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家族のカタチ ②

何があっても、

もうあなたを離さない。

世界の全てが敵になったって、俺だけはあなたの味方だから。

頼りのない両腕で抱きしめるよ。

守るから、隣にいるから。

あなたは独りじゃない。

だからどうか、独りで生こうとしないで。

───────────────

正確なリズムで針は時を刻み続ける。

それは不変のものだし、そんなことは分かっていた。

けれど、今だけは時の流れが早くなってはくれないか───

そんなことを願っていた。

23時55分。

残りの五分が待ち遠しくて仕方がなかった。

週に一度の“情事”。

逸る心を何とか抑えて、時が流れ行くのを待つ。

七瀬は俺の隣で安らかな寝息を立てている。

これなら中途半端に起きることもないだろう。

23時59分…間もなくだ。

短針と長針が天辺で重なるその時を待ち続ける。

早く、早く…


───カチッ


すぐさまベッドから飛び出そうになるのを堪えて、ゆっくりと、音を立てずにベッドから抜け出す。

七瀬は変わらず深い眠りに就いている。

小さく息をついて、部屋を出る。

真っ直ぐに続いているはずの廊下。

いつからだろう、平坦な廊下がこんなにも歪んで見えるようになったのは。

裸足で歩くには少し冷たい廊下を音を立てないように歩く。

突然、身震いが起きる。

これが寒さから来るものじゃないことは、分かりきっていた。

本能が止めろ、と訴えかけているんだ。

今から俺がしようとしていることは、間違いだと教えようとしているんだ。

それでも歩みを止めることはない。

戻ることなんて出来ない。

もう、堕ち続けるしかないのだから。

それでも、心の中で膨れ上がった背徳感の塊はもうどうにもならなくて、今にも破裂してしまいそうだ。

行く先は、破滅─────

一方通行、途中下車など許されない。

ただただ、いつ訪れるか分からないその時を心揺られながら待っている。

お目当ての部屋までは、距離にして僅か数メートル。

それだけの距離がとても長く感じる。

それでも歩みを止めることはない。

待ってる人がいるから。

いつの間にか呼吸が浅くなっていた。

ようやくたどり着いた部屋の前に立って、深呼吸をする。

小さな音で、ドアをノックする。

どうか、眠っていてはくれないか───

ここに来てそんな事を願ってしまう自分を情けなく思った。

数秒後、そんな願いとは裏腹にゆっくりとドアが開いた。

突然の目映い光が視界を支配した。

廊下が暗かっただけに目が眩んだ。

数秒経ってようやく光に目が慣れると、

目の前に愛する人が立っていた。

笑みはなかった。

けれど、その瞳にはこれから始まる“週に一度の色事”に寄せる期待が僅かに見え隠れしているのが分かった。

「待った?」

なんて彼女に聞いてしまう俺は、なんてズルいんだろう。

どうせ質問の答えは決まっている。

相手も同じことを望んでいる、こっちが強要しているわけじゃない。

そう感じることで罪の意識を薄れさせたいだけなんだ。

そして彼女は、ほんのりと笑みを見せてこう答えた。

「待ち遠しかった」

120点の回答だった。

俺は逸る気持ちを今度こそ抑えきれずに、ドアを乱暴に閉めた。

静まり返った家に相応しくない音がした。

そして、次の瞬間には俺の体はドアと彼女の体によってサンドイッチのように挟まれていた。

どうやら、彼女も気持ち同じだったらしい。

彼女の両手が、両肩に置かれる。

目の前に彼女の顔が現れる。

背伸びをしているのだろう。

激しく求め合う唇は、もう止まらない。

甘くて、柔らかくて、ずっと味わっていたくなるような唇。

徐々に舌が絡み出す。

ピチャピチャ、と水音が鳴っている。

早々に衣服を脱いで、お互いに産まれたままの姿になる。

「麻衣っ…!」

「んっ、あぁっ…!」

声を抑える麻衣。

破裂寸前だった背徳感は、いつの間にか姿を消していた。

今となっては麻衣以外の全てがどうでも良くなっていた俺は、小さな部屋の中でひたすらに麻衣への愛をぶつけた。

その度に彼女の長い髪と豊満な胸が揺れる。

その姿は恍惚な表情と相まってか、瞬きをするのも勿体ないと思うほどに美しかった。

「〇〇、愛してるっ」

そんな在り来たりな言葉も彼女に言われれば、心の中で燻っていた小さな火種が少しずつ大きくなって燃え上がるのも当然の事だった。

…………

目を覚ますと、隣に裸のままスヤスヤと寝息を立てて眠る麻衣の姿があった。

時刻を確認すると、三時を回っていた。

少し眠りすぎたな。

早くシャワーを浴びて、七瀬が起きる前には戻らなければ。

汗にまみれたシーツを肌に感じながら、彼女にキスをして部屋を出た。

いつもより熱いシャワーを浴びる。

少しでも、汚れきったこの心を洗い流せるように。

熱い雨に打たれながら、惟る。

間違ったことなのは分かっている。

だけど、彼女が正しさによって涙を流し、間違いによって笑うというのなら、俺は間違っていたって構わないんだ。

いつまでこの関係が続くのか、考える時がある。

バレるまで?

自分から言う?

まさか、出来るわけがない。

でもそんなことはもう自分にとって、そんなに大切なことではないのかもしれない。

俺が彼女を愛し、

彼女が俺を愛しているのなら、

どんな形だって厭わない。

例えそれが

“実の姉”だったとしても───

…………

シャワーを終えて、寝室へと戻る。

幸い、七瀬が起きていた…なんてことはなく、寝室を出る前と変わらず寝息を立てていた。

ゆっくりとベッドの中へと入る。

今日もまた、週に一度の大恋愛を終えた。

───完璧だ。

安堵の息をついて、目を瞑った瞬間の事だった。

“どこ行ってたん?”

そんなか細くも芯のある声が、背中越しに聞こえた。

背中を向けているから七瀬の顔は見えない。

けれど、心中穏やかでないのは声からでも充分に察せられた。

まずい。

まさか、出て行くときも起きていたのか?

わざと呼び止めなかった?

