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パニック中に感じたことを言語化してみる

パニックの最中に感じたことを端的に書くなら大体こういうものだった。

「生まれた理由がない、生きている間に行う全てにも意味がない」
「このまま自分の認知の内側に閉じ込められて出られない」

…こんなことは思春期の間に、とっくに論破したハズのことである。
「青春あるある」な悩みと言えるだろう。

これらを裏返して、10代後半を過ぎて以降の福永の原動力は以下である。

あらゆることが意味も理由もない「無駄」である以上。
裏を返せば、何をどう捉えて、どう行動しても良いはずだ。
だからこそ、我々は自由だ!



今のところ2度のパニックを経験している。
はじめてのパニックに襲われたのは1ヶ月前、お昼の12時頃。

3つの締め切りを抱え、作曲をしていたのだ。

福永は1音1音を丁寧にこだわり、着実に作曲をしていく仕事の時間を好んでいた。なにより作曲が好きなのである。
作曲をして、しかもお金をもらっている。
お金なんてのはあくまで形式であって。
それ以上に、自分自身の腕前を信頼してくれる人がいて、発注して頂けることが嬉しかった。
それを喜んでくれる人が確かにいることが嬉しかった。
世界中のほとんどの人に知られていない、いわゆる「人気がない」という悲しさと悔しさも確実に持ってはいたが。
それよりも互いに認め合った同士で楽曲を評価して頂ける、そういう環境に対する感謝の方が優っていた。

「曲が良ければいつか仕事になる」わけではない。絶対にそうではない。
より広く言い換えるなら。
「アウトプットのクオリティが高ければこの社会でお金を稼げる」わけではない。そんなわけがない。
もしそうなら、この世の中の農家や職人は…つまり、素晴らしいものを作っている人たちは、もっともっと、経済的に高く評価されているはずだ。

自分のこだわりと能力を職として現在の社会に認めてもらえるかどうか…それはほぼ「運」による。

確かに福永は懸命に、しつこく営業活動をしたりもしたし、なにしろより良い曲、よりよい音を求め続けていた。

でもだからといって、職業にできるとは限らない。
素晴らしいものを作っているのに仕事につながらない人がこの世界にはたくさんいる。
そういう人をたくさん知っている。
社会的な成功譚の裏側には、いつだってその100倍も1000倍も努力したけれど認められることのなかった亡骸が100倍も1000倍も転がっている、というのが現実だ。
(話をわかりやすくするために亡骸と書いたが、福永は別に今の社会に認められないことは全く亡骸などと形容されるべきことではないと思っている)

…だから福永はただ単に運が良かったのだ。
それ以上でもそれ以下でもない。

大好きな作曲をして、誰かに喜ばれる、求められる。
こんなにも運の良い状況。

果たしてこれ以上何を望む?



アイデアの枯渇と、軽い疲労、小さな眠気を瞼の裏に感じた。
昼寝をすることにした。それが先ほど書いた正午ごろのことだ。
創作作業に睡眠不足は大敵。ごく無意識に頭が悪くなるから。
常に意識している。

手作りの防音ドアを開け、ベッドのある自室に戻って寝転がろうとした。
まさに、その瞬間。

軽い目眩のような感覚に襲われた。
次いで、身体中がシュワシュワっと痺れてきた。
そう「身体症状が先」だったのだ。心理は後からついてきた。

これは...と思った。
なんだか大麻もどきでバッドトリップした時の感覚に似ている。
しばらく前にはまだ日本でも合法だった、水素(H)1つかなにか以外は大麻と成分が同じ、という、その頃流行っていたヤツを吸わせてもらったことがあった。
確かHHCとかいう名前。THCから来ているのだろう。
2度ほど吸わせていただいたが、いずれも福永はバッドに入った。
体がシュワシュワして、この時間が永遠に続くかのように思える、まさにバッドな体験だった。
(この比喩でわかる日本人は少ないと思うけれど)

福永は多分体に合わないのだろう、と思い、その2回をキリに大麻もどきを吸うのを一切やめてしまった。
酒で言う下戸のようなものだろう。
楽しい人は楽しいようなのだけれど。
そうこうしている間に法律がかわって違法となった。
今でも大麻もどき(化学式の微変更)と法改正のいたちごっこが人知れず続いているらしい。

ああ、バッドっぽい感じだな〜というのが最初の感想だった。
でも何も吸っていないのに、どうして?

