる神秘との関係は人それぞれ、祈りの形はそれぞれだ。ただ自らの内面と真摯に向き合って、自分以外のもののために血を流し祈ることで、自分以外のものが救われる。同じように多くのものが、自らを犠牲にしてお前に必要なものを与え、お前のために祈っている。お前は多くのものに生かされている。人も動物も、お互いが自分以外の存在の為に祈り、与え合う事によって世界のバランスが保たれている。だからこそ自分自身を犠牲にし、祈りを捧げるサンダンサーは、我々全体にとって重要な存在なんだ」

 僕の内側、魂の方からだろうか。微かに声が聞こえて来る。思考と魂との間に、あと僅かでも隔たりがあれば聞こえなくなるほど小さな声。遠くで何かを叫んでいる。耳を傾けると次第にその声は大きくなり、頭の中で反響する。
「…逃げるな!逃げれば僕が僕でいられなくなる!」
 僕の思考は怯えている。「まさか…。本当に意味が…」と考え始める思考を押さえつけるように、その声が真っ直ぐに響いてくる。
「お前は、このサンダンスをやるべきだと分かってるはずだ。お前が学ばねばならない事だ。しかし、もしここで退くならその理由はなんだ?『恐れ』。ただそれだけだ。お前が進もうとする道を行くために貫くべき事。『望みを叶えるために少しでも有効なことなら、命懸けでなんでもやり通す』。それを曲げる理由がただ『恐れ』ならば、お前は一生前には進めなくなる。誰も進むことを禁じない。お前自身が禁じる事になる。自分にそれほどの覚悟がない事を、お前自身が一番よく理解するからだ。一度でも逃げれば、『恐怖』が現れるたびに逃げ続けることになる。ここで逃げれば選択肢はただ二つ。覚悟がない自分を偽って、偽物のまま進んでいるふりをするか。自然や人の為の道を探す事を諦めるかだ。どちらにしても、もうお前はお前でいられない」

 人生の岐路。未来が永遠に決定づけられる瞬間。意識が虚になり、一瞬、未来から過去を見ているような感覚に陥る。思い出の中にいるかのような。しかし、瞬きをするとやはり世界は今にある。ただ、時の流れがゆっくりに感じられ、あらゆるものが鮮やかだ。もう未来は決まっている。それは起こる、そして今その道を歩み出す時なのだ。

 気が付けば、バウキングドックの目をまっすぐに見て口を開いている。
「サンダンスに参加させてください」
 焚き火の明かりが、熱を伴って、バウキングドッグの顔を照らしている。彼の強い視線が僕を射抜く。
「本気か?」
 僕はもう何も考えていない。ただ強く、彼の目を真っ直ぐに見据える。
「本気です」

 この瞬間、自分自身に線を引いた。今後一切、生きる道に妥協はしないと。
「一度始めれば、四年間続けなければならないぞ」
 それはもう知っていた。やるなら、やるだけだ。
「はい。必ずやり遂げます」

 二人を照らす炎が、その証人であった。

 インディアンの人々は、火を神聖なものとして扱っている。炎を通して、ご先祖さまや、目に見えない存在が、僕らの声を聞いているのだという。嘘は許されず、約束を破ることもできはしない。それは少しも恐ろしいことではない。それは僕にとって、心強いことであった。これまであまり意識してこなかったが、ご先祖さまのことを思うと誇らしく、勇気がもらえるような気がした。

 炎が踊り、薪がはぜる。
 森の中は、静かで賑やかだった。


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