いや、そんなわけがない。

トイレ程度にしか思わなかったから声を掛けなかったんだろう。

一気に心音が加速したのが分かった。

落ち着け、まだ大丈夫。

ゆっくりと息を吸い込む。

「厚着しすぎて汗かいちゃってさ。シャワー浴びてたんだ」

「〇〇が出て行ったの0時過ぎやん。今何時やと思ってるん?」

そう言われて時刻を確認すると、三時半を回っていた。

頭をフル回転させて考える。

「シャワーしたら何か目が覚めちゃって。

だからリビングで本読んでたんだ」

これならどうだ。

十分にあり得ることだ。

七瀬からの返事を待つ。

もし、不倫を疑われたら───

そう考え出した途端、七瀬の視線が刺さるように感じた。

いや、まさか姉弟で肉体関係を持ってるのではないか、なんて発想にはまず至らないだろう。

それは俺と麻衣が、日頃からどれだけ仲良くしていたとしても。

半ば無理矢理、自分にそう言い聞かせた。

「そっか」

七瀬の返事は淡泊なものだった。

それでも、その返答に俺は胸をなで下ろした。

きっと、帰ってくるのが遅かったことを疑問に思った程度だったのだろう。

心臓の鼓動が徐々に鎮まっていくのが分かる。

しかし、先程の緊張のせいで再び汗をかいてしまった。

不倫がバレるよりはずっと良いが…。

姿を隠していた罪悪感が、少しずつ姿を現す。

胸が締め付けられて、心が苦しい。

「…七瀬」

七瀬の方へと向き直る。

「ん?」

暗闇の中で、目を丸くしてこちらを見ている。

そんな七瀬に、俺は口付けをした。

「ん…どうしたん?」

罪悪感を誤魔化す為、なんて言えない。

けれど暗闇の中でもはっきりと、七瀬が微笑んでいるのが分かった。

綺麗だ、抱きしめたい。

間違いなく、今俺は本気でそう思った。

その感情に抗うことなく、素直に従う。

「もー、ほんまにどうしたん?」

先程の疑惑から一転して、七瀬の声は嬉々としていた。

「愛してるよ」

嘘偽りのない感情を七瀬にぶつける。

「うん、ウチも」

胸に顔を埋めた。

七瀬の胸はすごく暖かくて、温もりで満ちていた。

それが今の俺には痛いほどに染みて、涙が溢れてきた。

「もうっ、〇〇のえっち」

「うるせっ」

…あぁ、そうか。

簡単なことだった。

俺は、二人の女性を愛してしまったからこんなにも苦しいのか。

シャワーを浴びている時は、

麻衣がいればそれでいい。

今は、七瀬の事も愛している。

コロコロと都合良く考えの変わる自分が、情けなく恥ずかしかった。

………

気が付けば朝を迎えていた。

隣に七瀬はいなかった。

時刻は六時半。

そうか、いつもなら既に起きている時間帯だ。

気怠い体を起こす。

リビングで行くと、既に七瀬がエプロンをして朝食を作っていた。

「おはよう」

「おはよ!よく眠れた?」

「んー、まずまずかな」

「ちゃんと寝なあかんで?」

「うん、ありがとね」

良かった。

夜のことは気にしていないようだ。

言葉の一つ一つから、七瀬の優しさが滲み出ている。こんな人に愛されるなんて、どれほど幸せなことか。

そんな人がありながら、俺は麻衣と…。

直ぐにそんな考えは振り払った。

こんなこと、朝から考える事ではない。

考えたところでポンと答えの出るような話ではないんだ。

答えなんて、なければいいのに。

そうすれば考えずに済む。