どうして?を皮切りに。
あ…吸っていないのにこうなっているということは…
もしかしてもう一生このままなんじゃないか?という不安に襲われた。
今思うとそんなわけないのだが、その時は本当にそう思えたのだ。

それから20秒もしないうちに呼吸をするのが難しくなってきた。
心臓がものすごい音を立てている。変な汗が出る。

さっきまでこだわっていた作曲や、音の一つ一つ…
そんなことをこだわって、一体何になるんだ、と強烈に思いはじめた。
だっていつかみんな死ぬのだから。
みんなバラバラに別れるのに、いったいどうして?
この辺りでおそらくパニックが決定的になった。

パニック発作であろう、と福永は内心に思った。
セロトニンなどのホルモンバランスの不均衡によって起こるのだ、という原理も、知識として知っていた。
現代医学でも根本的な原因はわかっていないが、対処の方法は明かされている。

セロトニンを得るためには日光を浴びると良い、という知り齧っていた知識を基に外へ繰り出した。
なにしろ呼吸をしたいために。息が吸えないのだ。
決死の覚悟で「お昼のお散歩」を決行した、ということだ。
あたたかな春の日差し。

日を浴びても、体調は一向に回復しなかった。
虚無感は一層増して、これまでにない強さで襲ってくる。

次に湯船に浸かった。
大半のメンタル上の都合は体温の低下によるものだ、と聞いたことがある。
心とはいっても所在地は心臓ではなくて脳だ。
つまり、脳が認知を司っているはずだ。
心象が悪いのならば、すなわち脳を含む体調の異常に違いない。

悪寒に近い感覚も、体の痺れも、呼吸困難も、これはいずれもまやかし、脳の不調が見せる幻影であろうと気づいていた。
だって、息が吸えないように思えるのに、今普通に生きている。

よーく苦しみの身体症状を味わってみると。
胸のつっかえたような感じは、悲しい時や感動した時に胸がグッとしめつけられる、あの身体感覚が正体のように思えた。
ただし、その10倍も15倍も強いように、感じられた。
実際に強いのではなくて、脳がそのように錯覚しているのではないかと思った。
けれど、脳が錯覚している以上…それは今、福永自身にとっては現実の痛みだった。
その痛みによって、どうしてもうまく息を吸うことができない。

また、胃が強く収縮しているのを感じた。
これもおそらく、誇大妄想であろうと思った。
ライブ前に緊張している時や、これから先生に怒られる予定でバツの悪い気持ちで職員室に行く時。
胃がキリキリっと痛むのを感じたことがある。
この胃の痛みの正体は、あの痛みなハズだ、と思った。
けれど、今、福永にはその10倍も15倍も強く「感じられて」いる。

感じている以上、もうそれは現実だった。
脳が見せる幻想である、と知識の上ではよく知っている。
でも、今本当に息ができなくて、体は痺れていて、気分が集中できなくて、ろくに体を洗うこともできない。
これが今自分に降りかかっている現実だったのだ。

湯に浸かって体温をあげても、症状が改善することはなかった。

今ではすっかり「音にこだわる価値」から切り離されてしまった。
脳が見せる幻想だ、と自分に訴えかける。
それでも、脳が見せてくる以上は「それが現実」なのだから。
福永はもう本当に、永遠に「音にこだわる価値」から切り離されてしまったように思った。

何か原因があればそれを取り除けば良いのかもしれない。
けれど、福永はたった今、楽しく作曲をしていて、それからお昼寝をしようと思っただけだったのだ。ストレスもない(と少なくともその時は思っていた)
これ以上何を望むことがある?

石が好きで、時折海岸に拾いに行く。
美しい斑点や、つるりとした冷たい表層、奇抜な割れ方、文様。
自然が生み出した不自然に福永はうっとりする。そういう感情を思い出すように努めてみる。

でも?なんのために?なんの意味があって?
生まれたことに理由などあるはずがなくて、あくまでも生物の単なる生殖の結果だ。虚無。綺麗な石があったから、それがなんだって言うんだ?

