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HipHopの歴史から学ぶ。自分で楽しみを創り出すこと。

僕は、楽しみというのは自分の手で生み出すものだと信じている。


遊びの原点から

1970年代のアメリカ、ニューヨーク。彼らはその場の環境を利用して、新しい遊びを生み出していった。

「名もなき遊び」
「公園で手作りパーティー」

何もないところからから創り上げられた遊び。最初は特定の名前などは付いていなかったのかもしれない。

彼らは純粋に楽しんだ。

そして、HipHop は世界中を駆け巡ることとなった。


自分で楽しみを創り出す

僕たちの日常にはスポーツ観戦、音楽鑑賞、習い事など、楽しむための活動が沢山ある。しかし、それらは受け身としての楽しみが多い。確かに、それも素晴らしい。だけど、自分から積極的に楽しみを見つけ、それを自ら創り出す経験は、もっと深い楽しさをもたらすと思う。

今回、その考えを深めるために、HipHopの歴史を参考に、自分で楽しみを創り出すとはどういうことかを探求してみようと思う。


HipHopとは?

「HipHop」って、どういうイメージを持っている? ちょっと派手だとか、少し怖いとか、あるいは若者のものだと思ってるかもしれない。でも、そんな先入観は一旦置いてみてほしい。

確かに、今では「HipHop」という言葉はよく耳にする。でも、実際の意味については、みんな正確には知らないかもしれない。ラップやダンスだけだと思っている人も多いと思う。確かにそれもHipHopの一部だ。だけど、それだけではなくて、アメリカの黒人たちが自ら創り上げた文化を指すんだ。ラップやダンスだけでなく、DJプレイや、壁画(グラフィティ)なんかもその一部だ。

さらに深く探ると、HipHopは「黒人たちの歴史やアイデンティティ」を示すもの。それが一番の回答だ。昔、奴隷としてアメリカに連れて来られた黒人たちが、様々な困難を乗り越えて現在の地位を築いた。それを背景に持つ文化だ。

話が少し大きくなってしまったけど、それくらいHipHopには深い意味があるということだ。


人種差別

「アメリカ」と「黒人」というと、最初に思い浮かぶのは「人種差別」だろう。単純に黒人であることだけの理由で、彼らは就職、経済活動、教育、日常生活など、多くの面で制限を受け続けてきた。

1950年代から60年代にかけて、黒人たちはこの不平等を打破するために、「公民権運動」を起こし、人種差別の撤廃や個人の権利保障を訴えた。この運動の成果として、1964年に「公民権法」が成立した。しかし、この法律は名前だけで、実際の黒人の生活には大きな変化は訪れなかった。

差別は徐々に減少してきたものの、特定の地域や人々の間ではまだ強く残っていた。その結果、多くの黒人は職を見つけられず、経済的に困難な状況に直面した。特にニューヨークのサウスブロンクスは、非常に厳しい状況だった。この地域は「アメリカが見捨てた町」として知られ、街全体が「戦後の焼け跡のよう」とまで評された。

結局アメリカは何もしない。その結果、サウスブロンクスは犯罪が増加し、街はさらに荒れ果てていった。彼らはどんどん貧困になっていった。

HipHopの誕生

そして70年代に入り、そのとてつもない「どや街」サウスブロンクスからHipHopが生まれたのだ。

その地区の住民たちは、とにかくお金がない。だから、その場で遊びを生み出していった。例えば、子どもたちは壊れた建物を使ってジャングルジムや遊園地のように楽しんでいた。

そして、当時の多くの人々が持っていたラジカセ。それを使って、ラジオの音楽に合わせて街角や公園でダンスを楽しんだ。ラジカセがあれば、場所を選ばずいつでも楽しめたのだ。その結果、気づけば人々が集まり、街のあちこちで路上パーティーが開かれるようになった。そして、これが驚くことに、年齢や性別を問わずいろんな人々が集まってきたのだった。

ある記事では、それを「名もなき遊び」と呼んでいた。いい言葉だ。

こういう遊びは人々が集まると一気に盛り上がるもの。例えば、「あそこの角で面白いことが起きている」という噂が流れれば、人々が自然と集まり、さらに盛り上がりを見せたのだった。


