見出し画像

グレイシー柔術の起源とは何か ロバート・ドリスデール『OPENING CLOSED GUARD』について

 グレイシー柔術の〝起源〟とは何か。

 今や世界規模で行われるようになった総合格闘技において、グレイシー柔術(ブラジリアン柔術)の技術習得は必須となっている。現在もなおMMAシーンを牽引するUFCの第一回大会(1993年11月12日開催)で、ホイス・グレイシーがボクシングや相撲、空手といった数多の格闘家を退けて優勝したことで、その技術体系はブラジルの一部地域を超えて、世界各地へと伝播していった(ちなみに、日本ブラジリアン柔術連盟のHPには、国内だけで300を超える柔術アカデミーの登録がある。そのほとんど全てがこの30年ほどで開設されていることを考えれば、急拡大と表現して差し支えないはずだ)。

「ブラジリアン柔術」と聞けば、総合格闘技に親しんできた方のなかには、UFCでホイス・グレイシーがもたらした衝撃をリアルタイムで経験した向きもいるかもしれない。あるいは、PRIDEヘビー級でのアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラのサブミッションの多彩さに夢中になった人もいれば、朝倉未来を破ったクレベル・コイケはじめ国内MMAシーンにおいて活躍を続けるボンサイ柔術が真っ先に頭に浮かんだ人もいるだろう。ブラジリアン柔術、そして柔術家は総合格闘技という領野のなかで、今もなお大きな存在を示している。

 日本にすでに存在していた柔道とも異なる、この技術体系はどうして生まれたのか。北米を中心に世界各国で普及しているブラジリアン柔術だが、じつは、その〝起源〟は長いあいだ曖昧なものであり続けてきた。というのも、その成立過程は現在のブラジリアン柔術の始祖というべきグレイシー一族によって自ら振り返られることが多く、そこで語られる歴史の真偽を史料から検討することはこれまで難しかった(日本からブラジルへの柔道/柔術の伝播は100年以上前にまで遡る)。

 グレイシー一族による「自伝」としての側面が強いナラティブが北米やブラジルで「正史」として流通する一方、日本ではブラジル柔術の始祖として前田栄世(コンデ・コマ)の存在がなかば伝説的に記述されることが多かった。

 上述したような「通説」では、ブラジリアン柔術の〝起源〟は次のように語られる。

「前田がカーロスに教えた柔道がグレイシー柔術の源流だと言われている。しかし、柔道をそのままに彼らが受け継いだわけではなかった。柔道は改良に改良を重ねられてグレイシー柔術、つまりはブラジリアン柔術と呼ばれるものへと形を変えていったのである」*1

 ブラジリアン柔術の〝起源〟はこのような「前田-カーロス神話」によって語られてきた。

 ところが、近年ではブラジル国立図書館アーカイヴのデジタル化によって、当時の新聞報道などからその歴史的事実に光が当たり始めている。日本の柔道がどのようにブラジルへと伝わり、グレイシー一族以外も含めたどのようなアクターがブラジリアン柔術の変遷に携わってきたのかが明らかにされつつあるのだ。だが、その成果の多くは日本にほとんど導入されていない。

柔術研究のブレイクスルー

 代表的な文献としては、ロバート・ペドレイラによる浩瀚な三部作『チョーキ ブラジリアン柔術の知られざる物語("Choque: The Untold Story of Jiu-Jitsu in Brazil")vol.1~3』(2015年)がある。『チョーキ』シリーズは三部作を通じて1700頁を超える大著であり、1856年のブラジル国内の格闘技を巡る状況から、柔術が世界的な普及をみせる1999年にいたるまでが膨大な史料とともに記述されている。

