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思いやりを捨て、偏見で生きる

先日、友人がこんなことを言っていた。
「自分はこれまでキーワードになっていた『思いやり・多角的な視野』を2022年に置き去って、2023年は代わりに『偏見』を持って生きたいと思う。」

偏見とは偏ったものの見方のことであり、多様性を重んじる現代の風潮においては基本的に腫れ物扱いされている概念なのは間違い無いだろう。

したがって、福永はやや危険であると感じた。
ここでいう危険というのはつまり、何をどんな立場から見たところで依然として確実に存在する「社会の風向き」というものがあり、イタズラに逆らうと時に皮膚を裂き怪我をするだろう、という、そういう危険である。

が、そういった一般論としての恐れを押しのけて。
一友人として、少なくとも彼個人にはとても有効そうな年内目標に思えた。
福永はその言葉の響きに甘美な雰囲気すら感じとることができた。




友人は以前から「人に嫌われないこと」を至上の目標としているタイプの男で、その理由は「嫌われるのが怖いから」だそうだ。

彼にとって、嫌われたくないという思いはおそらく呪いの一種であり、呪いが長じて「思いやりと多角的な視野」を高い水準で身につけた。
嫌われるのが怖かったから、嫌われないためにそういった能力を(きっと)必死で身につけたのだ。

彼とはじめて話した時の印象は柔和でクレバー
それは今でも変わらない。
呪いは人の性質を決定しがちである。
本人にとってネガティブなエネルギーと相殺する形で得た能力は、他人からはポジティブなものとして映る場合が決して少なくない、と感じる。

思いやりと多角的な視野を手にした。
長じて関わるほとんど全ての人が彼に好感を覚える。
それで、彼はどうなったか。

彼の言葉をそのまま借りると「不感症」になったのである。



心惹かれるものがある。例えば、とても良いと思う音楽がある。
その時、彼の中では「この音楽には…こういう角度から見るとこういう良さや機能があり、また別の角度から見るとこういう人には好かれないだろう」というような分析が長年の蓄積から無意識に行われる。
音楽系の職に就いている彼にとっては仕事上有効な能力として作用している。

が、なにしろそうやって距離を保ったまま見る角度を複数用意するうちに、瞬間手にしたはずの感動は薄く広く伸ばされてしまうのだ。

そうして、結局のところ意思決定ができない。
どういった角度からはどのように見える、ということが立体的に想像できればできるほど、それで結局「自分にとってはどっちが良いの?」というシンプルな主観に回答を委ねることができなくなるのだ。

…彼にとって「2023年を偏見に生きる」と宣言することは、おそらく勇気のいることであった。
自身が持つ呪いに対して、逆張りを行う難しさはきっと多くの人が知っている。

「偏見に生きる」という言葉自体に危険を感じつつも、彼にとっては有効に思えた、というのは、つまりそういうことである。

多くの人は、それぞれの心のうちに如何ともし難い呪いを抱えている。
その呪いに対しては、決して張り合わず、逆張りをして慰めるのがライフハックとして有効である。
例えば彼は、もう、人からあっさりと嫌われるような、傍若無人な振る舞いをすることは滅多にないだろうと推測できる。
どんなに意識上、わがままに振る舞おうとしても。
もはや「無意識」の領域がストッパー担当してくれる
無意識が勝手に担当するくらい強く、引き剥がしようのない性質、それに苦しむのが「呪い」である。
なら、裏を返せば、もうその無意識の性質は信頼に足る
意識して「思いやりを持つ」なんてことしなくても、十二分に思いやりのある人として機能するだろう、ということになる。

彼が偏見に生きる2023年が、福永はちょっと楽しみなのである。


偏見という言葉にまつわる別の小話がある。

吉祥寺にペンタという音楽用の練習スタジオがあり、aireziasはよく利用させていただいている。

ペンタの上階にはデイドリームという名前の小さなライブハウス・イベントスペースがあり、そこの管理・運営もおそらくペンタグループ(正式名称がわからないけど)が行なっているようである。

そしてその場所では定期的に
「表現者のためのメンタルヘルス講座」というイベントが開催されている。

これはどういったイベントなのだろうと興味をもった。
常日頃、多様性と論理の社会がもつ特徴として、個々人の感覚や納得に対する後ろ盾の無さを感じていたのだ。
それらを慰めるのはきっと、個々の思想あるいは村として機能する集落内の共生である。

