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神様を信じる強さを僕に(生きることをあきらめてしまわぬように)

「感動死」しそうになったことがある。糖尿病の数値が最悪だった2023年1月27日金曜日、そうとも知らず曽我部恵一さんと大森靖子さんのツーマンライブに出かけ、先攻の曽我部恵一さん『満員電車は走る』で予期せぬ慟哭(嗚咽と震え)に襲われ、体幹(お腹だか背中だかの筋肉)が激しくつってしまい、これかなりヤバいやつ?と全身の緊急事態に脂汗をかきながら耐えた(この動画にある『満員電車は走る』18分20秒くらいから)

糖尿病、というか基礎疾患のある人は曽我部恵一さん(サニーデイサービス)のライブ、行かない方がいい。



先週末、神が悪フザケした。久しぶりかも。とにかく恥の多い、土日の人生だった。

夕方から送別会があり、早い時間にスタートしたので一軒目を追い出され、二次会どうする?ってなり、いい感じに酔いもまわった発起人(いい人だけど佐吉)が呼び込みの女の子につかまり「では行ってみますか~? リーダー」そのあたりから年長のわたしがリーダーに任命された(最年長の方は佐吉成分が多め。なのでバトンは次に年長で藤吉なわたしに)

※「藤吉ー佐吉問題」についてはこの note 前々回『内向的な私(マルハラ派)が潜伏する為の二段階革命』参照願います!)

どこかハリボテ感のある、特設会場みたいなそのお店では、ヤンチャで天然っぽい若い店員が、持ってきた男梅サワーのグラスを、今回送別される方のスマホの上にポンと乗せてしまい「コースターかよ~」と一同大爆笑。バックヤードに見えた、ようやく気づいた天然くんの、怒りをかみ殺す表情(と、確かにウケる絵面と)

宴もたけなわ、トランプ片手にテーブルにまわって来た店員が「手品🎩」をリクエスト(良かったらチップをくれと)。どうします?やります?はいリーダー決めて!からの空気を読ん(だつもり)でノーサンキュー🙅(トランプマンの顔も見れず)後から「やると思った」と言われる役もキッツイ !

「三次会どうします?はいリーダー決めて!」(飲みに行くと必ずや発生するこのやり取りもアルハラの一種だよね)「今日はこの辺で🙅」を言わせられる役~ みたいな。ヘタレ過ぎる、けど。佐吉成分多めのわたしにはとってもツラく、「桃子」になって固まっちゃう状況を、神様が我に与え…たのが土曜日で。

二日酔いの翌日は、予定していたZoom会議の参加を取り止めて、この『note』で前回と前々回に引用させていただいた『坂本龍一と中国の時間』(『群像』2024年3月号)の作者、片岡大右さん、劉争さんが登壇されるトークライブに出かけることにした(これがわたしの日曜日さ! )

ところが…会場となる銀座の書店に到着してから勘違いに気づいた。この単向街書店というのは中国の書店(の日本店)らしく、今回のトークライブは大陸の人、および日本にいる中国の方に向けた企画だったようで、ほぼ全編チャイニーズで行われ、何が話され、何が聞かれ、何が問われ、何で笑ってるのか、の一切合切が、ここにいる人たちの中で自分一人だけまったくわからないという状況になってもうた。愛想笑いすら許されない地獄の2時間を、神が我に与え給うた。

賜物として、勉強になった。普段、会合とかで中座する際でも、とりあえず話の切れ目でタイミングはかって席を立つじゃないですか。言葉がわからないということは、席を立つことも許されない ! ということだ(『中座するための中国語』学ぶの今からでも遅くはない !)

片岡大右さんは日本語で話してくださったので、加藤周一の棺に納められた3冊(聖書、論語、カント)の、カントであることの必然性への批判(なんならヘーゲルやキルケゴールを多く語っている)や、自律性(一人ひとり考えることが大事)と集団的なもの(の『解体』を望んでいるわけではない)だとか、つまり普遍と集団、あるいは感性と理性の結びつけなど、逆説を生きること(両方を言っていい)など、加藤周一はカントが体現した問題を生きたと言えるのではないでしょうか…といったふうに(合ってるかなぁ)「批評と生きること」(片岡大右さんの最新作のタイトル)をナマで体験することができた(だけでも幸せだ⚡️)