 また、『チョーキ』の成果を引き継ぐように、ブラジリアン柔術の黎明期における関係者へ取材を行った様子をドキュメンタリー映画『クローズド・ガード ブラジリアン柔術の起源("Closed Guard: The Origins of Jiu-Jitsu in Brazil")』(2020年)と、映画には収まりきらなかったインタビューなども収録した書籍版『オープニング・クローズド・ガード("Opening Closed-Guard: The Origins of Jiu-Jitsu in Brazil: The Story Behind the Film")』(2020年)が続く。いずれも柔術家/総合格闘家であり、アブダビコンバット無差別級(2007年)や世界柔術選手権(ムンジアル。2005年)でも優勝経験を持つロバート・ドリスデールによる取材が結実したものだ(日本のMMA団体への参戦経験はないが、UFC人気を牽引したリアリティー番組「TUF(The Ultimate Fighter)」で柔術のコーチとしての出演を今でも続けているので、彼の姿を見たことのある日本の格闘技ファンもいるだろうと思う)。

Robert Drysdale, Opening Closed-Guard: The Origins of Jiu-Jitsu in Brazil: The Story Behind the Film, Independently published, 2020

 このブログでは、まず最新の成果の一つであるドリスデールによる『オープニング・クローズド・ガード(以下、OCG表記)』を中心に、これまでの通説と異なる相貌を現しつつあるブラジリアン柔術の歴史について書いていきたいと思う。

〝創始者〟は誰なのか?

 ブラジリアン柔術を〝創った〟のは誰なのか。

 この問いに明確に答えることは難しい。つとに指摘されているようにブラジルへと渡り、グレイシー一族に、後に「ブラジリアン柔術」として完成する技術体系の一部を伝えた可能性が高いのは前田光世である。

 しかし、前田は講道館に所属していた「柔道家」であり、かつ、ブラジルのベレンで柔道を教えていた期間は1916年~1919年のあいだ、およそ3年弱と短いものだった。前田がそこで伝えた技術体系が、現代の私たちの想像する「ブラジリアン柔術」――引き込みや寝技で下からの豊富なサブミッションを特徴とする格闘技だったのかについては疑問が残る。

 前田は講道館柔道の世界普及のために、まず1904年にアメリカへと渡り、それからメキシコ、キューバと南米各地を巡っている。そのすべてがリアルファイトであったかどうかは不明だが、特にレスラーを相手に多くの他流試合をこなした前田は事実ベースにおいても、アームロック(腕絡み)などのサブミッションで勝利を収めている。ただし、前田の渡米以前、すでに講道館柔道は関節技や絞め技よりも投げ技への傾倒を始めており、講道館との関係性も維持していた前田があえて寝技に特化した技術体系をブラジル・ベレンで指導していた可能性は低いように思う。

 ドリスデールは『OCG』のなかでエリオ・グレイシーらの世代までで練習されていたのは、前田の伝えた柔道をベースとしつつ、日本の講道館から切断された状態で練習・伝承された「ブラジリアン柔道」というべきものだったのではないかという興味深い指摘をしている(ブラジリアン柔術が現在の形へと進化・変遷したプロセスについて、ドリスデールは『OCG』に続く新作 "The Rise and Evolution of Brazilian Jiu-Jitsu"[2023年]で独自の取材と分析をしているので、また別の回で紹介したいと思う)。

 少なくとも、前田がベレンで伝えた技術体系が、今の「ブラジリアン柔術」にそのまま相当するものだったと考えることは容易ではない。

 では、前田以外の誰がブラジリアン柔術を創ったのか。

 冒頭で触れた「前田-カーロス神話」と同様に、グレイシー史観では「エリオ・グレイシーがグレイシー柔術を創った」と強調される。前田の弟子であった(と主張される)カーロス・グレイシーの弟にあたるエリオは柔術アカデミーを引き継ぎ、1951年の木村政彦戦など多くのリアルファイトを戦った。息子のホイス・グレイシー(六男)は現在の総合格闘技の礎を築いたUFC第一回大会と第二回大会を連覇し、ヒクソン・グレイシー(三男)は日本の格闘技/プロレスファンにグレイシー柔術の強さを思い知らせた。

