お題:外骨格

痛みに耐えるために僕らは心を閉じる。切りつけられたり、誰かとの交流の事故で傷んだ心の薄皮はしだいに厚くなり、色を失い、黒ずんだ鉄のように硬くなっていく。弾力を失い硬くなった表面に包まれた心はもう何からも揺らされることはなく、接触により形が変わることもない。心はそれを守るはずの表皮に遮られ、もはや内側でしぼむことしかできない。

入院したのは四人部屋だった。ドラマや物語での入院といえば個室とだいたい決まっているのだけれど、現実はそうはいかない。個室に入るためには無駄にお金を出す必要がある。僕はまだ若者で、お金もない。財をなせなかった高齢のひともまたお金がなく、僕は高齢者に挟まれるベッドに備え付けられることになった。

僕のベッドの右のひとは他人の行動にいちいちケチをつける。看護師の手際のレビュアーになるし、僕も細心の注意を払って音を出さないようにするハメになる。「うるさい」なんて何回も言われるからだ。とは言っても彼はイヤホンのみ可の場所で大音量でテレビを見るし、大きな独り言をする。他人と自分とで同じ評価軸を引くのは難しい。どうしても僕もいらだってしまう。

彼に見舞い客が来ないのに気づいたのは入院3日ほど経ってからだった。妻、娘、同僚、友人…… 夕方どきには病棟がみんな少し騒がしくなる。見舞い客がそこかしこで病人と会話する。何が欲しいかだとか、仕事の現況、孫の成長を祝ったり、遠い親戚の出産に喜んだりしている。そんな時間帯に彼はいつもベッドにいない。いつの間にかどこかに消えている。見舞い客と一階のレストランにでも言っているのかと思っていたが、そうではなかった。

彼は公衆電話の前にいた。とは言っても電話を使っているわけではない。電話機の前のイスに座って、誰もいない方向を向いているのだ。僕は見舞いに来た友人と話しながらそのことに気づいた。友人との会話の合間、ふと周りを見渡すと、日々口うるさい彼が一人ぼっちで座っていた。いつものスキあれば人を傷つけようというような覇気は感じられない。彼の周りだけが世界から取り残されている。点滴が繋がった彼はとても弱々しく見えた。

電話を誰かが使うときに彼は立ち上がり、通路のはじっこで人々を見ている。その瞳は乾き、光はない。誰かを咎める目ではなく、すべてを諦めた目だ。彼はどんな人生を送り、ここにたどり着いたのだろうか。深く刻まれた皺。抜け落ちた髪の毛。たった一人で入院し、誰からも見舞われることなく、決まりのわるい病室を避けて一人で時間を潰す。もはや誰かを羨むのでもなく、小言を繰り返して消えそうな自分を社会からギリギリで守っている。繰り返される小言は誰かを批判するためではなく、自分の輪郭が潰されないための反抗の言葉なのだ。それに気づいたとき、僕はそれが外骨格のように見えた。

彼がまとう強がりの外骨格の内側に何が隠れているのか誰も知らないし、誰も知るよしもない。今日もまた彼は同じベッドの上で看護師を批評し、周りの入院患者に文句を言っているはずだ。そして面会時間になるとそそくさとどこかに消えるのだろう。そうやって彼は自分を消してしまわないようにしている。

僕らもまた外骨格をまとっている。世界に潰されてしまわないように。社会に消されてしまわないように。外骨格の中身は誰も見ることができない。僕はただ、ゆっくりとした穏やかな終わりがくることを祈る。隣のベッドの彼と同じように。

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