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江戸時代の京都/今の京都 第5回 平野神社 豆腐茶屋

 前回の北野神社からの続きです。
 北野神社のお詣りが済んだ宣長は、すぐ近くの平野神社へ。

宝暦七年二月二十五日(1757年4月13日)
 (・・・)
 紙屋川の橋を渡って、平野神社に詣る。
 このあたり、豆腐茶屋が沢山ある。どこも賑わっている。若々しい女性の店員が出て、客を呼び込んでいる。かける声が優しく、紅い前掛けが華やかだ。

 平野神社と北野神社の位置関係はこのような感じです。

 北野神社の北から出て西に進み、宣長のいうとおり紙屋川を渡るとすぐ平野神社です。マップには天神川とありますが、このあたりでは今も昔も紙屋川と呼んでいます。一つの川でも、流域で名前が変わるのはよくあることですね。この川は南に流れていくと天神川と呼ばれています。
 さて、当時の紙屋川と平野神社の図会を見てみましょう。 

 図会の右下に「紙屋川」があり、小さな橋がかかっています。川の両岸に「料理屋」が描かれています。おそらく宣長のいう「豆腐茶屋」のことだと思います。図会には料理屋のあたりに複数の人が描かれており、これが呼び込みの店員でしょうか。想像が膨らみます。
 さて、今の紙屋川を見てみましょう。

2024年2月25日撮影

 橋の上から南を臨んでいます。まず、川の両岸に住宅等が立ち並んでいることがわかります。また、欄干の位置から、川が相当深く掘り下げられていることがおわかりになりますでしょうか。増水などへの対策として河川改修が行われたのでしょう。図会では川岸に木々が描かれており、宣長の時代と今とでは随分様変わりしていることがわかります。

 それでも、しばらく前までは当時の名残を確認することができました。
 先ほどの図会には、橋の東詰の北側に、川に沿って細長い建物が料理屋として描かれています。次の写真をごらんください。

紙屋川に面した部分 2020年10月14日撮影
2020年10月14日撮影

 少し前に撮影したものですが、図会と同じく、橋の東詰めの北に細長い建物がありました。営業等はされておりませんでしたが、建物のつくりからみて、通常の住宅とは思えません。私はおそらく図会にある料理屋が何らかのかたちで継承されたものではないかと想像しております。
 ただし、2020年の撮影後取り壊され、残念ながら現在は見ることができません。
 このようにして、少しずつ京都も変わっていきます。
 さて平野神社に詣りましょう。

 平野神社には、北野神社ほどたくさんの人は詣っていない。そこそこよいくらいに人が行き交っている。
 御神殿は、とても古く、昔の感じがあり、殊勝な様子だ。
 四つの神のお社は、とても古く、屋根も雨を防ぎきれないのだろうか、さらに上に屋根をかけている。

2024年2月25日撮影
2024年2月25日撮影

 梅花祭の日の撮影ですが、宣長の言う通り北野神社ほどの人出ではありません。
 四つの神のお社がご覧いただけますでしょうか(二枚目の写真)。今も落ち着いた佇まいでいらっしゃいます。
 今の平野神社は次の写真のとおりです(写真下手で恐縮です)。

2020年10月14日撮影

 
 四つのお社と摂社。春日社、蛭子社など末社の配置は図会と変わりません。
 境内図の下部に沢山の樹木が見られます。桜です。
 今の平野神社は桜が有名です。

2024年2月25日
2024年2月25日撮影

 一枚目は西側の西大路通に面した鳥居です。そこを入ると二枚目のような参道になります。見えております木々は桜です。
 桜のシーズンには夜間ライトアップがなされ、出店も並び、格好の夜桜スポットとなっています。今年は3月23日(土)~4月14日(日)に開催されるようです。十年ほど前に一度、夜桜を見に出かけました。東山祇園の円山公園ほどの規模はありませんが、とてもいい雰囲気でした。
 当時の写真が見当たらず、恐縮ですが、次のHPなどで雰囲気をお感じいただければと思います。

 北野神社から平野神社を巡りました。
 北野神社の東には、京都の花街のひとつ上七軒もあります。
 機会がありましたら、是非、北野、衣笠といわれるこの界隈を散策してみてください。その際、江戸時代にこの辺りを訪れた宣長のことをことを少しだけ思い出していただけると嬉しいです。

 ※ 天候などによる変更があると思いますので、実際に足を運ばれる際には、必ず平野神社など主催者の提供される情報を事前にご確認いただきますようお願いいたします。

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