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自分はどう生きるか

3月が終わろうという頃、長く続いた肌寒い風吹く日がやっと終わり、ようやく春の訪れを感じてきました。
そんな中でも例年通り花粉は飛び交い、そしてすでに春眠は暁を覚えません。

1ヶ月ほど前から、自分の中に気持ちの変化があり、一度習慣を変えてみることにしました。
具体的には、SNSを開く回数を減らしてみました

「何かを辞めれば、何かが変わる。」

僕はこの考えを強く信じており、以前は2年ほど飲酒をやめていた期間があります。
今回は、辞めるというより「減らす」ではあるものの、2月の終わりごろからSNS、特にX(Twitter)を開かない、投稿しないように意識してみました。

とはいえふと指が動いてしまったり、宣伝を目的としたり、何度か開くことはありました。しかし、一度開かないと決めると、習慣は少しずつ変わり、自然と時間が生まれていきました。

新たに生まれた時間で本を読んだり、勉強をしたり、ぼーっとしたり。違うことに時間を割けるようになりました。

僕はメンタルが強くなく、一旦ネガティブな状況に陥ると考え方が悪い方向に強く偏ってしまいます。
なんとかその状況を改善したいと思っており、その練習も兼ねてインプット・アウトプットする情報を制限してみることにしました。

実際、Xを開かなくなってから、世の中のネガティブな情報に触れる機会も減った気がしています。
これによって、気持ちのアップダウンを一定にできている感覚があります。

有名人のスキャンダルや汚職事件など。どれも知らなくたって生きていけるし、知らなくたって仲間外れにはされません。
そして、知らない方がメンタルは安定します。

とは言え、その他のSNS、とりわけインスタグラムは今でも毎日開いてしまっているため、本当の効果は実感できずにいるところです。

寂しがり屋で飽き性な自分がSNSを完全に断つことができるのかは今後の課題となっていくでしょう。

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この世には人の数だけ考え方があり、当然世の中には自分と相容れない人はいます。

「完璧な人間などいない」という前提に立つと、この世のすべての人はどこかに欠点を持っており、またこの世のすべての人と仲良くなることは不可能です。

その事実をただ認識していればいいものの、僕たちはついつい余計なことを言ってしまうことがあります。

気に食わないから、反対意見を言い負かしたいから、欠点を攻撃したいから、etc。

特にインターネットの中にはそのような言説(のようなもの)が多く見られます。

僕はSNSなどでそんな意見をぱらぱらと眺めていると、自分の本当の意見がわからなくなってしまったり、気づいたらどこか嫌な気持ちになっていたりすることがあります。

面と向かって言えないようなことでも、ネット上なら言える。

インターネットがなかった頃、そして黎明期などはそういった辛辣なコメントはごく少数派だったと思います。
しかし、時が経つにつれてインターネット人口は増えていき、またXなどの親しみやすいSNSが生まれたことで、誰かに対する誹謗中傷も、もしかしたら自分に対する批判的コメントも、簡単に目にするようになってきました。

嫌なものは見なければ良い。

それが正解ではあるものの、とはいえこの時代には難しいとも感じる今日この頃です。

だからせめてもののSNS断ちは、現代を生きる僕たちにとって必然とも言える現象だとも思います。

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特にネット上のコメントには、短期的思考で相手を論破する意見が多くあるような気がします。

一瞬の気持ちよさを得るために、誰かを犠牲にする。

はたしてこれが本当に良いものなのか。
ここには疑問があります。

仮にその意見が「論理的に」正しいところで、それは「人間的に」正しいと言えるのか。

そもそも目に見える正解を求めたところで、それは「本質的に」正しい意見なのか。

短期的な思考に立って正しいとされることも、長期的な思考に立ちあらゆる事情を加味すると正しくなくなる。
そんなことは往々にしてありうると思います。

僕は、物事は長期的な視座で考えたほうが本質的だと思っているし、最終的に良い形で収まると思っています。
だから、どうも短期的思考で論破する意見には賛同できないことが多くあります。