さて、簡単に調べてみると、心理・社会学の分野の専門家、その中でも表現活動に特化している方をお呼びして行われる、トークセッションイベントのようだ。

最新の第8回についての企画者さんのツイートを眺めて見ると
クソなことはクソって言っていこうぜ、という回でした。(今回何回「●んで?」って言ったかな…笑)」

とある。

そして次回行われる予定の、第9回のタイトルは「表現とジェンダー平等と家父長制解体!」であり

「『家父長制』という人類の歴史の中で生み出された『呪い』を解きましょう!」という触れ込みで宣伝がされている。



この先が…どのように書いても多分、誤解が生まれてしまう内容になるので、この際それは仕方ないと腹を決めて書く。

正直な話、「おそらくこのイベントにおいては『Aが悪でBが正義』という文脈で語られるのだろう」という点について、福永としては違和感を覚えてしまったのだ。

イベントに行きもしないでそういった感想を抱くことがお門違いなのは百も承知なのだが、ちょっといってみようかな、という気持ちは上記のツイートを眺め見る過程で削がれてしまった
当然行きもしないでそんな、と言われてしまうだろうけれど。
これがまた、実際に、福永という一個人にとっては事実・リアルではあるのだ。

福永にとってフェミニズム家父長制といった内容は興味分野である。
専門として熱心に、というわけではないが、知るにつけ大変面白く興味深く、そして断言が難しい分野であると感じている。(もちろんまだまだ全くの勉強不足であると、決して謙遜でなく、強く感じている)

現代人が根底に持つ常識がいかに一時的で歪んだものか。
それは(フェミニズムに限らず)歴史をみて、さまざまな角度から現状を認知しようとする過程でボロボロと浮き彫りになってくる。

我々人間の認知というものは、例えば性欲の対象さえ、文化の影響を受けるのである。
性欲は、必ずしも「先天的な本能」ではない。
むしろ、その大部分が文化的影響下にある。

とある文化でタブー視される行いが、別の文化において神聖視されることすらある。

自分(あるいは他人)が何かを対象に欲情する、というプリミティブで感情的で個人的に思える点に関してさえ、調べてみるとそういった事実がわかる。

福永はそういうふうに、自分の常識が覆るのが好きである。

そして、こうした議論の中で、どちらが正義でどちらが悪、というのは「一概には言えない」というのが正直な感想である。
多分この辺りで…読んでいる人によってはイラッとさせてしまうかもしれない。その点は予め謝罪させていただきたい。

だからこそ様々なファクトを識り、なるべく多くの視点を持ち、いかに自らが無意識下でバイアスに溺れながら世界を認識しているか…という「無知の知」に近い自覚を持つこと、持つことができるように努めることが重要である、と感じるのだ。(一方で結局どこまでいっても全知にはなり得ない点について虚しさを感じる。そしてもちろん、そのほうが良いと思っていること自体も…結局のところ偏見である。)

その上で当該のイベントについて、少なくともツイートされているごくごく表層上の内容について言うのであれば…何か一方に対して「これは間違いである」そうしてもう一方に対しては「こちらが正しく心地よい」というジャッジがかなりしっかりと「為されている」ように感じたのだ。

それが、福永が抱いた違和感の正体であった。
そのジャッジは…果たしてどこ(誰)から見た時に、どのように行われたものなのか?



一方で自身の認知バイアスについて不信を強め、様々な視点から感想を持つように努めていくと…最終的には、表立って「自分にはこう言う意見がある!」と主張できなくなってしまう。

何か意見を抱いたところで、それが正しいかどうかはわからない。
否、正しさと間違いの区分は、どの視点から見るかに大きく左右される。
絶対的な正しさを見出すのは、極めて難しい(もしかしたら不可能な)のだ。

これは比喩なのだが、遠近法を想像して見て欲しい。

福永が今いる場所から絵を描こうと思う。
その時、平行なはずのモノが、視点の遠くで交わる。
これが透視図法における消失点ってやつである。
乱暴に言えば…福永の視点から見た時、それは平行ではないのである。
そして、福永がそのイラストを描く時、同じ時間に同じ場所から他の人が描写すると言う行為は物理的に不可能なのだ。
つまり、その瞬間のその景色は福永に固有のものである。