 日本でも馴染みの深いヒクソンやホイスの柔術アカデミーには、講道館に嘉納治五郎の銅像があるように、エリオの肖像写真が掲げられている。グレイシー一族の象徴として、エリオの存在はブラジリアン柔術の創始者ともいうべき扱いを受けているのだ。エリオ自身も、2007年に行われたブラジルのTVにおけるインタビューで、「柔術はブラジルにやってきたものではない。私が柔術を創った」「カーロスが練習していたのは柔道だ。私はそれを改善して柔術を創った」と答えている*2。

 しかし、この「エリオ・グレイシーが〝柔術〟を創った」という言説は、古くから流通しているものでは決してない。それらは、事後的にグレイシーの関係者によってつくり上げられた自己宣伝に近いものと言える。

 たとえば、2001年に行われた米雑誌『プレイボーイ』でのインタビューでは、「私は(すでに存在している)柔術を自分の特徴に合うように修正した」「わたしたちの家族は今でもなお、柔術の伝統に忠実だ」と述べており*3、日本から伝わった「柔術」が先に存在しており、それを引き継ぎ、修正したものとして「わたしたちの柔術」があるという認識を示している。

 この『プレイボーイ』誌でのエリオの見解は歴史的にも正しい。ここでは詳しく触れないが、講道館柔道が嘉納治五郎によって創設された1882年前後、およそ167におよぶ柔術の諸流派がすでに存在していた。

 つまり、「柔道」は明治期に独立して発生した技術体系ではなく、中世の鎧組討(合戦時の近接戦闘・捕縛技術)に起源を持ち、確認できる最も古い流派としては室町時代後期に発生した竹内流小具足腰の廻(こぐそくこしのまわり)など、無数の柔術諸派の影響のもとに生まれた〝一つの流派〟である。グレイシー柔術もそれら複数形の古流柔術、講道館柔道の系譜に連なっている。

 では、日本人の前田光世から伝わった柔道/柔術をエリオ・グレイシーが独自に発展させたものが「グレイシー(ブラジリアン)柔術」であるといえるだろうか。この問いにも明確に答えることは難しい。『チョーキ』以後の柔術研究が明らかにしたのは、起源を同定することのできない、複雑で曖昧な「ブラジリアン柔術」の揺籃期だ。

柔道とブラジリアン柔術、いくつかの分岐点

 たとえば、エリオ直系の弟子筋であり、世界で最も成功している柔術アカデミーの一つを米マイアミで運営するペドロ・ヴァレンテはエリオの存在よりも、1967年の「グアナバラ柔術連盟大会」のインパクトを重視する。

 ヴァレンテは『OCG』でドリスデールのインタビューに対して、こう答えている。

「エリオ先生はいつも私に、『私は柔術を教えている。柔術は日本の技術であり、私は何か新しい格闘技を創ったわけではない』と言っていた。先生は独自の方法論を持っていたけれど、(柔道/柔術と)まったく異なる技術体系を生み出したわけではない。(中略)新しい技術がつくり出されたとするなら、それは1967年の〝連盟〟ができたときではないかと思う。そのとき、彼らはスポーツとして柔術を行うための新しいルールセットをつくった。そのルールはブラジルにおいて生み出されたものだ」*4

 1967年6月10日、グレイシー柔術アカデミーをはじめとした12の柔術アカデミーが集った「グアナバラ柔術連盟」が結成され、最初の大会が開かれる。そこで定められた「柔術」の試合ルールとは以下のようなものだ。

1)完全なテイクダウン 1ポイント
2)マウントポジション 1ポイント
3)バックコントロール 1ポイント
4)全面的な優勢    1ポイント
5)リング外への逃避、ギを脱ぐ マイナス1ポイント

 ドリスデールは「グアナバラ柔術連盟大会」に先立つこと13年、1954年に行われたグレイシー柔術アカデミー内での「道場トーナメント」とのルールセットの差異に注目している。