友達と話す。本を読む。ゲームをする。

あらゆる価値が、途端に翻って、圧倒的な「虚無」に感じられた。
自分の人生を構成する美質だと思っていたものが、みな、一斉に遠ざかってしまった。

これは妄想だ、脳のオーバーヒートが見せる幻想だ…と再度語りかける。
でも「脳が見るのがその人の世界」ではないか。またここに帰ってくる。

焼肉がご馳走なのは、焼き肉をたまにしか食べないからだ。
肉そのものが「ご馳走という属性」を纏っているのではない。
焼肉をご馳走だ、と思う脳=心がある時に初めて、焼肉はご馳走という属性を得るのだ。次いでウキウキした気分になったりできるのだ。

だから一度でも世界が「全くの虚無」に見えたら、その亀裂を実体験してしまったら、もうおしまいなのだ…。
そう思った。
「虚無には見えなかった頃」には、もう2度と戻れない。
記憶が消えない限り。

からくりを知っていようが、脳の誇大妄想だろうが…そんなことは関係がない。

たった今この瞬間から自分の脳がこの世界を虚無と捉えたなら…福永はもう永遠に虚無の中に閉じ込められるのだ、と思った。
物質の世界が実際問題どうであるか、とは全く無関係に。
もうこの脳みそにとっては、石には模様がなく、焼肉には味がなくて、友達には顔がない。

ギターからは音が出ない。きっとそういう正解に迷い込んでしまった。

愛したって、争ったって。それが何になるというのか。

インターステラーの後半で五次元立方体に閉じ込められているシーンがある。あの感じが似ている。
意識の内側に閉じ込められた!
好きだったはずのことを思い返しても、なんの感想も抱けない。
それがなんになる?
ぶっきらぼうな回答が返ってくるだけだ。
一つまた一つ、好きだったものを思い浮かべる。
一つまた一つ、それらが踵を返して去っていってしまう。

風呂から上がって、福永はひとりぼっちだった。
本当にひとりぼっちだ。物質の世界は、何も変わっていないのに!
ろくすっぽ体も拭かないまま服を着る。
体を拭く、という順序だった行いが全くできないのだ。

意味から切り離されてしまったら、もうどんな感想にも意味がない。
生きることも死ぬことも全くできない虚空に一人でパージされてしまった。
どんな感情にもならない。そんな場所に置き去りにされたような気分だ。
(今思えば、そこを「怖い」と思う、その感情はあったのだけれど)

2時間経ってもその感覚は続いた。
どうやら若干の波があるようだったが、改善はされなかった。
この2時間はあまりにも長かった。一生のように長い2時間だった。
(…時間は主観的なものだ、と確信した)

前回のnoteに書いた
・仕事相手に断りと謝罪の連絡を入れて
・希望を棹さすために2日後の病院を予約した

のはこのタイミングだ。
波が少し引いている瞬間を見計らって、これらの作業を行ったのだ。

音色に拘って素敵な作品を生み出して締め切りに間に合わせる。
そんなことが今できるわけがない、と判断した。
それで仕事をお断りした。かなりの葛藤があったけれど。

そして、とにかく病院を予約した。
たとえ永遠のように長いとしても、予約の2日後までは生き延びるのだ。
そうしたら、薬でもなんでも、出してもらえるはずだ。
これが希望を棹さす、と書いた意味だ。
「何かしら信じられる救い」を自ら生み出さなければやってられなかった。
(…これが宗教のもたらす効果なのだろうと直感した)

ちなみにパニック症状で救急車を呼ぶ人は多いようだ。
内科なんかに通されて、異常がないものだから生理食塩水のチューブを流し込まれて帰ってくるケースは少なくない。

元々脳や認知に興味があって、多少の前知識や自分なりの仮説なんかを持っていた。そんな習慣が、パニック時の福永に迷うことなく精神科を予約させた。今振り返ると「習慣の力ってすごいな」と思わせる。なぜ内科を疑わなかったのだろう?