この時。
本来平行であるのだから「平行である」が正しいのか。
しかし。
福永以外の多くの人がその瞬間、それぞれ場所から見える景色を絵に描いたとして…
ほとんど必ず、どこかに消失点の存在する絵を描くはずである。

じゃあ「本来平行であるのだから」の「本来」ってなんのことなのか
何が本来で、何はバイアスなのか…それすら、語るのが難しい。

…以上、遠近法を用いた、比喩である。

単なる比喩ではあるものの、個々人の世界の見え方・認知について、同じようなことが言えるのではないかと思う。



…とはいえ。
社会的にマジョリティである人々に合わせて形作られた制度下でマイノリティである人々が抱える不平・不満は…
単純に認知されにくい
つまり、構造として、マイノリティである側が「声をあげる」ことなしにそれらが改善・払拭されたケースというのを…少なくとも福永はほとんど知らないのである。

遠近法の例だとか、バイアスがなんだとか、そんなクソまどろっこしい話はどうでもよくて、今現に苦しんでいて、それをどうにかしろ!と言っている。

友人に
ツイッターフェミニズム言葉遣いの荒さが理由で敬遠されてしまっているように見える。フェミニズムの認知を広めるにあたってむしろそういう行為が障壁になるというか、フェミニズムについて語ろうとするだけで腫れ物扱いされてしまうムードを作ってしまっていると思うのだ」

という旨を話したところ
今まさに嫌な思いをしていて、今にも溺れそうなのに、そんな、言葉使いなんて意識している余裕はない。SOS信号であって、火山の噴火なのだ」
「今はSNSを使ってそういうふうに声をあげる人がおり、抱え込まずに済むようになっただけでも良い風潮なのだと思う」

というようなことを言っていた。
その話を受けても尚、福永は個人的には、マグマをそのままSNSに流すことはフェミニズムの頒布を妨げるきっかけになっているように感じている
現に福永はラディカルフェミニズムに対しては腫れ物のように感じてしまっている。
安易に触れると怪我しそう…というイメージが先行してしまっているのだ。
そして、そう感じる人が性別・性自認等問わず一定数いるように感じる。

さて、だが、何しろ、マイノリティから声があがらない限り、悩みが悩みとして顕在化しないのも明らかに事実なのだ。
マジョリティは、マジョリティである限り、普通にマジョリティにとって暮らしやすい制度で暮らしていたら、マイノリティの苦しみに気づくことができない。「できない」と言い切って良いくらいである。
その点は全ての人がしっかりと自覚をしたほうが良いだろう。

ここで思い出されるのだ。
「2023年は偏見に生きる」という、友人の言葉が。

たくさんのファクトを識り、バイアスを自覚し、思いやりを持って、様々な角度から物事を見るようにすればするほど、何かを主張することは難しくなる。
これは友人が音楽に対して抱えた「不感症」に近い

ここにおいても、どの立場がどのように正しい、といった点について、福永はなんら言及できない
どの立場にはどのような見え方がある、ということを、少なくとも福永の目に見える歪んだ景色を、こうして書くのが精一杯である。
その点については大変申し訳ない気持ちがあるが、福永という人間は今せいぜいその段階である。

とはいえ
「どのように書いても多分、誤解が生まれてしまう内容になるので、この際それは仕方ないと腹を決めて書くのだが」

という断りを入れた上でこのように文章として公開するに至ったのは…

ここにきてやはり偏見、つまり主観を持つこと(あるいは必ず持ってしまうこと)の重要性が、友人の一言によって浮き彫りになったという現在の福永の経過が影響していることは間違いない。

一種、清水の舞台から後ろ飛びする気分で、ここまでの話を書いている。
ネガティブにつけ、ポジティブにつけ、なにかしらの感想がめくれ上がる端になったなら良い。そんな気持ちである。



福永が好きな作曲家・ギタリストにフランシスコ・タレガという人がいる。
1852年誕生。1909年没。だから結構昔の人である。
ジャンルで言えばいわゆるクラシックに当たるのだと思う。
それこそ、ジャンルという区分けについても…どこに閾値を持ってくるのか疑問ではあるのだが、ここでは便利グッズとして使ってしまおう。

