「ART OF MIKU」考、あるいは四つのiを巡る初音ミクとの接触
こんにちは、ボカロが好きです。ボカロはいいぞ。
さて、ART OF MIKU、行きましたでしょうか? 私は年末にこれまでの初音ミクのアートシーンをまとめたくらい、楽しみにしていた取り組みでしたので、初日に行ってきました。
私はアートはその文脈こそ学ぶものとはいえ、やはりインプレッションが大切だと思っているので感想などあまり書きませんでした。……嘘です。重い腰が上がりませんでした。
……が、いよいよ最終日ということで、この辺で私の感想を書いて自分の備忘録に代えたいと思います。
初音ミクと現代アートの出会い
アートとは何か、とりわけ現代アートとは何か、ということについては私なんかよりずっと詳しい、いろいろな専門家がいろいろなことを言っておられるので、ここでそういった込み入った議論には立ち入らず、ふんわりとしたイメージでの「現代アート」という言葉を使います。
ともかく、「現代アート×初音ミク」を標榜するART OF MIKUの取り組みが、今まで初音ミクがやってきたイラスト展やコラボカフェや、その他数えきれないイベントでのイラスト展示と何が違うのかを考えれば、やはりそれは本展での作品が「初音ミクと作者」の関係項がそのまま作品に落とし込まれていることであろうと思います。
もちろん普段のイラストやMVにおいても絵師さん・動画師さんの意志は多分に詰め込まれています。しかしながらそれは楽曲やコンセプト、あるいは初音ミクそのものという題材がまずあって、それを表現する中で絵師さんたちの意志が込められる、という在り方で作品がつくられます。
一方、この作品展における作品では、アーティストの普段の営みや思想が先にあり、それを「初音ミク」でどう表現するかという場を与えられた、というような自由さを感じました。本展では「初音ミク」というモチーフ以外に通底するテーマや楽曲はなく、各々が普段の作風で自由な作品を制作されているように感じました。本展にテーマ曲のようなものがなかったのもそのためではないかなと思います。
すなわち、本展の作品の鑑賞においては、「初音ミクがどう描かれているか」という点のほか、「作者は初音ミクをどう捉え、どう相対したか」という点を考えることが鑑賞の上で有意義なポイントであるような気がします。この記事ではその点について、四つの"i"――icon, idol, idea, iGen――になぞらえて考えていこうと思います。
なお、ART OF MIKU出展作品の画像はすべてArtStickerからの引用です。
Iconとしての初音ミク
初音ミクというキャラクターは極めて強力な識別性を持っています。だれがどのように書いても初音ミクは初音ミクを書いたとわかる力を持っています。
そこには、〈初音ミク〉という存在が持つあまりにも強力な文脈性とそのキャラクターアイコンとしての強力さが背景にあります。TikTokなどによって、ボカロ曲はもはやほかの普通の曲と区切られることなく聞かれ、バズり、消費されるようになりましたが、それでも、例えば(プロセカのようなボカロがテーマではない)アニメのOPに起用された例は私は「B★RS」と「あはれ!名作くん」くらいしか知りません。しかもその二作はその過程や物語の内容である程度初音ミクとつながりがあるものです。
それは、初音ミクがアニソンを歌う、ということそれ自体が強力な意味を持ってしまうからだと思います。初音ミクが歌っているという理由がないと、初音ミクという存在が作品に対して宙ぶらりんにサスペンドされてしまう、そういう点でやはり文脈が強すぎるのだと思います。
いわゆる「透明な初音ミク」の話がなされ始めてもう10年くらいたちそう(さらに「護法少女ソワカちゃん」までさかのぼれば15年)ですが、『ギルティクラウン』や『それが声優!』と特に関係なくEGOISTやイヤホンズが活躍したように、特に物語に絡むでもなく初音ミクが起用されるようになっていない以上、初音ミクはその文脈として依然として有色であると思います。
そういう意味で、2023年に歌愛ユキが「強風オールバック」の女の子として接され認知されたのは、そのことの良し悪しは置いておいて、「透明」に肉薄した瞬間であったようにも感じています。