片岡先生のライブ、わたしは3回目だったのだが「今日そこは『展開』しませんが…」の展開が好き。毎回印象に残る。正式に文章を学んだことがなくて無知だが(批評用語だっけ)ここに書くようになってわかった。何を展開し、何を展開しないか、が、多分文章だし、イコールそれが人生、だ。

劉争さんが真摯に、とてもエネルギッシュに、でも柔和に、にこやかに、話されている表情、を、僕は見ていた(目は合わさないように)この方が『東風』のことを、と。

言葉がわからなくても表情や視線、発声、トーンやリズム、そういうもので知性って伝わるものだね。王前さん(この先生、さらにエネルギッシュ! )が熱心に語り続ける様子、も、僕はただ、見ていた。


これで判断できない馬鹿なわたし


その日のお昼は、銀座というのにコンビニ(外れの方にファミマを発見 ! )でサラダとチキンにゆで玉子という安定のロカボセットを買い揃え、銀座の公園(見っけた)で落っこちたコーンをついばむ鳩たちを眺めつつ食べ、食後は『「世の中の裂け目」はいつだって開くー小沢健二が帰ってきた』(片岡大右『批評と生きること』晶文社 収録)を読み、開場までの時間を過ごしていた。

「坂本龍一論」において、わたしの中の「死んだ後のことなんか知ったこっちゃない問題」へのヒントをくださった片岡大右先生、劉争先生にお礼のひと言でも…と思い出かけたのだったが…


今から20年くらい前のこと(30代後半か)会社の役員宅にお呼ばれし、行ってみると中国の若者が何人かいて(奥さまが留学生の世話をしていた)中国語?わかりません。では英語で話しますね(も、わかりません)はー。と、恥ずかしい思いをした。のに、未だ、今も(死にたい)

「この現在は、別のものでもありえた。例えば、一曲目で言及されていた「今遠くにいるあのひと」との関係が続いていたら、「子どもたちも違う子たち」だったはずだ(中略)わたしたちの現在は、過去との関係でばかりではなく、つねに「並行する世界」と隣り合っているという理由でも、二重のものになっている(中略)この今が「間違いに気がつくこと」の結果として選び取られたものだった場合にさえ、わたしたちは取り替えの効かない現在を生きながらも、並行世界のもうひとつの現在を時に思わずにはいない。そんなわたしたちは、決してたどり着くことができないこのもうひとつの現在を押しのけるようにして、やがて訪れるはずの未来を思い描き、それによって今ここを二重化することで自分を励ましている」(P162~163)
(片岡大右『批評と生きること』晶文社 より引用)

さっきは言葉を濁したが、参加をあきらめた勉強会というのは、ここで何度か取り上げた『50歳を過ぎたらダイエットしてはいけない』の灰本元さんが代表理事をされている糖尿病がらみの学術集会だった。

ビデオ会議のアプリがうまくダウンロードできず、モチベーションも下がり、予定を切り替えて出かけることにした。でも考えてみると、いま最も関心があるといってもニワカはニワカ、専門家集団の学術集会であるそっちに参加しても、たぶん恥かいた(そんな想像もしてみたりする)

君が作業のコツ 教えてくる
僕の心はとけてしまう
それは 永遠の中の一瞬の
あるいは 一瞬の中の永遠の
喜びか?

君が君の学業をする時  偉大な宇宙が  薫る
おそれることもなき  好奇心を
図書館の机で見せつけてよ

小沢健二『薫る(労働と学業)』より

「けれども、『薫る』で歌われるのは何より、この未来が現在の「労働と学業」によってこそ生み出されるということ、「毎日の技」が、日々に発揮される「好奇心」が、「偉大な宇宙」を薫らせ、「新しいもの」を「生み出していく」ということだ。わたしたちの毎日は決して、来たるべき時の訪れを待つだけの空虚な時間なのではない」(P164)

(片岡大右『批評と生きること』晶文社 より)

失敗、がいっぱい。ヘタレ。ブルー。
銀座一丁目、ファミマ、公園、午後1時過ぎ、晴れ間、光と影、片岡大右、小沢健二、浮かび上がる平行世界。展開=人生。

『薫る』ないから『彗星』で♪


これがわたしの日曜日さ。


読んでいただき、
お時間を使っていただき、
ありがとうございました。
心より感謝申し上げます。

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