けど、現実はそう簡単にはいかない。

いつかは答えを出さなければならない。

分かってる、分かってるから辛いんだ。

───────────────

それから三日が経った。

夕食を食べ終えて、ソファーで寛いでいた時のこと。

「ねぇ、〇〇」

「ん?」

洗い物を終えた七瀬が俺の隣に座る。

気のせいだろうか、少しだけ頬が赤く染まっている。

そして、そっと耳元に近付いてきたかと思えば…

「今日の夜…シよ?」

そう囁いのだ。

思いもよらぬ言葉に俺は目を見開いた。

七瀬は顔を赤らめながらも、俺の目を見つめている。

まさか七瀬からそんな誘いを受けるなんて。

俺は二つ返事で了承した。

今日の夜が楽しみで仕方なかった。

…………

ベッドに座って七瀬を待つ。

すると、可愛らしい白のネグリジェに身を包んだ七瀬が寝室に入ってきた。

「何か、変に緊張するな」

「へへ、久しぶりやもんね」

俺の隣に座った七瀬はじっと目を見つめてそう言った。

確かに七瀬とはしばらくしていなかった。

七瀬の手が俺の手と重なる。

依然目は見つめ合ったままで、その瞳が段々と熱を帯びていくのがありありと感じられた。

「〇〇…」

「七瀬…」

少しずつ縮まる距離。

そして、唇が重なりあった。

お互いの舌が絡まりだす。

“今”は、七瀬を愛そう───

そう決意した瞬間に、脳裏に麻衣の姿が色濃く映し出された。

必死に声を抑えて、善がり乱れる麻衣が。

突然映し出された映像は、俺はひどく混乱させ、盛る気持ちを萎えさせるには充分すぎた。

「どうしたん?」

心配そうな目つきでこちら見つめる七瀬。

そんな七瀬の姿も今は全く意識の外だった。

脳内で、嬌声をあげる麻衣の姿だけに全意識が向いてしまっていた。

「ねぇ、〇〇…?」

その声で、ようやく我に返る。

「ごめん、ちょっと体調が悪くて…」

こんな状態で、交わる事なんて到底出来る気がしない。

「今日はもう寝よ?」

「ごめん…ごめんな…」

情けない。

こんな時に他の女性、ましてや麻衣のことを思い浮かべてしまうなんて。

「ううん、また今度な?」

優しく笑った七瀬は、子をあやすように俺を抱きしめた。

───────────────

それから何事も無く、さらに三日が経った。

今日は、週に一度のあの日。

この前の七瀬に対して抱いた苦しみが、まるで嘘のように心は踊っていた。

麻衣の体が楽しみで仕方がない。

───あぁ、つくづく最低な男だ。

結局この状況をどこか楽しんでいるのだから。

麻衣も楽しみにしているのだろう、今日はいつも以上にテンションが高い。そして絡んでくる。

「〇〇~!」

「姉ちゃん、離れて」

突然抱きついてきた麻衣。

七瀬の手前、嬉しい気持ちをひた隠して注意する。

「嫌だぁ」

「こら!お義姉さん!!」

「ちぇっ!けち!」

「ケチじゃありません!」

「分かったよ、離れますよーだ」

それに対して、少しだけ残念な気持ちが芽生える。

それを感じ取ったのかは分からないが、離れ際麻衣は俺の耳元でこう囁いた。

「今日…楽しみにしてる」

先程までとは明らかに違う声に、俺の身体は一瞬にして鳥肌が立った。

「早く離れてください!」

余韻に浸る間もなく、七瀬の喝が入った。

麻衣はちぇっ、と舌を打つと俺から離れていった。

「全くもう…〇〇も気を付けなあかんで?」

───邪魔をするな。