そして、そのような一瞬の気持ちよさを得るための論破には強く疑問を感じてしまいます。

別にエンタメだったらいいものの、中には本気な人もおり、笑えないことも数知れず。。。

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先日、昨年公開されたスタジオ・ジブリ映画「君たちはどう生きるか」がアカデミー長編アニメ賞を受賞しました。

昨年、映画館でこの作品を見た際、じぃーんとした熱いものを感じました。
少年・眞人がサギに連れられてもう一つの世界に向かい、そこで母を探しながら成長していく話。

この映画の元になった(原作ではない)のが、作家・吉野源三郎の小説で、2017年に発売された漫画版が大流行した『君たちはどう生きるか』です。

中学生のコペルくんが周囲の人々との関わりを経て、どのように生きていくかを考えていく話。
こちらもとても良い話でした。

これらの作品は、すぐに全てを理解できる安易なものではなく、じっくりと考えて何か答えのようなものを見つけていくものでした。

僕自身、題名にもある通り、自分の生き方について深く考えさせられました。今でも強く記憶に残っています。

「自分はどう生きていくか」という疑問は、古来より「哲学」として学問のひとつに収められていました。

そして、学問としての哲学はリベラルアーツの7科目のひとつとして定義されているように、基礎となる教養として学ぶ機会が与えられていました。
(その名残から、今でも英語圏では文系博士のことを「Doctor of Philosophy(PhD)」と呼びます)

時代は移り変わり、現在では哲学を学ぶ機会はかつてに比べて大きく減ってしまいました。
しかしながら、「VUCA」(ブーカ)と呼ばれる不安定な現代に、どのように生きていくか悩む人は潜在的に多くいることが想像されます。

この世にある無限の選択肢から自分の人生に合うものを探し、選び出す。
これは非常に困難なことです。

一度しかない人生を無駄にしたくないのは当然なものの、その選択ひとつひとつに大きな責任が伴われます。

自分が何を目標とし、どこを目指して生きることが、自分にとって一番「良い」状態なのか。
その答えをついつい探したくなるものの、特に若年層は明快な答えを見つけられずにいます。

かく言う僕もその一員です。

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作家・星新一の作品は、「ショートショート」と呼ばれ、短編小説をもっと短くした「超短編小説」ながら、ユーモアあふれる物語が数多くあります。

その中でも、僕は「服を着たゾウ」という物語がお気に入りです。

ある日、催眠術師から「お前は人間なのだ。」という催眠術をかけられ、人間として振る舞うことになった1頭のゾウが、その後熱心に仕事をこなしていき、タレントや実業家として名声を得ていくというお話です。

このゾウは、どれだけ有名になっても、地位を確立しても、一切天狗になることはなく、思いやりを持って人と接していました。
ある日、自らの成功の秘訣についてインタビューを受けた際、このように答えました。

「私の心の奥に、お前は人間だという声がひそんでいるのです。でも、人間とは何かが私にはよくわからなかった。そこで、本を読んで勉強し、考えたのです。人間とはどういうものか。人間なら、何をすべきか。常に学び、考え、その通りにしただけです。私が世の役に立っているとすれば、このためかもしれません。あなた方は、自分が人間であると考えたことがありますか。」

星新一「服を着たゾウ」

その後、オチとして、以下のようにまとめられています。

私たちは、催眠術師にたのんで、「お前は人間だ」という催眠術をかけてもらった方がいいのかもしれません。

星新一「服を着たゾウ」

これを読んだとき、この物語はまさしく「自分はどう生きるか」という問題に悩み、そして解を見出した例だと思いました。(フィクションですが)

どこに住んで、どんな仕事をして、どんな人と一緒に暮らして、etc。
もちろんそのようなことに悩み考えることも大切です。しかし、そういった悩み事はあくまで短期的思考な解決ではないでしょうか?