 1954年時点では存在していた「不完全なテイクダウン」への0.5ポイントがなくなり、同様に30秒間の抑え込みに対する1ポイントが「グアナバラ柔術連盟大会」では撤廃されている*5。現代柔道でいうところの「技あり」や「有効」に相当する投げ、そして「抑え込み」への加点が1967年の段階で消えることになる。

 後に、「グアナバラ柔術連盟大会」は1975年時点で締めや腕十字、足関節それぞれにポイントを付与し、マウントポジションやバックコントロールによる加点をテイクダウン(投げ技)よりも重視する。そして、30秒間の「抑え込み」はマイナス2ポイントという、現在のブラジリアン柔術へと通じるルールセットへと接近していく。

 ドリスデールは1954年の「グレイシー柔術アカデミートーナメント」、1967年と1975年それぞれの「グアナバラ柔術連盟大会」、そして現在の国際ブラジリアン柔術連盟と地続きである1994年の「ブラジル柔術連盟(CBJJ)設立」という段階を経て、前田光世が伝えた柔道/柔術が漸進的に現在のブラジリアン柔術へと変貌したと考えている。

 エリオの直系筋にあたるヴァレンテもまた、1930~1940年代に他流試合を戦っていたエリオ・グレイシーよりも、その後に起こったイノベーションの方にこそブラジリアン柔術の特異性があると捉えているのは、先のインタビューからも分かる。

 このような前提のもとで、エリオ・グレイシーが1951年に戦った木村政彦ら日本の柔道家たちとの試合映像を見ると、エリオが立ち技(投げ)の力量で圧倒的に差をつけられながら、まったく引き込みをしないことにも納得がいくように思える。

 現在のブラジリアン柔術家であれば立ち技で上回る柔道家を寝技に引き込み、自ら下になって戦うだろうことを考えると、確認できる相手と四つに組むエリオの戦い方はむしろ柔道のそれに近い。試合映像は残っていないが、小野安一との1935年に行われた試合でも、エリオは「27回」も小野に投げられているという記録がある*6。

 さらに言えば、1967年の「グアナバラ柔術連盟大会」には「講道館アカデミー」が参加していたとする当時の地元紙報道がある*7。もしこれが事実であるならば、1967年時点においても、リオデジャネイロで「柔術」と「柔道」との差異はそれほど明確ではなかった可能性が高い。

 ブラジルに伝わった柔道/柔術はある日、截然とブラジリアン柔術へと変化したわけではない。現代のブラジリアン柔術の礎を築いたブラジル柔術連盟(CBJJ)の設立が1994年であることを踏まえれば、第1回UFCが開催された1993年段階においても、この技術体系は進化の中途にあったともいえるかもしれない(初期UFCで、ホイス・グレイシーは決して自ら引き込みを多用するわけではなかったことを思い出してもいい)。

カーロス・グレイシーは本当に前田光世の弟子だったのか?

 最後に、もう一つグレイシー柔術の〝神話〟のもとで抑圧されている歴史を紹介して、このブログを閉じたい。

 世界的に流通している前田-カーロス神話では、前田光世から「柔術」を教わったエリオの兄であるカーロス・グレイシーが1925年にリオデジャネイロに「グレイシーアカデミー」を創設したことになっている。管見の限り、日本語の文献でもほとんどすべてがこの歴史認識に基づいて書かれている(日本ブラジリアン柔術連盟のサイトにも同様の記述がある)。

 しかし、『チョーキ』以降に行われた国立図書館のデジタルアーカイブ調査によって、この神話もまた事実と異なることが明らかになっている。

 実際に、リオデジャネイロの同地に柔術のアカデミーができたのは1930年であり、その名前は「フア・マルケス・ド・アブランテス・アカデミー」といい、オーナーは前田がベレンにいた頃の教え子の一人であるドナト・ピレス・ドス・レイス(Donato Pires Dos Reis)だった。このアカデミーにカーロスはアシスタントとして所属していた*8。後年、公職に就いたドナトがアカデミーの運営をカーロスに引き継ぎ、それが「グレイシーアカデミー」としてリブランドされたのが実態である*9。