突如現れた黒い声に自分でも驚いた。

愛する妻に対して、そんなことを思うなんて。

「うん、ごめんね」

必死に出来る限りの平静を装った。

それとは裏腹に、心臓がざわめいている。

七瀬の前では、罪悪感を抱くことが多かった。

それなのに…今、俺は。

心の中に黒い靄が現れていくのを鮮明に感じ取った。

少しずつ、少しずつ…。

けれど確実に、罪悪感を飲み込んでいった。

…………

一定のリズムで、時が刻まれていく。

間もなく、短針と長針が重なる頃。

待ち遠しくてしかたない。

既に身体は興奮状態だ。

一週間ぶりに麻衣の嬌声を聞けるかと思うと、ゾクゾクしてくる。

今にも我を忘れて布団から飛び出てしまいそうなくらいだ。

まだ早い、と頭の中で素数を唱える。

───カチッ。

すぐさま時計を確認する。

0時00分。

今日も、長いようで短い大恋愛が始まる。

今にでも走って行きたいという逸る気持ちを抑えて、静かに布団を抜け出す。

いつも入口から遠い方に眠る七瀬は、俺に背を向けているから表情は分からないが、全く動く気配がないので安眠していると言っていいだろう。

そして俺は、部屋を出た。

麻衣の部屋に続く廊下を、出来る限り音を立てず、なおかつ素早く歩く。

あの時感じた背徳感や罪悪感なんて最早どうでも良くなっていた。

今は早く麻衣と愛し合いたい。

ただその一心が、俺の歩みを加速させる。

そしてあっという間に、麻衣の部屋の前に到着する。

一度深呼吸をしたにも関わらず、ドアのノック音が大きくなってしまった。

特に問題があるわけではないが。

ドアはすぐに開いた。

麻衣がドアの隙間から顔を覗かせている。

俺はすぐに部屋に入った。

すると、すぐさまベッドへと押し倒されて唇を奪われた。

腹の上に跨がられて、ひたすらに唇を求められる。

二人の息遣いと舌の絡む水音が鼓膜を刺激する。

「はぁ…」

俺に体を完全に預けた麻衣は耳元で激しく息を乱していた。

それすらも愛おしく感じて、今度は俺から唇を奪った。

ひたすら麻衣を求めた。

長い髪と、胸を揺らして喘ぐ姿は “美しい” 以外の何物でもなかった。

もっともっと、麻衣を愛したい─────
その一心だった、
それしかなかった。

汚れた心と燻る愛情を、目の前にある穢れのない美しい身体にぶつける。

温くて狭いユートピア。

前のめりになればなるほど、渦に飲み込まれていくようだった。

加速する律動、波打つ身体。

大きな音を立ててはならないことなんてすっかり忘れたように、麻衣の甘美な喘ぎ声が大きくなっていく。

この時間が永遠に続けばいいと、本気で思った。

家族とか、血が繋がってるとか。

倫理的とか道徳的とか、そんなことはもうどうでも良くて。

一人の人間として、麻衣を愛しているんだ。

間違っていても構わない。

これが俺の選んだ答えだ。

何もかも失っても、麻衣さえいれば───

だからこそ、幕切れは呆気なかった。












「───何、してるん?」












時が止まる。

その場にいる誰もが、何も言えない。

時を刻む音だけが、無慈悲に部屋の中で響く。

背中越しに聞こえたその一言で、全身から冷や汗が噴き出す。

肥大化したそれが、みるみるしぼんでいくのが分かった。

心臓はこれ以上ないほどに騒いでいる。

どうしてここに?

