見出し画像

プロレス考

プロレス好きだな~。
大学一年生の頃、今はなき「博多スターレーン」でプロレス団体、ドラゴンゲートの興行を見に行ったことがきっかけとなり今日に至るまで主に新日本プロレスを追いかけている。追いかけているといっても、選手のtwitterをフォローして写真にイイネを押すくらいのものなのだが。

でも最近は、プロレス愛が再熱している。
2月に新日本プロレスがアメリカのロサンゼルスで興行試合を行うということで、PPVを3000円で購入し試合をオンラインで視聴した。

IWGP世界ヘビー級王座、オカダ・カズチカ vs 棚橋弘至。
60分一本勝負。

けたたましいハイピッチのエレキギターで奏でられる入場曲と共に煌びやかな衣装でリングへ入場する新日本プロレスの絶対的な現エース、オカダ・カズチカ選手。

対して、自慢の胸筋をこれでもかと言わんばかりに露出し観衆のどよめきを誘い、入場曲であるGO! ACEと共に入場した新日本プロレスの棚橋弘至選手。

両者の激しくぶつかり合う逞しい肉体、重力を感じさせないほどの跳躍力のあるドロップキック。かと思えば不敵な笑みを浮かべて、相手選手の水平チョップを自ら受けにいく様子。レフェリーもいい味を出している。勝敗を決める審判としてではなくむしろリング状の選手たちと一緒に「プロレス」的な行為をしている。そのどれもが、非日常的で視聴者を虜にしている。

試合はオカダ・カズチカ選手の必殺技、「レインメーカー」が棚橋選手の胸元をたたきつけ、そのまま棚橋選手は倒れてオカダ選手がホールドで見事な勝利を収めた。

プロレスがなぜ好きなのかについて言語化を試みよう。

ボクシングやUFCは、格闘技としての確固たる地位を気づいており、勝敗によって莫大な金額のファイトマネーが発生する。

しかし、プロレスはどうだろう。
プロレスは格闘技とエンターテインメントの狭間に存在しており
いわば、不確実性を伴っている。

この不確実性の揚げ足をとることによってプロレスはよく八百長だと揶揄され、コアのファン層と全く知らない・興味がない層に分断される。

私はこのなんとも表現ができない不確実性、言葉を紡いでなんとか意義を表現しようとした途端に意味が抜け落ちてしまうような不確実性。

この、不確実で意味に「揺らぎ」がある状態を私は楽しんでいるのだろうか。

いつも思う。勝敗に拘ることは、そんなに大事なことなのか?何でもかんでも競争の原理に働きかけ、勝者が利益を得て敗者が不利益を被る。

そのような自由競争の原理が現代社会における新自由主義経済を発展させ、「大多数」の人々が利益を得る社会が実現している。これは、素晴らしいことだ。私自身もこの恩恵は手放したくないし、これからの発展を担っていける存在でありたいと思う。

けれども、「大多数」の人々が恩恵を受ける社会の在り方は本当に正しいものなのだろうか?昨今、「マイノリティ言説」が普及し今まで社会の日のもとに照らされなかった存在に焦点が当てられ、よりインクルーシブな世の中に変革しようという動きが起こっている。

生物学的な性(sex)から社会的な性(gender)への認識論のパラダイムシフトがおこり、性自認をする人々が増えている現代社会が実現している。

つまりだ。私たちが常日頃自明なものとしてみなしているもしくはしていたものに「揺らぎ」が生じているのだ。男 vs 女から男 vs 女 vs その他といった具合に。

プロレスの話に戻ると、私はこうした二項対立的なもの見方には限界があると思っており、それは格闘技が自明視している勝 vs 負という二項対立をプロレスは打ち崩そうとしている事実が私をプロレスファンたらしめているのだと思っている。もちろんプロレスに勝敗は存在する。ベルトも存在する。けれども、そうした勝敗以上の魅力がプロレスには存在しているのだ。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?