『OCG』のなかでは、ベレンでの前田光世の弟子のリストのなかにカーロス・グレイシーの名前が見つかっていないことや、カーロスの娘であるレイラ・グレイシーが「カーロスは(ベレンにいた頃の)前田の弟子であるハシント・フェッロ(Jacyntho Ferro)に教わっていた」という証言が引かれている*10(ちなみにフェッロはドナトにも前田から教わった「柔術」を教えている師弟関係にある)。

 重要なのはカーロスも、前田が去った後にカーロスに「柔術」を教えていた可能性のあるフェッロもドナトも、いずれも前田から正式に段位を受与されていたわけではないということだ。つまり、非公式的にベレンで伝えられた技術が本国・日本と切断され、講道館柔道とは“また別の”技術体系が形成されていく。

 まとめれば、ブラジリアン柔術の〝起源〟は数々の神話で語られているような、誰か個人に帰属できるものではない。そして、引き込みや「下から攻める」グラウンド技術の多くは、これまで考えられてきたよりも、ずっと後年になって進化・発展した可能性が高いだろうということだ。

 特定の起点を名指そうとする欲望はブラジリアン柔術のケースにとどまらず、その他のあらゆる文化伝播や制度が歴史化されるプロセスにおいても付き纏う。単線的でなく、ゆるやかに、そして一概に進歩とも言えない制度の変化をつぶさに見ていくことが、そのような〝物語化〟への抵抗になるはずだ。

 一点、公平を期して述べれば、グレイシー柔術の黎明期において、キャッチレスリング(≒ルタ・リーブレ)やフィクスドファイト(八百長試合)が横行する中、エリオ・グレイシーだけは異種格闘技戦を行う際にリアルファイトにこだわり続けた。兄弟のジョージ・グレイシーは数多くの他流試合に臨み、多くの勝利を収めているが、そのうちのいくつかはフィクスドファイトであった可能性が高い。

 エリオが徹底的に〝真剣勝負〟の他流試合のみを行ったことが、キャッチレスリング(ルタ・リーブレ)や柔道といった、より人気があったり、国際的な地位を築いていた他の格闘技に吸収されることなく、「グレイシー柔術」が存続し続けた理由であることを最後に書き添えておく。

(つづく)

 註

1) 近藤隆夫著『グレイシー一族の真実 すべては敬愛するエリオのために』(文藝春秋、2003年)25頁
2)Robert Drysdale, Opening Closed-Guard: The Origins of Jiu-Jitsu in Brazil: The Story Behind the Film, Independently published, 2020, 13P. 以下、引用される英文献はすべて抄訳。
3)“Helio Gracie 2001 Playboy Interview”, Global Training Report, 1 January. 2005, https://www.global-training-report.com/helio2.htm
4)Drysdale, Opening Closed-Guard, 355P
5)Robert Drysdale, The Rise and Evolution of Brazilian Jiu-Jitsu: From Vale-Tudo, to Carlson Gracie, to its Democratization, Independently published, 2023, 125P
6)Jose Tufy Cairus, "The Gracie Clan and the Making of BJJ: National Identity, Performance & Culture, 1905-1993", York University, 2013, 100P
7)Roberto Pedreira, Choque: The Untold Story of Jiu-Jitsu in Brazil Volume 3, 1961-1999, CreateSpace Independent Publishing Platform, 2015, kindle No.2174
8)Roberto Pedreira, Choque: The Untold Story of Jiu-Jitsu in Brazil, 1856-1949, CreateSpace Independent Publishing Platform, 2014, kindle No.2519
9)Drysdale, Opening Closed-Guard, 151P
10)Drysdale, Opening Closed-Guard, 26P

後記

 ほとんど誰にも読まれない可能性のあるこのブログですが、ドリスデールの『オープニング・クローズド・ガード』の内容を三回くらいに分けて書くところまではとりあえず続けてみようと思っています。励みになるので、少しでも面白いと思ってくれた方はいいねを押して頂けたら嬉しいです。