彼は幼少期に事故(というか事件というか)で視力が悪くなり、それがきっかけで両親から音楽を勧められた。仮にこの後視力を失ったとしても、稼ぐことができるように手に職をつけたい、という両親の配慮である。
10歳くらいの頃にはもうギターがうまくて、近所で評判であった
既に酒場で演奏してお小遣いをもらったりしていたようである。

ややあって、音楽学校に通う際、タレガのは「ぜひピアノを習って欲しい」と強く要望する。
1860~1870年代当時、世の風潮として、ギターは「酒場のシンガーが使う伴奏楽器」で「ソロ楽器としてはピアノこそ高貴なものだ」という世相があったのだ。
タレガの父は賢く時代を見抜き、息子にピアノを勧めた
そしてそもそも、当時ギター科というアカデミックな区分けは存在していなかったらしい。
しかしタレガ自身は、学校でピアノやチェロを学びながら、片時もギターを手放さなかったそうである。

そんなにギターを手放さないなら、と、彼の周りの人が、学内で彼のギターコンサートを企画してくれた。
そうして少しずつ彼のギターの腕は注目を浴び始め
「君の才能を本当に発揮できるのはギターの響きだ」
というようなことを教授から言わしめた。

そんな局面に至って彼は

「自分は、ギターを使ってソロ楽曲を作っていくのだ」

という意思を固めたようである。

そんなフランシスコ・タレガの楽曲は没後110年余、spotifyを通じて、福永の心を魅了している

そして、拙いながらも彼の曲のうち気に入ったものを一生懸命練習して、なるべく彼の中にあった思惑を自らの手で再現してみようとする。
こういう時間が福永の趣味の一つになったのである。

彼の曲を実際に弾いてみると
彼に対して時代背景が及ぼした影響が垣間見える。

開放弦の使い方、異弦同音の使い方、調の選び方…
つまるところ、表現の根底に「ピアノとの差別化」が根付いているのだ。
ソロ楽器として当時、極めて流行の風に阻まれていたギターという楽器に対して、なんとかして尊い表現を染み込ませたい、というような…偏愛

そう、偏愛を感じるのだ。
ギターという楽器に心を決めるのが、明らかに損で、賢くなかったとある時代に、ギターを選ぶ、その覚悟、そういう偏った愛である。

彼の曲は他でもない、ギターで演奏するのが美しいようにできている。
あるいは、他の楽器では演奏できないような技法を使われている。

その上でスポーティではない。
実際にはスポーツとしての難易度も福永なんかからしたら十分高いのだが、彼の真骨頂は楽曲の情緒・美しさである。(安い表現で申し訳ない)

クラシックの一つの見せ方として、極めて難度の高いものを弾きこなす、という形で神聖性を保っているものがある。
これはこれで一つの極地であり、美しさがあるのだと思うのだが、福永はあまり心惹かれない

フランシスコ・タレガは演歌的である、という評を読んだことがある。
確かに、明確でわかりやすいメロディがあり、情緒に富んでいて、そういう評され方をしてもおかしくはないのかもしれない。
少なくとも技巧や抽象性にこそ美を求めるリスナーの耳には一切忖度しない形で彼の楽曲は制作されているように思う。

110年近く前の、変わり者。
変わり者というのは、その時代において、なんらかの偏った価値観を持って生きるもののことである。
何を好み、何を嫌う。
何に熱中し、何に興味を持たない。
それは広義には主観に傾斜したファクト認識、すなわち偏見である。

時代のニーズにたいして真正面から取り組むのではなく、自らの歪んだフィルターを介して生み出された楽曲たち。
ピアノを選ぶことができる機会があったにも関わらず、流行から遠いギターを選んだ精神性。
あるいは、生まれ持った(持ってしまった)能力特性。
その上でフィジカルに訴えることなく保たれる美。

その偏りが今、時を超えて、福永のことを惹きつけるのだ。
気持ちの良い、最小限の楽曲。
ギターという楽器を愛する110年後のとあるヒゲ野郎に、タレガ(彼もまたヒゲ野郎である)のギター偏愛が、曲を通じて流れ込んでくる。
音選びやフレット選びに、鳴らし方に。
偏った意思が滲んでいる。



今日の話は「偏見」というワードをベースに書いているのだが、こんな風に、偏見がこそ時を超え人を伝達していく場合の例というのもまた、実体験と共に挙げておきたいと思ったのだ。

