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映画「ベイビーわるきゅーれ」を見タ

映画「ベイビーわるきゅーれ」を見た。

噂で面白いと聞いていたけど、スクリーンで見ることができずに配信で見た。まだスクリーンで見るチャンスがあるようなので、その時は馳せ参じまする。

殺し屋という突飛な殺伐とした設定に、真逆な二人の共同生活が、まるでコントのようで面白い。緩々なのにバリバリに戦う。緩々なのに強烈なメッセージを投げてくる。

ちさとまひろは共同生活で一緒の時間を過ごしたり、バイトへ行ったりとしている。共同生活には付き物の喧嘩もする。喧嘩したら仲直りもする。寄り添ったり離れたりを繰り返し二人はシスターフッドの関係を築いている。
そんな二人の関係を見て「まひろは、社会不適合なのだろうか?」という疑問が浮かんだ。
ちさととまひろが喧嘩したときに、先に謝ったのは「まひろ」である。他者とコミュニケーションを取るのは苦手だけど、謝る事を知っていて実行している。謝る事ができるって大事ではないだろうか?

たまにプライドを守るために過ちを認めず謝罪しない人がいる。そんな人と長く接していると”あの人は謝らない人”という扱いに周囲の人が慣れてくる。だから、間違っていても不問として謝らせようとも思わなくなる。
その謝罪できない人は、社会に適合しているのか?
これは周囲の人が、その人に適合しているだけである。
その謝罪できない人が”社会そのもの”と呼ばるのであれば、社会に適合していると言えるけど、そんな神みたいな人間はいない。その人が別の世界へ行くと謝らない人となり周囲から嫌がられ避けられ、社会へ不適合となる。
もし、謝らない人に慣れないとダメな不条理な世界で、謝らない人に慣れない人は社会に適合できないと言えるのだろうか?
”まひろは他者とコミュニケーションを取るのが苦手”
と周囲が認めたら、どうなのだろう?周囲の人が、ちさとのように彼女に適合してくれるのではないだろうか?まひろは、謝る事ができるし、具体的な目的を見つければ確実に実行(遂行)できる。上手く導けば良いだけではないだろうか?現に、ちさととまひろの小さな小さな社会では二人の関係は成立しているし、まひろと殺しの雇い主では仕事の契約を成立させている。
まひろの姿を見たら、社会への適合と不適合の境界線が曖昧になってきた。

この記事を書き始めた時は「社会の不適合で何が悪い!」という気持ちだったけど、「そもそも、境界線って何?」という思いに変わり、深い方向に突入している…。まずは「コミュ障≠社会不適合」という考えに改めます。

こんなことをネタにして小説や映画を作れる人がいるんだよな。
そこへ発展できない自分の才能の無さに歯がゆさを感じるぜ…。

あと、CDが付いてるパンフレット欲しいな…。

後日の談

目黒シネマで上映されたので見た。スクリーンで展開される格闘戦は迫力がある。改めて見ると、冒頭の格闘戦で”よく動けるな”と感心してしまう。

パンフレットを買うことができた!CDが超面白かった!
作品の鑑賞後用なので世界観の説明は無い。でも、二人が何をやっているのか分かる程度の台詞が展開されており、想像力をかき立ててくれる。背景音の入れ方や声の上げ下げが巧みで、オーディオドラマとしての演出が上手くて遊び心満載なのが伝わってくる。二人のアドリブっぽいところも絶妙に面白くて笑ってしまう。例の犬の足音が入っているのもポイント高し。
新たな”癒し”として聞いている。(非日常的な会話が展開されているので、あれで癒されると言ったら人格を疑われる可能性はあるけどね)
続編のパンフレットにもCDを付けてほしいな…。


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