さて、どうにかして眠ろうと思った。まずは48時間を耐えなければなるまい。
意識の世界にいたくない。
仕事は無くなった。信頼も無くしたかもしれない。でも、とにかく眠る権利を得たわけだ。そうだ、さっきは昼寝をしようと思っていたのではないか。

風呂から出て部屋に戻るのは怖かった。
先ほど部屋でパニックを引き起こしている。
「部屋がパニックの起点」と再度脳にインプットされてしまったら。
2度と自分のベッドで眠ることができなくなってしまう。

睡眠からさえも見放されてしまったら、一巻の終わりだ。
脳に休息を与えられなくなったらおしまいだ。
…そんなことが、本当に生死を分ける心配ごとに感じられる。
それがパニック時の脳みそなのだ。

数時間前には眠っていた、いつものベッドだ。
怖いことはない、安心しろ...と自分に言い聞かせた。

それから眠るのに8時間かかった。もちろん永遠のように長い8時間だった。

その日、同居人の松田くんはいなかった。
けれど、いなくて良かったと思った。
健常な人が健常に立てる物音や生活や食事…
そういうものを目の当たりにした時、一層自分が虚無の中へパージされてしまったことが決定的になるような気がしたから。

この状態をどうやって伝えて良いのかもわからなかったから。
「虚無にパージされました」
そんなことどうやって伝えたら良い?
仮に言葉にできたとしても、あの「体験」を伝えられるわけがない。
伝わったとして、本当に「解って」もらえるはずがない。
事実、2日後にまだ混乱した脳でこれを医者に伝えたら
「ちょっと詩的すぎてわからないけど…」と言われた。
そりゃあそうだ。
今思えば。問題はそこじゃあないのだから。

これは福永の脳が見せる妄想なのだから。
そして今なら思う。そんな状態が永続するはずがない。
けれど。永続すると信じていたパニック時の脳みそにとっては。
虚無にパージされた状態は永遠に続くかのようだった。本当に。



翌朝起きるとどうやら呼吸ができる。身体のシュワシュワもない。
やはり脳の疲労だったのか、と思った。オーバーヒートだ。
でも。脳がボワボワして、頭を振ると景色がきちんとついてこないような感覚があった。
ものが考えられない。とりわけ、未来のことについて考えると雲の間に隠れて言葉が遠くへ吸い込まれてしまうようだ。
何件かラインが来ていた。しかし、なんと返して良いものか、言葉が出てこない。思考が働かないのだ。

このまま、この、脳を覆う鳥黐に支配されるのだ、と思った。
だって、昨日。
全ては妄想だ/幻惑だ、とはっきり理解しながら。
それでも結局脳が見せるものが自分自身にとっては現実だったから。
人はそれで、本当に呼吸が苦しくなることが、できてしまうのだから。
脳みそがもんやりしているなら、自分にとっての世界もこのままもんやりし続けるに決まっている。

認識だけが現実なら、人とわかりあうことなど一生できない。
別の脳が別の認識を生んでいるのが他人だ。
生きる世界線が全く違うのだ。
同じ屋根の下にいるようで、まったくそれぞれに孤独なのだ。

このままゆっくり脳が閉じてゆき、認識の内側に閉じ込められるのだ、と思った。

生まれた理由がない。
これは現世に生きる以上、どうにも論破のしようがない、歯の立ち用のない圧倒的な現実のように感じられた。
そしてそれは、今思っても当然の事実だ。

唯識論や虚無主義や、心理学的な知識。
これまでにうっかり学んでしまった認知と世界についての知識を呪った。
そんなこと、知らなければ良かったのに!

でも。
昨日と異なる感覚が湧いてきた。眠ったおかげだろうか。
あらいざらい松田に話してみたい。
一人でいたくない、こんな恐ろしいところから直ちに離れたい。

そんな気持ちが湧いてきたのだ。



それから先は前回のnoteに書いたような経過である。
普通のことを話すだけで異様に涙が溢れる時期が3日ほどあった。

友人の好意に触れ、ハグしてもらって、温かい気持ちになった。
脳の鳥黐は2週間かけてゆっくりと消えていった。

1ヶ月経った今でも、時々ハッと我に帰るように不安になる(…我って何?)
またある時は不意に気を失いそうな、遠い気分になる。
とはいえ、そういう時間はどんどん稀になっている。

倦怠感はあるが、従来の70%くらいのことはできるようになった。
(けど50%に抑えるようになるべく努めている)
1週間の半分以上の時間は自分でも、え、結構普通じゃね?と思える感じになっている。


最初のパニックから1ヶ月と数日が経った。
はじめは想像するだけでまた虚空に引き摺り込まれそうに感じられて。
なんなら実際に動悸が高鳴り、呼吸が荒くなって。(身体症状を伴う)
うまくパニックのことを考えられなかった。