聞こえてくるはずのない声だった。

麻衣も驚いて目を見開いている。

もうその声の正体は分かりきっているのに、まだ信じられない自分がいる。

恐る恐る、振り返る。

「…七瀬」

今、一番会いたくなかった人。

積み上げてきた物が、音を立てて脆く崩れ去っていく。

どうして、どうして─────

さっきまでの考えや余裕はとうに消え去った。

酷く混乱した頭で、必死に何かしらの言葉を考える。

でも、何も出てこなかった。

「違う…違うッ!」

「何が違うんよ!!!」

やっと思いで絞り出した訳のわからない否定も、すぐさま撃ち落とされる。

言葉に詰まる。

これ以上は、何も思い浮かばなかった。

裸の二人と、ドアの傍に立ち尽くす一人。

ありふれた空間で特殊すぎる状況。

七瀬は目の前に広がる光景が信じられない、といったような表情をしている。

俺だって、こんなこと信じられやしない。

しかし、七瀬は少しずつ事態を理解していっているようで。

「何で…どうして…?」

七瀬の瞳から大粒の涙が溢れ出す。

今までにないほどの強さで、胸が締めつけられる。

苦しい、苦しいよ。

その涙を拭ってやれるのは、俺だけなのに。

俺は今、何をしているんだ。

「ど、して…?」

何度も何度も頬を伝っては落ちる七瀬の涙が、俺の心に波紋を広げる。

言い逃れようがないじゃないか。

目の前に、夫とその姉が裸でいるんだ。

どうしたって、もう無理だ。

「お義姉さんも…何か言ったらどうですか!」

既に七瀬の感情は怒りに変わっていて、その鋭い矛先は麻衣に向いた。

麻衣の表情は、少し悲しそうだった。

それがどの種類の悲しみなのかは分からなかった。

七瀬への申し訳なさなのか、この関係がバレてしまったことに対するものなのか。

「…言い訳はしないよ」

麻衣は俺と違って、潔かった。

真剣な表情を崩すことはなかった。

七瀬は一瞬目を見開いた後、すぐに俯いた。


「何ですか、それ…どうしてっ…!

どうしていつもみたいに笑わないんですか!!」


七瀬の悲痛な叫びが部屋に響く。

「ごめんね、七瀬」

悲しそうに謝る麻衣。

俺は何も言えずに、ただ歯をくいしばり拳を握りしめて、二人を見ることしか出来なかった。

「…出て行って」

突然放たれた衝撃の一言に、俺は思わず目を丸くした。

それでも麻衣だけは表情を崩すことはなく七瀬をじっと見つめていた。

いくらなんでもやりすぎではないか───

そう思ったが、七瀬の立場になってみればそう思うのは至極当然のことでもあった。

家の中で夫とその姉が肉体関係を持っていたんだ。

もし俺が七瀬の立場だったら絶望するに決まっている。辛すぎる。

「分かった」

───え?

隣からそんな声が聞こえてきた。

一瞬俺は理解できず、麻衣の方を見つめ直した。

麻衣の目に、感情は灯ってなかった。

言われたことに従う機械のような目をしている。

何で、そんな目でいられるんだよ───。

「七瀬、これだけは言わせてほしい」

七瀬は何も言わずに麻衣を鋭い目で見つめている。

肯定の意と捉えた麻衣がゆっくりと口を開く。

「これは全部私のせいなの。

私が無理矢理〇〇を誘ったの」


─────は?