……さて、こうした文脈とアイコンの強さによる初音ミクへの認知への投げかけに取り組まれたような作品がART OF MIKUにて色々とありました。
後智仁さんは1971年生まれで武蔵野美術大学グラフィックデザイン科入学、視覚伝達デザイン学科に編入。1995年~2005年に博報堂で働いたのち、アートディレクターとして活動されています。
現実のモチーフの抽象化はアートにおいてよく見られる手法です。しかしながらその抽象化が表象している表現や、依拠している思想にはさまざまなものがあります。
後さんの作品は現実を直線的に抽象化することで、モチーフの解体とその過程の描出を特徴としているように感じます。本作は氏の別のシリーズである〈NEW NUDE〉などより、さらに直線による抽象化が推し進められているように感じます。初音ミクはその解体の中にあって、依然初音ミクとわかる力を持っています。現実の解体の中で初音ミクというモチーフはその強力なアイコン性は非常にマッチしているように思います。
初音ミクの解体をもって認識への挑戦を試みた《MIKU 02》に対して、FACEさんの作品《POP GURDE》は、対象の曖昧化によって鑑賞者の認識側への挑戦を投げかけています。FACEさんのいつもの作品の顔が書かれた布が初音ミク(と思われる存在)に被っています。この布は鑑賞者と作品の間で、文字通り「知覚のヴェール」として横たわっています。
しかしながら、我々はこの布の向こう側の人物が初音ミクであり、さらに言えば、KEIさんの最初のパッケージのポーズをしている、ということがわかります。これは、初音ミク的なニーソックスや大きいツインテール、そして、「これがART OF MIKUの出展物である」という前提的文脈に依拠したものです。
さながらイギリス経験論による「知覚のヴェール」を、アプリオリな理性とアポステリオリな知識によって乗り越えたドイツ観念論のように、初音ミクが積み上げてきた文脈やその強力無比なアイコンによって可能にしていることを、この作品を通して再確認させられます。
Idea/Idolとしての初音ミク
一般的に使われる英単語のIdea(アイディア)はギリシャ語のプラトンなどに見られる理想の美そのもの、を表す概念である、ιδέα(イデア)からきています。そしてイデアはギリシャ語の「見る」という動詞であるἰδέειν(イデイン)からきています。
また、「アイドル」という言葉はベーコンにより「偶像」や「幻影」として使われたIdola(イドラ)という言葉が由来になっています。このイドラはラテン語の亡霊を表すidolum(イドルム)の複数形が由来となっていますが、このidolumも元をたどればギリシャ語の「見る」――ἰδέειν(イデイン)からきています。
初音ミクが「生きている」のか、という話も長らくなされて久しいですが、少なくとも〈初音ミク〉が「存在していない」ということは明らかであろうと思います。
初音ミクが登場以来無数の創作を生み出し続けているのは、存在しないある種の理想形(ιδέα/イデア)であるが故の着想源(Idea/アイディア)であり続けているからであるように思います。
存在しないが故にもたらされるその偶像性、超越性による創作の表出をもって、初音ミクが「電子の歌姫」=「完璧で究極のアイドル」と呼ばれるのは、正確な初音ミクの表現であるように思います。
ボカロ曲における存在しない初音ミクの究極性と偶像性への囚われ/捉われの描写については、やはりDECO*27さんが白眉であるように思います。一年以上を通して初音ミクの少女性を徹底的に描いたのち、「もうあたしは既に死んじゃってるんだよ きみのために可愛くなったんだよ 会いたくなっても探さないでよ」とした「マネキン」はそうした届かないものに対する眼差しに強く依拠した思想の表れであるように感じます。
さて、そうした初音ミクの偶像性、非存在性、崇高性を表現したような作品を見てみましょう。
内田ユイさんの作品は「動き」を通して、初音ミクと世界との関係項を表現しているように感じます。
内田ユイさんはアニメの現場がデジタルに移行して久しい中で、セル画による動きの描出を投げかけているアーティストです。