今ここに書けている、ということは、相応の時間が過ぎ、脳の中で「過去のこと」になりつつあるということだ。まだまだ完全とは言い難いけれど。
そして、消化するために「書き物に変換」するのは自分にとっても良いことだ。ちょうど奥歯で噛み砕き、胃で溶かすのと同じ寸法で。


パニックが起きた数日後。
部屋に転がっていたヨーガ・スートラを読んでみようとした。
ヨガの目的は「心の作用を止滅する」ことにあるようだ。
表紙にそう書いてある。
まさに!それが今、福永の求めていることだ。

だが、無理だった。
ボワボワした脳には、もう本当に、何が書いてあるかわからなかった。
活字にも見捨てられてしまったのだ、と思った。

あるいは唯識論(仏教)上の「悪取空者」について調べてみようともした。
「空(くう)」の概念を取り違えたために虚無い気分になってしまう人のことを唯識論では悪取空者と呼ぶ。それは以前から知っていたのだ。
そしてもちろん、当然、それも無理だった。

パニックから1週間後。
以下、あまり気持ちの良くないアナロジーなので書くことを憚られるのだが、正直に書こう。気分を害する方がいたら本当に申し訳ない。

福永はこのパニックの経験を「戦地から還った兵士」として捉えることに決めた。自分は、戦地から還った兵士なのだ。

この発明は自分を考え事や解決に向けた推進力から守ってくれた。
還った兵士に、トラウマと向き合い、解決することを勧めるか?
否、なるべく多くの休養を与えてあげたいと思う。
なるべく忘れられるようにしてあげたい、と。

つまり、あのパニックの体験が、トラウマになっている、と自ら認める。
虚空へパージされて一人でいた時間が恐ろしいと思っている。
「そういう体験がフラッシュバックしてしまう」のが今の自分なのだ。

であるならば。
ヨガだの唯識だの言って、トラウマと「向き合う」のは、悪手だ。
トラウマを解決するのは…「解決」ではない。
たっぷりと豊かな、時間だ。
時間の層だけが、トラウマを解くのだ。
解決しようと脳を働かせて、余計な結び目をこんがらせてしまってはいけない。特に、こんなふうにバグった直後の脳みそで考えてはいけない。
(これはあらゆる悩み事に応用が効くライフハック、かも知れないと思う)

とある日は自分が男である、ということすら悩みの種になった。
ところが、自分の性自認は男性であり、恋愛対象は女性である。

確かに昔から、女になりたい、女でありたいという憧れがあった。
体も声も、社会的なポジショニングにも、憧れがあった。
確かにそう言う欲求は以前から存在していた。小さなものだけれど。

なぜかこの日、自分に陰茎がついており、喉からは変声期を遥か昔に過ぎた野太い声が出ていることがどうしても切なくなった。そんなふうに思ったことはこれまでに一度もないのである。
まるで体という牢獄に閉じ込められているとでもいうような。
繰り返すが、福永は男性として生きていることに不満がなかったはずなのに、である。

また、これが希死念慮というものか、という感覚も味わった。
合理的・物質的な死に対する念慮とは属性が違うものだな、と思った。
こういう感じだったのか、と。
ただし!
ぜひ安心して欲しいことには、福永は以前から熱心な自殺反対論者である。
正確に言うと、もし死にたい友達がいるなら…福永と一度話をさせてくれ、と再三言っているような、そんな男である。
心は「以前からの習慣」を蔑ろにはできないらしい、と言うことも学んだ。
これには負ける気がしなかったのである。怖かったけれど。

つまり、何に対しても悩むことができた。どんなに些細なことでも辛くなることができた。

パニック時の身体症状と似ている…と思った。
ほんの小さな悩みや不機嫌が、莫大な質量で自分に畳み掛けてくるように「感じてしまう」ようなのだ。
ちょっとした胸焼けや胃の収縮で息が吸えないように感じていたパニック時の身体感覚とそっくりだ。

脳は今、ほんの小さなこともかなり誇大に認知しているように思えた。
悩みや不機嫌のみならず、事実、光や音がめちゃくちゃに大きく感じた。
特に駅前なんかは、非常に物騒な場所に感じられた。
雑踏って、こんなに音が大きかったのか!
耳や目のフォーカス機能がバグっているのではないか、と思った。

その他ありとあらゆるフォーカスがバグったために、小さなものを大きく、大きなものを小さく感じたりするのではないか、と。

感情のニュアンスとしては、粘り気がある。「日頃の不機嫌」と比べるとかなり歯切れの悪い、ねっとりとして切羽詰まる感じ。深い感じ。

その状態を自己観察して、福永はしばらくの間、自分の脳みそを信頼するのをやめることにした。
近くにいる友達に話して、判断や感想を仰ぐことにした。
近くに人がいる。なんと運の良い、恵まれたことか!