何でそんなことを…。

麻衣の目に感情が宿っていくのが分かる。

見た目に差はないけれど、間違いなく悲しんでいる。

どうしてそんな嘘をつくんだよ。

「姉ちゃん、何言ってるんだよ」

「それが何なんですか?」

「〇〇はこの家に残してあげて。

あなたたちには未来がある」

そんなこと、出来るわけないじゃないか。

七瀬は愛している人に裏切られたんだぞ。

心に大きな傷を負って、下手すると男のことなんてもう信用出来なくなったかもしれない。

俺がしたのはそれくらい大きなことなんだ。

そんな人と一緒に暮らせるわけがない。

「私は、〇〇を愛してる」

七瀬の真っ直ぐな視線が、俺を射抜く。

「今回のことは絶対に許せないけど、

この家には飛鳥も祐希もいて、生活がある。

一生を掛けて、償ってもらうから」


嫌だ…嫌だ。

そんなの、生き地獄じゃないか。

けれど、今の俺には拒否権なんかなくて。

「分かった」

そう答えることしか、出来なかった。

こんなにも、辛い決断はなかった。

今、俺はどんな顔をしているだろうか。

きっと悲しそうな顔しているんだろうな。

「今から荷物まとめて、すぐに出て行くから」

麻衣…何で、どうしてそんな簡単に言えるんだよ。

「はい、すぐに出て行ってください」

七瀬の瞳は憎しみに染まっていた。

今何を言ってもきっと、七瀬には響かない。

そして、七瀬は部屋から去っていった。

「姉ちゃん、何で…!」

「七瀬が言ったでしょう。

この家を支えているのは〇〇なの。

あなたには家族を支える義務がある」

「それなら俺もっ…俺もこの家から───」

突然口を塞がれる。

ひどく悲しい感情が止めどなく流れ込んでくる。

先程までのそれとはまるで違う。

「これが…最後」

優しく笑う姉ちゃんの目は本音をひた隠しにしている。

その言葉が、何を意味しているかは考えるまでもなかった。

大粒の涙が溢れ出す。

「姉ちゃん…」

「ごめんね、〇〇」

その時俺は初めて、姉ちゃんの涙を見た。

どんな時だって、姉ちゃんは笑っていた。

俺が泣いても、姉ちゃんは笑顔を絶やさなかった。

それに何度救われたことか。

一緒に笑い合うだけで、本当に楽しかった。

けど姉ちゃんの笑顔は、もう見れないんだ。


…………


それから姉ちゃんの行動は早かった。

最低限必要な物だけをキャリーバッグに詰めて、その支度が終わったのは夜が明ける前の事だった。

「本当に、行くのかよ」

「うん」

未だに信じられない。

ついさっきの事じゃないか。

こんなに早く出ていかなくたって…。

それでも姉ちゃんはもう行ってしまうのだろう。

数時間前まで俺に向いていたはずの視線は、もう別の何処かへと向けられている。

淡泊な返事で、それはすぐに分かる。

玄関にいるのは、俺と姉ちゃんと七瀬。

空気はこれ以上ないほどに冷たくて、今にも突き刺さりそうな程に鋭い。

姉ちゃんがさっき見せた涙はとっくに失われていた。

「じゃあね」

最後の言葉は、何とも淡白なものだった。

それでも、これが最後かと思うと枯れたはずの涙が再び沸き上がってきた。

でも、必死に堪えた。

俺が涙を流したら、きっと姉ちゃんも泣いてしまうから。

扉が開いて、閉まっていく。

たった数秒の間に消えてしまった姉ちゃんの姿。

その光景が、その事実が、

どうしようもないほどに、俺を苦しめる。

辺りは真っ暗で、光も射さない。

深海の中にいるようだ。

泳ぐ術も持たない俺は、どうしたらいい?