《Scene:00001 階段を降りる電子の歌姫》はエドワード・マイブリッジによる連続写真「階段を下りる女性」の文脈下にあります。「階段を下りる女性」はマルセル・デュシャン《階段を降りる裸体 No.2》、ジョアン・ミロ《階段を上る裸婦》、ゲルハルト・リヒター《Ema》など、アートシーンでの「運動」の認識の枠組みの拡張に多大な影響を与えた連続写真です。
連続的な描写と物理的にたわんだ三次元的な造形は初音ミクという非存在に生き生きとした生命性を与えます。それにはアニメーションが「魂」を表すラテン語=アニマからきていること、セル画がセルロイド←セルロース←セル=細胞に通底することも背景に頭をのぞかせています。そうした認識への影響の最前線に初音ミクが選ばれるというのは、ある種必然的であったかのようにも思われます。
また、運動という時間の一方向性と、それをすべて一つのセルに表現する普遍性は、初音ミクという超越的あり方をそのまま表現しているようにも感じます。
廣瀬祥子さんの作品はデジタルで描いた絵を印刷してアクリル材などをアナログで組み合わせるデジタルとアナログの融合、そしてのその緻密さが特徴的であるように思います。本作は2039年のSF的な渋谷を舞台とした初音ミクのライブを思い描いたような作品となっています。これには初音ミクが想像の源泉であり続けることによる未来性が感じ取れます。もはや初音ミクより人間らしい合成音声は無数に存在しますが、それでも初音ミクが「初めての音」であり続けているのは、その非存在故の超越性による、Idea(アイディア)の源泉であるがゆえに、人々の創造と想像の先を行く存在に映るからだと思います。
こうした在り方をアクリル材とデジタルプリントによる複層的なマテリアルや、渋谷という現実の街を舞台とした本作はありありと描いているように感じました。
廣瀬祥子さんの別の作品、《Portrait of [UN]reality:Hatsune Miku》では一転して油彩による伝統的な肖像画のように初音ミクが描かれています。
本作は人物としては実在する人間のように描かれる一方で、髪の先などは融けるような抽象化された表現で描かれています。それは、初音ミクが「生きている」もののように現実に肉薄しつつ、しかし、それによって却って「[UN]reality」であることを示すかのようです。
また、こうした「油彩による肖像画」というモチーフ、あるいは(存在しないもの写実絵という意味での)「神話画」自体が、伝統的なアートの歴史を概観するような面持ちがあり、現代アートとしてアートの歴史を拡大的に再解釈するかのような覚悟が感じられます。そうした「想像のただなかにあるもの」という意味での宗教画・神話画の先にあるものとして初音ミクという画題は非常にあっているように思われます。
星山耕太郎さんの《初音ミクⅢ》でもそうした初音ミクの共時性、多解釈性が如実に表れています。
これまでのアートをなぞるかのような表現技法や画材が地層のように重なる本作はアートの歴史を現代にてまとめ上げ、そしてそこを通底して縦貫する存在として初音ミクが描かれています。さらには時計も一緒に描かれ、そのアートの歴史性とモチーフの全時代性が露わになっています。初音ミクという偶像がもたらすアイディアが普遍的に存在し続けること願うかのようです。
iGenとしての初音ミク
さて、そうした超越的存在である初音ミクですが、そうでありながら、「神」のような崇高性としてだけでなく、(とりわけ若い)人々に寄り添う存在でもあり続けてきました。
「iGen」すなわち「iジェネレーション」は心理学者のJean M. Twengeが提唱した、人生のほとんどがiPhoneに代表されるようなスマートフォンの影響下にある1995~2012年生まれ位の世代を指す言葉です。
社会との接続を強要される今日にあっては、その接続と孤立、自我の確立においてその影響は多分に受けています。そうした揺れ動く価値観と社会的な要請の中で初音ミクは若者に寄り添う存在であり続けているように思います。
こうした年代の微妙な価値観を歌ったボカロとしては、Orangestarさんは大きな存在だなと感じています。Orangestarさんの楽曲に救われたという人は多いのではないでしょうか。