そして、医者の言うことを全幅に信頼することに決めて、下手に病名や症状をググって余計なアフェリエイト記事に踊らされたりするリスクを、一切切ることに決めた。



今回パニックに陥ったのが長年の心の習慣や体の習慣、生活習慣…などによるものだとしたら。
論理的に言えば「その逆」も全く可能なはずだ。
今では、そう思える。

あらゆることが虚無に思える、その逆。
「愛に満ちた認知」もまた、習慣によって達成できるに違いない。
むしろパニック症状はその証拠とも言える、と思った。

もしかしたらば仏教の修行僧が目指すのは…その境地。
パニックの真逆。
それを目指して強固な習慣を作り変性意識を生み出すこと。
それが修行であり、悟りなのではないか、と。

精神疾患は悟りの対極であり。
対極は実は薄い壁一枚隔てたすぐ隣のことなのかも知れない、と思った。



そういうわけで今はパニックの方はかなり落ち着いて。
双極性障害II型(いわゆる躁うつ)に対する薬物療法を開始している。

ここまであまりにも「虚無!虚無!」と言いすぎて、読んでくれた方の中にはもしかしたら不安に駆られる方も出てくるかもしれない。それでは大変に申し訳がない。

なので、最後に、ここ数日で思いついた新たなライフハック・編み出した処方箋を書き添えておくことにしよう。

海を見ていることを想像して欲しい。
福永は実際に海を見て思いついたのだ。

自分が生まれたことに意味はない、当然だ。
連綿の生物の遺伝の都合である。
また、海が生まれたことにも意味がない。
自然の偶然の堆積だ。

でも、じゃあ。
「ヒトの中に心が生まれた」こともまた、自然の一端である。

「意味のない自分」が「意味のない海」を見る。潮風を受ける。
心に何かしらの情動が芽生える。気持ち良いな、と思う。
波間のゆらぎは神秘的だ。

そう、無意味と無意味の間には「気持ち良い」という感情が芽生えるのだ。
そしてそれは、心が存在する(=脳が存在する/意識が存在する)からだ。

この世が無意味であることを否定できないように。
「心が在る」って事実も否定できない。自然の都合で生まれたのだから。

だから。
心がある限り、どんな虚無の中にもストーリーは生まれるのだ。
心がある限り、世界中はカラフルだ。
心に振り回された福永が言うのもなんだか変な話だけれど。

本屋へ行った。夥しい数の背表紙がカラフルに並んでいた。
圧倒された。
虚無であり偶然でしかない人間たちの営みが。
これほどまで多くの活字になった。これほど多くの装丁を伴って。
本棚の間にひしめいているのだ!圧倒的に!

これを虚無の一言で片付けられるだろうか?
心が存在する限り、それは無理なご相談、ってところだと思うのだ。

ただ一つ、心が在る、そのばっかりにこそ!

まだまだ本調子とは言い難いために、いつもより一層気をつけてはいるものの、本文を不愉快に感じた人がいたら申し訳ありません。あらかじめ断っておきたい。

また、パニック障害や双極性障害の方に一般に当てはまるものとは思っていない。多種多様に違いないから。医学的なエビデンスに基づいていない、要するには個人の感覚を綴ったものである。あくまで読み物として楽しんでいただけたら嬉しい。

次回はぜひ、温かいものが書けたらと思う。
このバカンス期間中(「バカンス」と名付けることにしたのだ、療養と言う単語には湿り気が含まれすぎているから)に得た好意や愛は、なるべく写真に撮って残すようにしている。
そういうものを紹介できたらな、と思っている。
こういうものに励まされたのだよ、って自慢をしたい。
支えてくれる人たち。あなた方は今、福永の中で「本当にヒーロー」なのだ。
福永の心がそう言っている。


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