公園がディスコに

街の至る所でパーティーのように盛り上がっていた。

そんな流れの中、みんなが自分のレコードプレーヤーやレコードを公園に持ち込んで、手作りパーティーを開くようになっていった。

当時アメリカはディスコブームの真っ只中。しかし、彼らはディスコに行くお金やレコードを購入する資金がない。そこで、みんなが持っているレコードを共有するアイディアが生まれたのだった。例えば、僕がジェームスブラウンのレコードを持っているが、スティービーワンダーのレコードは持っていない。そんな時、近所の山田君がスティービーワンダーのレコードを持っていれば、お互いのレコードを共有して楽しむことができる。

レコードを一枚も持っていない人もいたが、みんなで持ち寄れば、さまざまなレコードが集まり、多様な音楽を楽しむことができる。そして、公園の街灯にレコードプレーヤーの電源をつなぎ、公園がディスコのような雰囲気に。音楽を楽しみながら踊る姿が至る所で見受けられた。


ブレイクビーツとラップの誕生

こうなってくると、「人気DJ」や「カリスマDJ」といった街の人気者が出てくる。

DJとは、レコードの選曲と再生を担当する人。集まった人々をどのような曲で盛り上げるかを見極めるのが彼らの役割で、人気のDJはそのセンスで多くの人々の心をつかんでいった。

ターンテーブル(レコードプレーヤー)は、参加者が持ち込んだものを使用するため、複数の機材が用意されていた。例えば、左側のターンテーブルでジェームス・ブラウンの曲を流し、次に右側でスティービー・ワンダーの曲に切り替える、というように操作されていた。

やっていくうちに、次第に面白い現象が起きてきた。曲のブレイク部分(歌のない部分)が特に盛り上がるようになったのだ。

みんなでレコードを持ち合わせているため、同じレコードが複数存在することがある。そして、同じブレイク部分を連続して再生する技術が生まれた。「ブレイクビーツ」ってやつだ。これにより、あるブレイク部分を永遠に続けることができ、グルーヴ感が増し、踊りがさらに盛り上がるようになった。

この永続的なブレイクは、カラオケのようになる。それに「ラップ」を乗せる形で展開され、ラッパーたちはそれぞれの感情やメッセージを言葉にして伝えるようになった。

言いたい事をラップにした。アメリカへの不満をラップにした。自分の感情を言語化して。


黒人カルチャーの興隆

70年代のアメリカでは、黒人の間で「どうしたらもっと楽しめるか?」という思考が根付いていた。この貪欲さと独自の工夫が、ストリートカルチャーの中核となった。

学校でも、この楽しむための工夫が見られた。公立学校の先生たちは、生徒たちを楽しませるために、手作りのパーティーやイベントを企画。きっと文化祭のような雰囲気だったのではないか。この動きは多くの学校で見られた。

僕はこの話をある本で読んだ時に、とてつもなくワクワクしてきたのを思い出す。みんなで工夫して何かをやる。素敵だ。

そんな中、1979年にレコード会社が世界初の公式のラップナンバーをリリースし、大ヒット。その後、続々とラップ曲が登場し、ラップは世界中に広がった。今では国境を越えてラップは多くの人々に愛されている。英語圏以外のイタリヤ、スペイン、フランスなんかでも盛り上がってる。もちろん日本でも。

これらの流れを見ると、70年代の黒人コミュニティの純粋な楽しみのための工夫が、今や全世界の文化に大きな影響を与えていることがわかる。「本当に楽しみたい。だから創る」という純粋な心が、文化を育てる上での鍵だったと感じる。


趣味 : 自らの手で創る喜び

趣味とは、ただ消費するだけではなく、時には自分の手で創り出すものでもある。そんな趣味を深めていく中で、新しい発見や気づきが得られるのが魅力だ。

例えば、プロ野球のファンであれば、単に試合を観るだけでなく、歴代の選手で最強のオーダーを作成するのも面白い。家族でディズニーランドが好きなら、一緒にオリジナルのディズニー劇を作って演じるのも良い。演技の上手さは二の次、大切なのは一緒に楽しむこと。

また、家族みんなで新しいゲームを作るのも面白い。手作りの双六やオリジナルのボードゲームなど、アイディアは無限だ。

今回は、HipHopの歴史を通して「自分自身で楽しみを創る」ことの大切さを探求してみた。まさに、何もない状態から、価値あるものや楽しみを生み出す力は、僕たち一人ひとりの中にあるのだ。

今、僕自身もnoteというプラットフォームで遊びを創っている。何もないところから始めるそのプロセスが、素晴らしいものを生む起点となるのではないか。


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