いっそ、死なせてくれよ。

二人きりになったのを確認した七瀬が、勢いよく抱きついてくる。

「ウチだけ、愛してよ」

何故か七瀬は目に涙を浮かべている。

姉ちゃんを失って心に大きな穴が開いてしまった俺には、その理由が皆目検討もつかない。

そして壁際に押し寄せられて、そのまま唇を貪られる。

「あぁ、もちろん」

何故か思ってもない言葉が湧き出てくる。

心を失うって、こういうことなのかな。

俺にはもう本当の気持ちを吐露する機会なんて二度とやってはこないだろう。

永遠に、
愛する人さえ失った絶望の海で溺れ続けるんだ。

そう悟った瞬間、何故か心は晴れやかな気持ちになった。

目の前に一本の道だけが続いている。

迷う必要は無い。
ただこの道を歩めばいいだけなのだから。

気付けば俺は、七瀬を突き飛ばしていた

「〇〇…?」

まるで状況を理解していない七瀬は、不思議そうに俺を見つめた。

「ごめん、七瀬」


こんな俺を愛してくれてありがとう。

そして、さようなら。


やっぱり俺には、麻衣がいないと駄目なんだ。

すぐさま財布とスマートフォンを手に取って、靴を履く。

それで七瀬は全てを察したのかすぐさま立ち上がったが、玄関の扉を開けて外へと飛び出した俺の手に七瀬の手が届くことはなかった。

「〇〇ッ!!!」

飛鳥、祐希

ごめんな。

お前達は一つも悪くないのに、俺のわがままでこんなことになってしまって。

許してくれなんて、思わない。

憎まれてもいい。

全てを捨ててでも、一緒に居たいと思える人に出会ってしまったから。

愛してしまったから。

どういうわけか七瀬が追ってくることはなかったが、俺にとっては好都合だった。

最低限必要な物をポケットに入れておいたのは正解だった。


“あの時”の俺を信じてよかった。


身に沁むような秋の夜風が身体の中を突き抜ける。

しかし、不思議と寒くはなかった。

姉ちゃんの姿は見当たらない。

とにかく駅の方向へ走った。

ペース配分など考えられる訳もなく、ひたすら全力で走り続けた。

「はぁ、はぁ…」

どこに居るんだよ…麻衣。


───もう、会えないのか?


そんな不安が胸をよぎる。

嫌だ、そんなの絶対に嫌だ。

このままじゃ終われない。

終わっていいわけがないんだ。

走って走って、とにかく走った。

太ももはもうはち切れそうで、

息切れが身体の限界を教えている。

でも…ようやく見つけた。

最愛の人の背中。

俺は大きく息を吸い込んだ。

「───麻衣ッ!!!」

今が明け方であることなんて忘れていた。

目の前にいるあなたを見つけられたことが、何より嬉しくて。

「何で…」

立ち止まって振り返った姉ちゃんは、信じられない、どうしてここに?と言いたげな顔をしている。

しかし姉ちゃんはすぐにそんな表情を打ち消して、再び歩き出した。

「待って!」

手を掴む。

それでもすぐに振り解かれる。

「麻衣っ!!」

後ろから強く抱きしめる。

今度は振り解かれる事はなかったが、俺の腕の中で身体を震わせていた。

すすり泣く声が聞こえてくる。

「何でッ…離してよぉ…!」

麻衣の手が俺の腕に触れる。

麻衣の持つ悲しみが伝わってきて、俺は抱き締める力を一層強くした。

「私達はっ…もう会っちゃダメなの…!

私はもう、この街でだって生きていけない!」

閑静な街に、悲痛な叫びが響く。

「本当は私だって〇〇と居たいよ!

でも…でもっ!私達は…もう一緒にいられない…!」

麻衣の本音も、俺の願望も一緒だ。

それなら何も気にすることなんかないんだ。

「そんなのはどうだっていい!

俺は麻衣と一緒に居たいんだ!!」

麻衣はただただ泣いていた。

俺は優しく耳元で囁く。

「麻衣はどうしたいか、聞かせて?」

「私は…私はっ…!」

嗚咽が続いて、言葉を詰まらせている。

俺は麻衣を振り向かせて、キスをした。

「最後になんて、させないから」

「…ばか」

目に涙を浮かべながらも、麻衣は笑っていた。

「だよなぁ」

「私達、姉弟だよ?」

「それでも愛してる」

麻衣はまだ迷いがあるのか、そっと俯いた。

その目からは、まだ涙が溢れていた。

その涙を優しく指で拭う。


「どうなっても知らないよ?

〇〇の事が好きなあの子達は、きっと探しに来る」


顔を上げてそう言った麻衣の表情は、不安げだった。

確かにこの近辺に二人で居たって、見つかるのは時間の問題だ。

それなら…

「誰も知らない場所に行こう。誰も知らない遠い場所に行って…二人で静かに暮らそう」

麻衣の表情が晴れていくのが分かった。

きっと、二人ならやっていける。

麻衣と二人なら─────

「〇〇…」

「全てを捨てて行こう、麻衣」

「うん…うんっ…!」

涙を必死に拭う麻衣が愛おしくて、再び強く抱きしめた。

自然と目が合う。

少しずつ縮まる二人の距離。

その全てを以て、俺は愛を伝えた。


───────────────


何があっても、

もうあなたを離さない。

世界の全てが敵になったって、俺だけはあなたの味方だから。

頼りのない両腕で抱きしめるよ。

守るから、

隣にいるから。

あなたは一人じゃない。

だからどうか、独りで生こうとしないで。


「愛してるよ、麻衣」

「うん、私もだよ…〇〇」

─────明け方、朝陽が射し込む街の中で俺と麻衣は、永遠の愛を誓った。


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