今の世の中では偏見は、ダイバーシティを妨げるものとして蔑視されている。それはある程度的を射ているとも思う。

だが、極論、偏りのない場所には。
発言も、思想も、主張も、作品も、情緒も、感動も…何もかも生まれ得ない。
ツルっとして、全てが軒並み無害である、という害がある。
全ての偏りを正確に埋めていった先にある世界は不感症の世界である。

一方で、偏りによる不利益や悲しみ、実害が野放しであるのが良い、というふうには全く思わない。由々しき状態である。
そして、おそらく。
これは矛盾することなく共存できる概念のように見える。

だから別に偏りのある世界をそのままにせよ、とか、そういう安直なことを言っているわけではないし、そもそも達人が日本刀で切るように概念にスパッと気持ちの良い線引きができる機会は…ほとんどないように感じている。

結局今のところ、考え続けていくしかないな、という感想しか漏らせないことが悔しくはあるのだが、でも実態として、今の福永の段階は、少なくともそういう状況である、ということをここに表明する。
これもまた、一つの主張である、と、信じたい。
そういう「滲みのある主張の形」を認める姿勢の中にも、多様性の包含が見つかる、例えばそんな言い方だって、できるのかもしれない。



昨日、アブサンを飲んだ。
アブサンとはにがよもぎなどを使った薬草種である。

アブサンファウンテンという器具があって、細部まで良く装飾された綺麗な道具である。
見た目の風情で言うと古典的な水出しコーヒー機(?)や、シーシャのやつに近い。
小さな水道の蛇口のような機構を捻ると、水がポタポタとごくわずかに滴ってくる。
大きく派手な見た目と対照的に、なんとアブサンファウンテンの「機能」は水がポタポタ垂れる、ただそれだけである。
(しかも後で調べてみると…値段も結構高い)

これまた執拗に細かく綺麗な装飾が全体に掘り込まれたグラスの中に、1/6ほどアブサンをストレートで入れる。
その後、アブサンファウンテンを使って、水をちょっとず〜つ垂らしていく。

するとグラスの中のアブサンが白濁してくる。
そして、少しずつ垂れる水滴の弾きに乗って部屋中にアブサンの優雅な香りが広がってゆく。

こうして出来上がるのが正式なアブサンの水割り、らしいのである。

機能的に言えば。
アブサンをコップに入れて水を入れりゃあ、アブサンの水割りは完成なのだ。
にも関わらず、ずいぶん仰々しい器具を用いて、たっぷり3分もただただ滴る水滴を眺め、水と化学反応を起こすアブサンの色合いと広がる香りを楽しむ。(味がマイルドになると言う意味合いもあるらしい)

余計の極地である。
しかしこれが、きっと、人間にとって余計ではないのだ。
偏見・偏愛が生んだこうした余計な時間を失った時、人は、寂しくて死ぬのだ。
食う寝るヤるが達成できているにも関わらず、人はさみしさを覚える。
それは死因にすらなりうる。致命的な欲求である。

そう考えると。
仰々しいアブサンファウンテンやきめ細かく掘られたグラス、やたらに長い待ち時間、そしてアブサンが香るということ、色が変わるということ、ボトルのラベルが非常に可愛らしいイラストであること。
そういう偏屈な愛。その制作過程に関わる人や、それを受け取る人は。
なんとか生命を続けようと思えるような、極めて軸足の重心に近い充足を味わったのだろう。

「その必要」があったから、アブサンはそんな余計な淹れ方をするのだ。




正式な「アブサンの水割り」を出してくれたお店は古書店でありながらブックカフェでもあり、ずらりと並んだ本の質には極めて偏りがあった。
主にはカウンターカルチャー。

このお店は15年ほど継続しているものの、売り上げはさほどなく、ほとんどボランティアのような人が集まって店番をしてなんとか繋いでいるのだそうだ。
その存在の仕方自体が、資本主義に対するカウンターになっている点に変に感心をしてしまった。

ここまでくると偏見というよりただの偏った好みの話に近いが、いわばその線引きにしたってそう簡単なものではない。
こんなエピソードを食後の茶菓子として、本日のnoteを締めようと思う。

アブサンの香りを鼻の奥に忍ばせたまま、帰り道、わざと最寄りの一駅前でホームに降り立った。
そうして、余計に20分歩きながら、明日書くnoteのテーマは「偏見」になるであろうことをなんとなしに予期したのであった。




本日はこれでおしまいです。

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