こうした世代(私もその一人ですが)にとって、「俺の嫁が画面から出てこない」などと言っていたゼロ年代は今は昔、キャラクターというのは、もはやインターネットというインターフェースを介して現実と接続した存在です。二次元はもはや身体や精神性の拡張として機能し、その中の代表的な存在に初音ミクがいるようにも感じます。
さて、こうした揺れ動く価値観と不安を救う存在としての初音ミクを描いた存在を見てみましょう。
北川宏人さんの作品《初音ミクになった日》は初めて初音ミクのコスプレをした少女の姿を立像にしたものです。その表情はほとんど無表情ながら、どこか不安げな面持ちを感じます。氏の代表作である〈ニュータイプ〉シリーズと比較してもその不安げな雰囲気はわかるかと思います
〈ニュータイプ〉シリーズでは焼成後にアクリル絵具で彩色し、マットな質感になっていますが、本作《初音ミクになった日》では釉薬が使われツヤのある質感になっています。それが現実に接地した少女の肌と、コスプレ衣装という日常から遊離した状況の対比をよく表し、その非日常へ飛び込もうとしている少女の不安と期待をつまびらかにしています。
コスプレにおいても初音ミクは定番中の定番となっていますが、そうした世界へ初めて足を踏み入れようとしている姿は、すさまじい速度で変転する社会の中で浮遊する私たちの不安や野心・希望とも相似形となって立ち現れます。そうした不安と寄り添い、希望の原動力として初音ミクはあり続けているように感じます。
下田ひかりさんの作品《誰かを救う透明な歌》においても、表題からして《救い》のモチーフとしての初音ミクが前景化されています。
下田さんは少女性を押し出した画風で孤独と不安や現代の歪への問いかけを行うアーティストです。本作においても初音ミクは「誰かを救う」存在であるかのように思われます。しかし画面においては、下田さんが「モチーフそのものが私のアバター」であると語っていることからもわかる通り、初音ミクが誰かを救っているのではなく、救われる主体であるかのようにも思われます。ここでは救う存在と救われる存在は同化して描かれているのです。
それは初音ミクが俯瞰的な存在であると同時に自分の感情を代弁し、表現する存在であるからのようにも思われます。初音ミクは教師や神のように上から救い(掬い)上げる存在ではなく、ともに寄り添いながら歩いていく存在であるかのように感じます。そうした、あくまで等身大の存在でありながら、心のよりどころになる存在として、iGenの人々の灯台に初音ミクがなることを示し、また願っているようでもあります。
最後に
と、いうわけで、すべての作品についてではありませんが、展覧会での作品について私が感じたことを書いてみました。ここに書いていない作品についてもどれも非常に素晴らしいものばかりです。公式記録的なカタログとかでないんでしょうか?
公式サイト等で他の作品を見ることもできるので、ぜひほかの作品も見てみてください。もし可能ならギリギリ今日までなので滑り込んではいかがでしょうか?
総じて、現代を生きる我々と初音ミクの双方向的な在り方を描いている、という意味でまさに現代アートと初音ミクのコラボだなと感じました。ぜひまたいろいろなアーティストと開催してほしいです。
また、アート方面から見ても、村上敬氏によって提唱されたスーパーフラットのその先とでもいうような、キャラクター・アートはここ数年でかなり大きな存在になっているように感じます。そうした中で、初音ミクというのは非常に重要なモチーフになりえるように思います。ぜひそうした表現の場が今後も生まれればよいと思います。
更には個人的には初音ミクという概念はもはやキャラクターという枠組みすらも不要であるように感じています。初音ミクのキャラクター的図像をモチーフに入れ込むことは要請されていたのでしょうか? 今回はGREEが主催ということもあってどちらかと言うとアート販売が主目的なような雰囲気も感じないことは無かったです。次回開催の折には、コンセプトアートやバイオアート、インスタレーションや参加型アートのような、初音ミクという認識の枠組み自体に挑戦するようなものがあっても面白いかと思います。森美術館とかがキュレーションしたら面白そう。
それでは、次回開催を願って、よいボカロ&アートライフを!
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