「自分はどう生きるか」という解を探すなら、まずは長期的な視座で思考する必要があると思います。

自分に焦点を当てる以前に、人間としてどう生きるかを学び、実践する。
そして、それによって自分の生き方が見えてきた先に、自分という個性を活かし、自分のやりたいことをしていく。

日頃生活していると、「人間としてどう生きるか」という考えを持つことはまずないと思います。
しかし、古来より哲学という学問が存在している以上、そこに答え(のようなもの)は存在しており、それに沿って生きていくことが「正しい」とされるのでしょう。

もちろん哲学に絶対的な答えはないし(だから今でも研究は続けられている)、人間は完璧な存在ではないため、すべてを完全にすることは不可能です。
しかし、そこを目指すことに意味があると思いました。

僕自身、哲学に触れる機会はあったものの「人間としてどう生きるか」なんて考えたことありませんでした。
だからこそ前述の小説を読んだ際、背筋が凍るようなゾクゾクした感覚を抱きました。

(興味を持った方は、星新一『マイ国家』をご参照ください)

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実際に、自分がやりたいと思ったことを実践したとして、それがすべて上手くいくことはありません。

何かを実践したものの、思っていたことと違う結果が出てしまったとき、僕たちは「失敗」と呼びます。
(これは一般的な意味での失敗ではなく、「過失」を除いた狭義の意味での「失敗」です)

そして、失敗にはネガティブな印象が強く含まれます。

特に日本ではこの失敗に対する印象の悪さが大きい気がします。

銀行の内幕を描き、大ヒットとなった日本のドラマ「半沢直樹」でも、一度でも失敗を犯した人が憂き目に遭う様子が描かれています。

「失敗してもいいじゃん、気楽にやろうよ!」

各人がそんな楽天的な考えを持っていたとしも、いざ何か失敗をしてしまったとき、恥ずかしい思いを感じたり、周囲からの目が気になってしまったりします。

事実、ネット上の批判には、誰かの失敗を指摘するコメントが多く見られます。
その多くは、顔も名前も出さない、いわゆる「陰から石を投げる」行為であるものの、その指摘を間に受けて怯んでしまうことは往々にしてあります。

失敗したくないから、何もやらない。
だから、いつまでも何かにチャレンジすることができない。

これじゃあ本末転倒です。

失敗を繰り返していく中で、本当に自分のやりたいことが見つかっていくのが世の中の真理です。それを繰り返すしかないのです。

本当にやりたいことをみつけたいなら、実践して失敗するしかない。
自分も含めて、この理論を骨の髄まで染み渡らせる必要があるでしょう。

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「自分はどう生きるか」

結局のところ、なにか情報を得て考えてみたところで、具体的な解決方法は見つからないのかもしれません。

長期的な視座に立った上で、学び、実践してみる。
素直に従順に、自分の心に従ってみる。
その先には上手くいかないこともあるけれど、決して絶望せず、また学び、実践を繰り返す。

失敗しても、周囲の目なんて気にせず、受け入れる。

それを繰り返していくことで、より自分の本質に近づいていくのでしょう。

僕は行動力には自信があるものの、今でもうまくいっている感覚がありません。
それは、以前の投稿にも書いたように、内容の精査を行っていなかったから。

失敗をしてもいい。そこから何を見出すか。何を見つけるか。
そこに自分の気持ちがどのように関与しているか。

その一つ一つに目を向け、気持ちに正直になってみます。

僕自身、「何者か」になりたい気持ちが強くありながらも、なれない日々に悶々としています。
30歳を目前に控え、強く焦る気持ちもあります。

しかし、そんな中でも長期的な視点で考え、学び、実践を繰り返して、少しずつ自分の人生を進めていくしかないのでしょう。
そして失敗して、気持ちを確かめていく。

僕たちはどう生きるか。

常に周囲の人たちへの感謝の気持ちを忘れずに。

小さく開き始めた桜の蕾を横目に、思索にふける春の良き日。
みなさんはどうお過ごしですか。

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